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獅子王陛下の幼妻  作者: 小鳥遊彩
第四章
80/138

79話「天国から迷宮へと」

 枕元の電気スタンドだけを残し、明かりを落とした部屋に衣擦れの音が響く。


 ベッドへと上がった私たちは、互いに身を寄せ合った。

 寝間着越しに、陛下の体温と鼓動が伝わってくる。

 私だけでなく、陛下も緊張しているのだと思うと、そのことに勇気付けられる気がした。


「美夜」


 陛下が私の名を呼ぶ。

 ここから先は完全に未知の領域だけど、もう何も不安に思うことはない。


 私は瞳を閉じ、身も心も全て陛下に委ねた。




 微睡みの中を揺蕩いながら、心地良い重みを感じる。

 私の身体の上に添えられた、陛下の腕の重みである。

 私は顔を伏せたまま、陛下のほうへと更に身を寄せる。

 同時に、私の身体に添えた腕に力が入るのを感じた。


 掛け布団の下、何一つ纏わぬ身体を合わせながら互いの体温を分け合う。

 これに匹敵する心地良さが、この世にどれほどあるだろうか。


 少なくとも、私が知る限りでは一つしか思い付かない。


「……」


 ほんの少し前のことを思い出すと、顔が赤らんでしまう。

 昨夜は、端的に言って最高の一言に尽きる。

 期待以上というか、私の想像など遥かに凌駕していた。


「美夜、身体は大丈夫か?」


 穏やかな声が頭上から降って来た。

 その声音さえもが耳に心地良く、私は顔を伏せたまま頷いた。

 すると、陛下が笑う気配があった。


「……そうか。無理をさせすぎたのではないかと、心配していた」


 今度は首を左右に振る。

 ……まぁ、少々刺激が強すぎた感は否めないけれど、他ならぬ私自身が望んだことだ。

 後悔などある筈がない。


 それどころか……。


「夜明けまでまだ時間がある。それまで、眠りなさい」


 陛下はそう語り掛けながら、優しく頭を撫でてくれる。

 愛する人の温もりと共に、心地良い眠気が私を優しく包み込み、自然と夢路へと誘われる。

 けれども、今、眠気に抗してでも伝えなければいけないことがある。


「陛下……」

「ん……?」

「その、目が覚めたら……も、もう一度……」


 陛下の引き締まった胸に頭を寄せながらそう口にすると、鼓動が少し速くなるのが感じられた。

 それから、彼は私を抱き寄せて言った。


「ああ。幾らでも」


 その言葉に安堵の笑みを零し、今度こそ私は意識を手放した。






 陛下が……陛下を模した悪趣味な人形が瞳を開いた瞬間、私は思わず身構えた。

 けれども、いつまで経っても何も起こらない。

 訝しく思った次の瞬間、それは吃驚へと変じた。


 目の前の棺に横たわっていた筈の人形が、いつのまにかなくなっている。

 目を離したわけでもないのに、まるで雲散霧消してしまったかのようだ。

 周囲を見回しても、あんな大きな人形を隠せる場所などないのに、どこにも見当たらない。


 ここに至り、私は前に……十一年後の日本へと戻った日に見た、例の夢の中にいるのだと悟る。

 では、これはあの夢の続きということ?


