82話「悪魔の所業」
確かにクラヴィス=クレイスの部屋に入った筈、だ。
なのに、ここはいったい……?
目の前に広がる光景を一言で表現するなら、窓のないだだっ広い部屋だ。
とは言え、天井が低く、しかも一定間隔ごとに簡素な寝台が置かれているため、息が詰まるような圧迫感がある。
……いや、息苦しさの正体は、この場所の性質そのものだろうか。
私の視界を埋めるいくつもの寝台は、それぞれ使用者がいる。
使用者、と言ってもいずれも既に息がない。死体だ。
つまりここは、死体安置所ということだろうか。
所々に設置されたランプだけが、この場所における光源だ。
私から最も近くに場所に置かれた寝台、そこに横たわる遺体が視界の端に映った。
本来なら直視したいものではないにも関わらず、そちらに視線を向けずにはいられなかった。
まだ真新しい、けれどもいくつもの損傷が刻まれたその遺体は、壮年の男だ。
鎧を身に着けていることから、騎士か兵士だろうか。
私の目を引いたのは、彼の眉間から左目にかけて刻まれた生傷だ。
あの湿地帯で、私に斧を振り下ろした鎧ゾンビの姿が脳裏に浮かび上がった。
あの鎧ゾンビにも、全く同じ傷跡があった。
それに、彼が身に着けている鎧まで酷似している。
まさか、この男は……。
私が考えを中断したのは、あの少年が近くまでやって来たからだ。
彼は身振りで私を奥へと促そうとしている。
いったい奥には何があるのだろうか。
彼の後に続きながら背後を振り返ると、やはりというべきか、私たちが入って来た扉は跡形もなく消えていた。
少年に続きながら、死体安置所の更に奥へと進んで行く。
その間、何体の遺体の側を通り過ぎただろうか。
明らかに死んでいるにも関わらず、くぐもった呻き声を漏らしたり、何かに縋るように手を伸ばす遺体もあった。
思った通り、あの湿地帯にいた鎧ゾンビたちは、ここにある遺体から「創造」するようだ。
あるいは、今現時点でゾンビ化が進んでいるのだろうか。
やがて、開けた場所に出た。
この辺りには寝台がなくて、代わりに小さな舞台のように小高くなっている。
あるいは祭壇だろうか。
少年は、その小高い場所へと続く階段の前で立ち止まった。
その時、不意に私の脳裏にあるイメージが浮かび上がった。
前に見た夢の中でも、こんな祭壇のような場所を訪れたことがあった。
少年は一瞬だけ黙祷を捧げる仕草をして、それから段数の少ない階段へと足をかけた。
肩越しに私を振り返り、自分に倣うように身振りで示す。
困惑し、立ち竦む私に彼は苛立った顔をする。
見たくない、というのがこの時の私の嘘偽りない気持ちだ。
私には、階段を登った先に何があるのか想像がついた。
いや、わかってしまった。そして、それと対面するのがとても怖い。
少年が何かを叫ぶように口を動かす。
私を非難しているのだろうけど、足が竦んでしまってどうしても動けない。
……それでも踏み出す勇気を持てたのは、別に彼に心動かされたからではない。
出会ってから今に至るまで、陛下が私に見せてくれた様々な表情を思い出したからだ。
私を優しく見つめる金色の双眸。
私がブラギルフィアに留まることを許そうとはしなかったけれど、全ては私を思ってのことだった。
禍女と化した鈴木サヤカに殺されかけた時も、見知らぬ連中に強姦されそうになった時も、いつだって私を助けてくれた。
……母が亡くなって以来、私に優しくしてくれた人は陛下以外にいなかった。
そして陛下のことを想う度、彼にかけられた呪いを、左腕に纏った黒い靄について考えないわけにはいかない。
長きに渡って陛下を苦しめ、そして私たちの未来を阻む黒幕とも言える忌まわしき呪い。
それに関わる重要なヒントがこの先にある、私はそう確信していた。
どんなものと対面するのだとしても、ここで逃げるわけにはいかない。
私は意を決して階段を登り、その先にあるものを見た。
階段の上に置かれているのは棺だった。
それは、陛下を模した人形が横たわっていた棺と全く同じだ。
相違点はただ一つ。
「……っ」
私は思わず息を呑んだ。
予想以上のショックに、息苦しさを覚えると共に、足元から崩れそうになってしまう。
それでも両の足でしっかりと立ち、改めて棺の中身を見据える。
棺に横たわっているのは、思った通り陛下だ。
けれど、今度は人形ではない。
「……は……っ」
私は大きく息を吐きながら、落ち着けと自分に言い聞かせる。
これは、陛下ではない。
……陛下であって、陛下ではないのだ。
陛下本人であってなるものか。
それは、陛下にそっくりな男性の遺体だった。
いや、そっくりどころか、まるで複製だ。
あの人形も悪趣味極まりないと思ったけれど、それすらも非ではない。
元は美しい装飾を施した甲冑だったのだろう。
けれども、見る影もないほどに損傷が激しく、それは甲冑の下にある肉体も同じだ。
顔こそ傷一つなく綺麗なままだけど、「彼」の肉体には数多の刺し傷や切り傷が見受けられる。
大小様々ながら、その殆どが骨まで到達しているようだ。
息絶えてからも複数人による攻撃を止めなかったのかもしれない、どれが致命傷となったのかもわからない。
中でも、左腕が特に酷かった。
