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獅子王陛下の幼妻  作者: 小鳥遊彩
第四章
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85話「父と娘」

 次に目を覚ました時、時刻は十六時を回った頃だった。

 そんなに眠っていたのか、と驚きながら自分の身体へと意識を向ける。

 たっぷり眠ったお陰か、随分とすっきりしている気がする。


 熱ももう下がったみたい。

 考えてみれば、風邪をひいたわけでもないしウイルスが原因の発熱じゃなかったから、そう長引かなかったのだろう。

 私は空腹を感じていることに気付いた。


 目を覚ましてすぐに起き上がると、陛下に心配をかけてしまうだろうか。

 その内様子を見に来てくれるだろうと思い、寝台に横たわったままでいた私だけど、ある違和感を覚えた。

 家の中があまりにも静かすぎるのだ。

 陛下はそんなに音を立てるほうじゃないとは言え、それでも同じ家にいれば何らかの気配や生活音が聞こえるものだ。

 今こうしている間、そういうものが一切聞こえない。


 何となく胸騒ぎを覚えた私は、ガウンを羽織って部屋から出た。

 そろそろ明かりを灯さないと暗さを感じる時間だというのに、家中の明かりは全て消えたままだ。

 そして、陛下の姿はどこにもない。

 お風呂に入っている、というわけでもなさそうだ。


「……」


 一階のリビングへとやって来た私は、そのまま立ち尽くしてしまう。

 もしかしたら買い物にでも出かけたのかも、と楽天的に考えようとしたけれど、すぐに内なる声がその考えを否定した。

 買い物には、朝一番に行って来たばかりだ。

 陛下が、具合の悪い私を置いて一人で出かけるとも考えにくい。


 私はふらふらと、夢遊病者のような足取りで再び家の中を見て回った。

 よくよく見てみると、あちこちに不自然さが残っているのが見て取れた。

 電子ケトルには半分以上の水が張ってあり、しかもまだ温かさが残っている。

 まるで、お湯を沸かしたきり放置したみたいに。

 それに、キッチンの調理台の上には、切っている途中の林檎が放置されている。

 その近くには、林檎を乗せるつもりだったと思しき小皿がある。

 まるで、ほんの数時間前までここに陛下がいて、いきなり忽然と姿を消してしまったみたいに……。


 そこまで考えた時、私ははっとした。

 これは、私たちがこちらの世界に来た時とまるで同じではないか。

 いや、逆と言うべきか。

 でも、ブラギルフィアに取り残されたアスヴァレンの視点で考えれば、陛下が突然消えたように見えただろう。


「どういうこと?」


 私は思わず声に出したけれど、もちろんそれに答える者はいない。

 あまり考えたくはないものの、陛下が自分の意思でどこかに行ったと考えるより、何らかの力が作用して転移した……いや、させられたと考えるほうが自然だろう。

 実際、私はそれを二回経験している。


「でも……」


 ……転移したとすれば、いったいどこへ?

 それに、何らかの力とはいったい何か?


 無事にブラギルフィアへと辿り着けたなら、まだ良い。

 でも、そのブラギルフィアは陛下が知っているブラギルフィアだろうか?

 数十年、あるいは数百年経過している可能性もなくはない。

 考えたくはないけれど……ブラギルフィアではない、陛下自身も知らない場所に着いてしまったら?


 私たちが認識できる世界は広大な海に浮かぶ島のようなもので、その海こそが深淵と呼ばれる領域だとアスヴァレンは話してくれた。

 海を渡った先には別世界があると言われているけれど、そもそも深淵を五体満足で渡り切れる者は少ないとも……。

 

 ぞっとするような恐怖が込み上げてくる。

 陛下はいったいどこに?

 いったいどうして?

 まさか、私が……?