 そう思った次の瞬間、気付けば全く違う場所にいた。

 そこは赤を基調にして所々に金糸を織り込んだ、広々とした空間だった。

 円の一部分だけを切り取って辺にした円柱型に近い形状で、その辺に該当する部分は舞台のようで、厚いカーテンがかけられている。


 その昔、母がまだ健在だった頃に訪れた海外のオペラ座に酷似した場所だ。

 床部分はもちろん、壁も座席で埋め尽くされている。

 私は、平土間ホール前から三列目の中央に近い席付近にいた。

 周囲を見渡すと、席は全て埋まっていて、誰もが着席したまま微動だにしない。

 立っているのは私だけなのに、誰一人としてそれを気にする者はいない。


 言い様のない違和感にぞっとした時、隣に座っているのがよく見知った人物だと気付いた。

 アスヴァレンだ。

 彼は、目元から鼻の上部までを覆う豪奢な仮面を装着して、真っ直ぐに舞台を見つめている。


「アスヴァレン!」


 異常なまでに静まり返った空間に放った声は、それほど響かなかった。

 まるで、虚空に吸い込まれたようだ。

 それでも隣にいるアスヴァレンには聞こえていない筈がないのに、彼は何の反応も見せない。

 何だか様子がおかしい。

 仮面から覗く双眸は、まるで硝子玉のようだし、そもそも生気のようなものが全く感じられない。

 それこそ、アスヴァレンを模した人形のような……。


 この時になり、私は「それ」がアスヴァレンではないことに気付いた。

 人形のような、ではなくまさに人形そのものだった。

 ましいぐらい精巧にアスヴァレンを模しているけれど、あくまで無機物に過ぎなかった。

 その肌も髪も目も、何もかも作り物だ。


「何、これ……」


 言い様のない寒気が、足元から這い上がって来た。

 ある可能性に気付いた私は、勢い良く顔を上げて再び周囲に視線を巡らせた。


 座席を埋め尽くす、人、人、人……そこには男もいれば、女や子供もいる。

 その中に、シルウェステルやマルガレータといった私の見知った顔も見つけた。

 彼らに共通しているのは、仮面を着けていること、そしていずれも人形であることだ。

 今、この広い空間に、生きている人間はおそらく私しかいない。


 唐突に、複数の楽器による演奏が鳴り響いた。

 びくりとして音が聞こえたほう、つまり前方に設置された舞台を振り返った。

 カーテンがゆっくりと巻き上がり、そこから眩い光が漏れる。

 私が呆然としながらその様子を眺めている内に、舞台の全貌が露わになった。


 瀟洒な城を模したその舞台は、明らかにブラギルフィア城をモデルにしているのだろう。

 その舞台に立つのは、二人の男女。

 もっと正確に言うのなら、幼い男の子と若い侍女だ。

 男の子は美しい金髪で、驚くほど綺麗な顔立ちをしている。

 私には、その子供が幼少期のエレフザード陛下なのだと一目でわかった。

 侍女は、まだ十代と思しきクラヴィスだ。


 ……予想していたことだけれど、二人とも生身の人形ではない。

 人形だ。

 彼らを操る糸が天井から伸びているものの、天井近くには闇が蟠り、操り手の姿は見えない。

 演奏の音が控えめになると同時に、芝居が始まる。


『クラヴィス、どこに行っていたんだ。探したのだぞ』

『ああ、王子様、ごめんなさい。陛下に呼ばれていたんです』

『父上が? いったい、どういう用で……いや、いい。それより、早く行こう』

『はいはい』


 幼い陛下がクラヴィスの手を引き、退場していく。

 そこに、別の侍女を模した二体の人形が現れる。

 彼女らは、二人が去った方向に視線を向けながら噂話でもするように言った。


『ねぇ、知ってる? あの新人、すっかり王子を手懐けたらしいわよ』

『あらあら、まぁまぁ! 確か四つ差だっけ? まさか時期お妃様の座でも狙ってるのかしら?』


 口さがない、それでいて実にわかりやすい陰口だ。

 そこでその場面は終わったらしく、突如として場面が切り替わった。