肉が抉れて骨が露出して、手指は原型を留めないほどに拉げている。
今にも肩口から離れてしまいそうで、在るべき場所になければ腕だとわからなかったかもしれない。
途端に視界が歪んだ。
気付けば、私の両目から涙が溢れ出していた。
瞬きを繰り返して押し留めようとする努力は徒労で終わり、決壊した涙が頬を濡らす。
私の意に反して、喉から嗚咽が零れる。
これは陛下なんかじゃない、これは陛下の身に起きたことじゃない、何度もそう言い聞かせているのに、自分の感情を納得させることはできなかった。
「どうしてこんな酷いことが考えられるの?」
思わずそう口に出していた。
これまで私が見た夢……あの悪趣味な人形劇や魑魅魍魎が跋扈する湿地帯、それにこの死体安置所も、クラヴィス=クレイスが関与していることは疑いようがない。
いや、それどころか、この空間を……この世界を、彼女が創り出しているのだ。アトロポス王女という架空の人格を生み出したように。
ここは彼女の精神世界、あるいはそれに類似したものだ。
だとしても、彼女が何を考えているのか私には理解できない。
アトロポス王女は……クラヴィスの別人格は、エレフザード陛下が彼女のことを想い続けていると言った。
陛下に愛し愛される空想に耽るなら、許せないとは言え、まだ理解できないこともない。
なのに、陛下が壮絶な最期を迎えた場面をこんなにもリアルに想像するなんて、悪趣味を通り越して悪魔の所業だ。
少年は静かに棺へと歩み寄り、その傍らに寄り添った。
私は彼に険しい目を向ける。
「いったいどういうつもりなの? 私にこんなものを見せるなんて、それ相応の理由があるのでしょうね?」
自分の声が届かないと知りながら、そう言わずにはいられなかった。
少年は特に臆するでもなく、周囲へと視線を巡らせた。
何となくその視線の先を見て、それから息を呑んだ。
一定距離を置いているものの、虚ろな目をした数人の兵士が私たちがいる場所を取り囲んでいる。
どうやら、寝台に横たわっていた亡骸が起き上がって私たちを取り囲んでいるようだ。
彼らの肉体はまだ生前に近いもので、つまり鎧ゾンビの初期段階ということか。
少年は彼らに忌々しい目を向けながら、小さく舌打ちをした。
何だか酷く焦っているように見える。
少年は私を鋭く振り返り、何かを訴えるように勢い良く口を動かし始めた。
やはりその声は私の耳には届かないけれど、表情や纏う雰囲気、それに……先ほど「陛下」に向けた眼差しから彼の想いを汲み取ることができた。
多分きっと、彼は……。
私は口を開き、言葉を紡ぎかけて……違和感に気付いて、はっと顔を上げた。
声が出ない。
どうやっても、呼気が漏れるばかりで言葉を発することができない。
しかも、それだけには留まらず、私の身体が透け始めている。
少年もまたその異変に気付き、一層のこと焦燥に駆られて私に訴えかける。
わかった、必ず、声を限りにそう叫んだつもりだったけれども、やはり声にはならない。
だとしても、彼に私の考えは伝わっただろうか。
それを確かめる術がないまま、私の視界が白く染め上げられて何も見えなくなった。
この世界との繋がりが絶たれる、そう思ったのを最後に私の意識は深い淵へと沈んで行った。
「ん……」
水面へと顔を出すように、意識がゆっくりと浮上する。
まず視界に飛び込んで来たのは、すっかり見慣れた天井だ。
いつの間にか、私は自分の部屋のベッドの中にいた。
二人ではやや手狭だけど、こうして一人で寝そべっている分には広々としている。
ここに至り、私は隣に陛下の姿がないことに気付いた。
明け方近く、陛下に着衣を整えてもらった記憶が朧げに残っている。
実際、今の私は洗い立ての寝間着に身を包み、寝具も綺麗に整えられた状態だ。
一抹の寂しさを感じるけれど、その代わりに、先ほどまで見ていた「夢」について想いを馳せることができる。
何もかも鮮明に覚えている。
私の肉体はずっとここにあった筈なのに、まるで肉体ごと別の場所にいたみたいに、沼地に降る雨の冷たさや、鎧ゾンビたちの耳障りな呻き声、カボチャ頭に絞殺されかけた時の苦しさを全て覚えている。
そして、「陛下」と対面した時の視界が真っ暗になるような絶望感も……。
「……ふ、ぅ……っ」
鮮明な記憶が蘇り、思わず嗚咽が込み上げて来る。
何とか押し留めることができたのは、玄関が開く音が聞こえたからだ。
誰かしら、と思ったのは一瞬のこと。
家の中に入って来た人物の足音、それを聞いただけですぐにわかった。
私は目尻に滲んだ涙を拭うと、ガウンを引っ掛けて部屋から出る。
そこで、階段を上がって来る途中の陛下と対面した。
「美夜?」
階段の半ばで足を止めた陛下は、安堵の表情を浮かべた。
そのまま残りの段を上り、私の側へと来てくれた。
「良かった、目が覚めたのだな。明け方に魘されていて、しかも熱まで……」
その言葉は最後まで続かなかった。
陛下の顔を見て、声を聞いた時から何も考えられなくなった私は、勢い良く彼に抱き着いた。
当然ながら、そこには確かな温もりを感じることができた。
血の通った、生命の温もりそのものだ。
あの悪夢の……いや、夢であって夢ではない記憶の忌まわしい残滓を、その温もりが溶かしてくれる気がした。