 もし、このまま二度と陛下に会えなかったら……。

 悪い考えばかりが浮かび上がり、私の思考を侵食すると共に視界が滲んだ。

 とても冷静にものを考えるなんてできない。

 その時、玄関が開く音が聞こえて、私は弾かれたように振り返った。


「陛下!」


 相手の姿を確認せぬまま叫んだけれど、予想外の人物を前にして固まってしまう。

 次いでやって来たのは、落胆と困惑だった。


「あ……せ、先生……」


 そう呟いた声は、消え入りそうなほど掠れていた。

 後ろ手に扉を閉め、玄関先にたっている人物は長瀬先生だった。

 最近も、たまに顔を覗かせることはあっても、私たちと積極的に関わりたいという様子はなかった。


 故に、今の生活基盤を築いてくれたのが彼だということは忘れていないけれど、今の状況にただ甘んじていたのだ。

 もちろん、そうしていたのは私なりの理由がある。


「やぁ」

「……先生」


 何か言わねばと口を開きかけたものの、言葉が出て来ない。

 どう説明すれば、あるいは何を尋ねればいいのだろう。

 そうしている間に、先生は「よっこいしょっと」と言って家の中へと上がった。

 そして、周囲に視線を巡らせる。

 まるで、自分にしか見えない何かを見つけるかのように……。


「やっとエルくんを帰してあげたんだね」

「は……」


 思わず口を突いて出た言葉は、自分でも殆ど聞き取れななかった。

 どういう意味なのか、と問いたかったけれど声を発することができない。

 代わりに、相手の目をじっと見つめる。

 彼は茫洋とした表情を浮かべていて、その裏側にある感情までは読み取れない。


 何だか、水のような人だと感じた。

 色も形もはっきりせず、掴み所がない。


「陛下はいったいどこに行ってしまわれたのですか? ご無事なのでしょうね?」

「全ては君次第さ」

「え……?」


 簡潔な、けれども要領を得ない答えに眉を顰めた。

 私次第、とはいったいどういうことだろう。

 そういえば、さっきも「帰してあげた」なんて言ったっけ。

 それだとまるで、私が今まで陛下を引き止めていたみたい……。


 そこまで考えたところで、はっとした。

 まさか、そんな……でも、もしかすると……。


 様々な思考が脳内を駆け巡り始める。そんな私を見つめながら、先生は唇の端を持ち上げた。


「やっと気付いたようだね」

「……『気付いた』? それじゃあ、やっぱり……」


 私には、思うがままに時空を渡る能力がある……筈だ、と確信に近いものを抱いている。

 それに、母は私が大きくなれば、その能力で自分も一緒にブラギルフィアに連れて行ってくれるだろうと話していた。


 だとしたら、私が陛下をこちらの世界に連れて来たということは十分に有り得る。

 何しろ、あの時の私は陛下と離れたくないという思いでいっぱいだったのだから。

 だったら、陛下が忽然と姿を消したのも、私の意思で陛下を元の世界へと送還したから……?


 私は詰めていた息を吐き出すと共に、半ば崩れるようにしてソファへと腰を下ろした。

 安堵を覚えると共に、全身の力が抜けて立っていられなくなった。


 意図的にその能力を行使したという自覚はないけれど、空間に綻びができていれば気付いた筈だ。 

 ということは、陛下は深淵に呑まれたのではなく、私が転移させたと考えるのが妥当だろう。


 陛下は無事だ、絶対に。

 私は自分にそう言い聞かせた。

 だって、私が陛下の身を危険に晒すなんてあり得ないもの。


 それからゆっくりと顔を上げ、長瀬先生と向き合う。

 彼は相変わらず茫漠とした表情を浮かべていて、何を考えているかわからない。

 私は何を言うべきか迷って、それから「エルくん」と独白のように呟いた。

 先生は何の反応も示さない。


「……思えば、先生は最初からずっと彼のことをそう呼んでいましたね。その愛称は、いったいどこから出て来たのですか?」


 私は、陛下のことを一度もそう呼んだことはない。

 なのに、先生は当たり前のようにその愛称を使っていた。


 それに、再会した時から先生の態度はあまりにも不自然すぎる。

 十年以上も前に行方不明になった元教え子、しかも担任を務めた時期は一ヶ月にも満たないのに、顔など普通は覚えていない。

 仮に覚えていたにしても、もっと驚くなり問い質すなりする筈だ。


 何より、先生が陛下を見つめる目だ。

 アスヴァレンが陛下に向けるのと同じ目をしていた。

 かけがえのない、心から愛する存在を見つめるかのような。


「君だって、もう気付いているだろう」


 穏やかな、それでいて無機質で硬質な声で先生は言った。

 私は小さく嘆息する。

 先生の……彼の言う通り、その正体についてはとっくに察しが付いている。

 今まで敢えて触れなかったのは、特にその必要性を感じなかったから……。


 いや、違う。

 今なら、自分自身の本心がはっきりとわかる。

 私は今の生活を楽しんでいた。

 いつまでも続くものではないと思いながら、その現実からを背けると共に、陛下を縛り付けていたのだ。

 元の世界に帰す方法がわからないのだから仕方がない、という理由を言い訳に。

 長瀬先生の不自然さに触れなかったのも、この仮初めの日常を乱したくなかったからに他ならない。


 私は少しだけ苦笑して、長瀬先生……そう名乗る男を見た。

 こうして改めて見ると、長瀬先生とは別人だとわかる。姿形こそ長瀬克也その人だけれど、明らかに彼の外見だけを真似した別の存在だ。


「ええ、仰る通りです。初めまして……いえ、改めましてと申し上げるべきでしょうか? ……お父様」


 私の慇懃な言葉に、長瀬先生……いや、父ことアルヴィースは僅かに首を傾げた。

 それから、数拍置いた後に口を開いた。


「永い時を経て、やっと会えたね。我が最愛の娘よ」


 親愛なる父ことアルヴィースは、まるで台本を棒読みするかのような声で言った。


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