 普通の舞台なら幕が下りて、その間に次の場面の準備が始まるところだけど、そういった「間」は一切なく文字通り瞬時に切り替わったのだ。


 次は豪奢な寝室だ。

 そこには、侍女クラヴィスと共に威厳を漂わせた壮年の男性がいる。

 私には、人形であってもこの男性が誰なのかすぐにわかった。

 先代ブラギルフィア国王、つまり陛下のお父上だ。間違いなく陛下の面影が感じられる。

 先王は、どうして国王の部屋に呼び出されたかわからない様子の侍女に話しかける。


『王子はもう寝たのかね?』

『はい、先ほどお休みになられました』

『もう十になろうというのに、未だにお前の添い寝がないと駄目だと聞く』

『慕っていただいて嬉しい限りです』

『しかし、今日は私の寝物語に付き合ってもらおうか。お前と枕を共にすればよく眠れそうだ』

『え? それって……』


 二人の遣り取りはそこで途絶え、次は幼い陛下が一人だけの場面に変じた。

 陛下は項垂れながら、気落ちした様子で言葉を紡ぐ。


『クラヴィス、どうしていなくなってしまったんだ』




 またしても場面が転じた。

 舞台にいるのは、十代前半ほどの少女の人形だ。

 彼女には見覚えがある。

 以前、クラヴィス=クレイスの部屋で見たアトロポス王女と全く同じ姿をしている。


 ただ、あの時見た人形が五十センチ程度だったのに対して、今舞台の上にいるのは人間の少女と変わらぬ背丈だ。

 人形は観客に向けて語り掛ける。

 そういえば、どうやって声を出しているのだろう?


『私はアトロポス。実は先代ブラギルフィアの娘なのですって。最近、私のお兄様を名乗る方からの手紙でそのことを知ったの。お兄様は私とお母様をお城に迎えてくださると言うけど、お兄様は本当にお母様を大切にしてくださるのかしら?』


 そこに、白衣を纏った黒髪の男が現れた。

 アスヴァレンだ。

 ふと気になって、隣の席に座っていたアスヴァレンを横目で伺うと、彼はいつのまにか姿を消している。

 ずっと舞台に集中していたとは言え、隣に座った者(人形だけど)が立ち上がれば気付かない筈がないのに、そんな気配は全くなかった。


 ……いや、気にするのは止めておこう。

 どういう原理かはわからないけど、ここはそういう「世界」なのだ。

 この「世界」の特徴として、観客は仮面を着けるものという決まりがあるらしい。

 舞台に立ったアスヴァレン人形は、さっきまで着けていた仮面を外している。

 かく言う私も、客席にいるにも関わらず仮面を着けていない。

 そうか、私は役者でも観客でもない完全な部外者なのだ。


 舞台に立ったアスヴァレンは、アトロポスに話しかける。


『初めまして、かわいらしいお姫様。僕はこの国の錬金術師だよ』

『ねぇ、錬金術師さん、貴方はお兄様と仲良しなの? だったら教えて、お兄様のこと。お兄様は、お母様を大切にしてくださるの?』

『ああ、間違いないよ。だって、王様は君のお母様が大好きなんだからね。お母様はお身体が弱いとのことだけど、医者でも薬でも、最高のものを用意してくれるさ』

『ああ、よかった。それを聞いて安心したわ』



 場面が変わった。

 次は、ブラギルフィア城の一室に陛下とクラヴィス、それにアトロポス王女がいる。

 陛下は母子と向かい合い、彼女らを歓迎する様子を見せた。


『クラヴィス、今の今まで迎えられなくてすまなかった。そして、アトロポスを……妹を、ここまで育ててくれてありがとう。これからはずっとここにいてくれ。君たちは、俺の大事な家族だ』

『ああ、陛下、お久しゅうございます。こんなに立派になられて』


 言葉を交わしながら、互いに見つめ合う陛下とクラヴィス。

 アトロポスは、そんな二人から離れて観客たちのほうへ歩み出た。


『侍女たちが噂しているわ。お兄様の初恋はお母様で、しかも今でもお母様のことが好きなのですって。でも、お兄様はご自身のお立場を考えなければいけないわ。お母様もそうお諫めになるのだけど、お兄様は聞き入れてくださらない。それだけ、お母様への想いが深いということかしら』



 場面が変わった。

 今度は、比較的質素な寝室だ。

 そこは、寝台に横たわったクラヴィスと、彼女を見守るように佇む陛下とアトロポスの姿がある。


『クラヴィス……』


 沈痛な面持ちで項垂れる陛下に、アトロポスが声をかける。


『お兄様、どうかお気を強く持って。お兄様が落ち込んでおられたのでは、お母様も安らかに眠れません』

『俺は、死に際に立ち会うことさえできなかった』

『お母様が望んだことです。お母様は、日に日に弱り行く姿をお兄様に見せたくなかったのです。どうか、わかってあげてください』

『お前は余所事のように言うのだな。自分の母親のことだろう?』

『だって、お母様は涙が嫌いでしたから。だから、私もお母様のために絶対に泣かない、くよくよしないと決めたのです』

『そうか……お前は強いな。それに比べて、俺は……』

『お兄様……』


 そこで、陛下は不意に顔を上げた。

 アトロポスとの距離を詰めると、彼女の肩を強く掴む。


『お前は何があっても俺から離れるな。俺の目が黒い内は、結婚などさせない。お前をどこにも行かせてなるものか……』

『お兄様……わかりました』

『本当か? 本当に、本当だろうな?』

『はい、誓います』


 そこで二人は……兄と妹は、長い口付けを交わした。



「何よ、これ……」


 私が無意識の内に呟いた声音は、自分の声ではないみたいに掠れている。

 座席に着くことも忘れ、今の今まで舞台から目を離せずにいた。

 マグマのような怒りが胸の内に沸き立ち、静まってくれそうにない。


 けれども、そんな私にお構いなしに舞台は進行する。

 再びアトロポス王女によるモノローグの場面だ。


『ああ、お兄様、何て綺麗で脆い心なのでしょう。私が側にいてあげなければ、この人は容易く崩れてしまう。そう思い、私はお兄様の側に在ることにしたのです。もちろん、私の結婚に関する話も舞い込んできました。でも、私がいなくなった後の兄を想像するのが怖い』


 そこで言葉を切ると共に、アトロポスに当たっていた光が薄れる。

 代わりに、先ほども登場した二人の侍女が再び舞台に現れて、光が彼女たちの姿を浮き上がらせる。


『ねぇ、聞いた? アトロポス様の理想の男性像!』

『ええ、ええ、聞いたわよ! 何でも、お兄様のような男性のところでなければ嫁ぎたくないとか何とか』

『あらあら! それじゃあ一生独身決定じゃないの』

『全くだわ。やれやれ、クラヴィス様もとんだ穀潰しを遺してくれたもんだわ』


 再び光がアトロポスの姿を浮かび上がらせる。


『口さがないことを言う者もいたけれど、私は卑しい噂など全く気にしなかった。それより、お兄様の体面を保ってあげることが何よりだったから』


「いい加減にしなさいよ」


 アトロポスが言葉を切ったタイミングで、劇場内に鋭い声が響いた。

 言うまでもなく、私である。

 私は中央の通路を進み、乱暴な足取りで舞台のほうへと歩みを進めた。


「さっきから黙って聞いていれば! いったい何なの、この茶番は?」


 アトロポス王女は何も言わない。

 口を噤んだまま、その硝子玉の双眸を私に向けている。


「今、ここで演じたことは全て嘘偽りばかりだわ。誰がこんなくだらない脚本を書いたのよ?」


 相変わらず彼女は何の反応も示さない。

 否、アトロポスだけではなく、他の役者も、観客の誰も何も言わないし微動だにしない。


 怒りとくだらなさとが綯交ぜになった感情が、私の胸中で渦巻いている。

 ここはいったいどこで、何のために、あるいは誰のために存在する場所なのか。

 その時、私は重要なことを思い出した。

 びし、とアトロポスを指差す。


「そもそも、貴女の存在自体が嘘偽りそのものでしょう? エレフザード陛下に妹などいない。アトロポス王女は架空の存在……クラヴィス=クレイスの狂った妄想の産物。本物のアトロポスは男で、既に死去した後よ」


 息継ぎする暇も惜しく、一気にそれだけを言い切った。

 息を切らせる私の見ている前で、アトロポスが口を開いた。

 そこから、呼気と混ざり合った声が零れる。


「……ア、アァ――……」


 それは、今まで台詞を読み上げていた「声」とは違った声に思えた。

 思わず身構える私の前で、アトロポスは甲高い声を放った。

 いや、果たしてそれは声だったのだろうか。


「……ッ!」


 耳をつんざくような甲高い声……あるいは音に、私は身を竦ませると共に耳を塞いだ。

 鼓膜を突き破らんばかりに響く。


 次の瞬間、空間が砕けた。


「なっ……」


 床も壁も、全ての座席も、天井に描かれた壮大な絵も。

 何もかもが、まるで硝子でできていたかのように砕け散る。

 砕けた先には深淵の闇が広がるばかりだ。


 投げ出された私の身体は、そのまま闇へと呑み込まれた。



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