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獅子王陛下の幼妻  作者: 小鳥遊彩
第四章
78/138

77話「俺の恋人はかわいいな」

 一頻り終わった後、私は半ば呆然自失状態になりながら陛下の胸に頭を預けていた。


 緊張や高揚、そういったものが上限まで達し、それから一気に緩んだ。

 そして今に至る。


「美夜、大丈夫か?」


 陛下の言葉に、私は面を伏せたまま首を左右に振った。

 動揺した気配が伝わって来て、それから数拍の後、頭を抱き寄せられた。


「……すまなかった」


 その謝罪に対しても何も答えない。

 いや、正確には何も答えられなかった。


 何と言うか、はっきり言って脳の処理速度とか容量とか、そういうものを軽く超えてしまった。

 そんな訳で、今の私はオーバーヒート状態にある。

 私は自分のことをあまり物事に動じないほうだと認識していたけれど、案外そうでもなかったみたい。


 アスヴァレンの言葉を借りて言うのなら、あの後、私たちはイチャイチャし続けた。

 より正確に言うと、途中からは私のほうが一方的に翻弄されていた。

 キス以上のことは何もしていないのだけど……それにしたって、私にとっては未知の世界だった。

 まさかあんなにも……いや、具体的に思い出すのは止めておこう。


 陛下が小さく笑う気配があった。

 彼は私の頭を抱き寄せたまま、空いているほうの手を顎に添えて上向かせた。

 陛下と目が合った瞬間、心臓が大きく跳ね上がった。


「な、なっ……」

「美夜は……俺の恋人は、かわいいな」


 そう言いながら、親指を私の唇に這わせる。

 私はと言えば、顔を背けることもできず、低く唸りながら視線を泳がせることしかできない。

 一拍遅れて、恋人という表現に気付いて視線を持ち上げた。


「恋人、って……」

「ああ」


 陛下は小さく頷くと、ついっと視線を明後日の方向へと向ける。

 それから、独白のように呟いた。


「……改めて口にすると、くすぐったいな」


 どこか照れたような口調、そして表情だった。

 ……あまり、そういう顔をしないでいただきたい。

 かわいい、と思ってしまいかねないから。


「婚約者ではないのですか」


 自分の内心を誤魔化すように尋ねると、陛下は「いや……」と言葉を濁した。

 視線を虚空に彷徨わせたまま、躊躇いがちに言葉を紡ぐ。

 想いを通わせたその日に婚約者を名乗るというのは、現代日本の感覚なら気が急きすぎだろうけど、陛下の立場を考えればそう不自然ではない。


「まだ正式に報告はしていないとは言え、立場上は確かに婚約者だ。しかし、その……」

「しかし……何でしょう?」


 そう追及しても、陛下はすぐに答えようとしなかった。

 先ほどからずっとやり込められっぱなしだった私だけど、これでやっと形勢逆転である。

 別に主導権を握りたいとかそういうわけじゃないけれど、単純に彼が濁している部分を聞きたくて、その先を促すように真っ直ぐ見つめる。


 ついに根負けしたか、陛下は嘆息した。

 ……と思いきや、その直後、不意打ちで口付けられた。

 ほんの一瞬だったとは言え、完全に虚を突かれて唖然としている私に陛下は言った。


「婚約者は、あくまで法に則った立場を表す肩書きに過ぎない。恋人というのは法的な拘束力はないが、それ故に、より特別な存在という気がしないか?」

「えっ? そ、それは、確かに……」


 話を振られて、思わず頷いた。

 正直なところ、私は友達とか恋人いった曖昧な人間関係があまり好きではなかった。

 それらの関係性は、夫婦や親子のような明確な基準、つまり法的な根拠はなく各自の主観に委ねられると言う不安定なものだから。


 でも、ここに至って恋人というのも悪くない、むしろ素晴らしい、そう思えて来た。

 法的な拘束力がなく、各自の心に委ねられる関係性というのは、陛下の言う通り特別感がある。


(陛下が私の恋人で、私が陛下の恋人で……)


 改めて認識すると、全身の血が顔に集中するかのように火照ってしまう。

 それに、まるで足が地に着いていないかのように、フワフワした気持ちで落ち着かない。

 そうか、これが気持ちが舞い上がるということなのか。


「ああ、何だか……」


 陛下が詰めていた息を吐き出すように言った。

 不思議に思って彼を見上げた瞬間、どきりとした。


 綺麗だな、と改めて思う。

 陛下の美々しさについてはもちろん以前から認識していたけれど、改めてその事実に気付いたというか、一層のこと磨きがかかった気がした。

 そこで、私はあることに気付いた。

 陛下は、何やら憑き物が落ちたような顔をしている。

 以前の彼が憂いを帯びていたというわけではないけれど、何だか雰囲気が変わった。


「ずっと心に引っ掛かっていたものがなくなった。……葛藤もあったが、きっとこれで良かったのだろう」


 後半の言葉は、何だか独白のような口調だった。

 私をそっと抱き寄せて、頭をもたれかける。

 それを聞いて、陛下の言わんとしていること、そして彼の纏う雰囲気が変わった理由に思い当たる。


「今の生活がいつまでも続くわけではなく、いずれは私と別れて元の世界へと帰らなければいけない……ということですか」

「ああ。よくわかったな」

「……はい」


 陛下の言葉に驚きと感心が混じり、私は視線を落とした。


 何と言っても、今言ったことは私自身常々考えていたことそのものだから。

 今この瞬間を大事にしよう、そう思っていてもふとした瞬間に「この瞬間」よりも先のことが脳裏を過ってしまい、その度に名状し難い苦しさを覚えた。


「陛下はもっと早くに決断なさるべきでしたね」

「熟考に熟考を考えた末の決断だ。……と言いたいところだが、美夜の言う通りだな」


 そう言いながら私の肩へと腕を回し、もう片方の手は髪を掬い上げる。

 どうあっても、私に触れずにはいられないようだ。

 私はと言えば、多分に緊張を覚えながらも陛下の好きなようにさせている。


「どうあっても、美夜を手放せる筈などなかった。……この先、何があっても俺は絶対に美夜と離れることはない」


 静かな、それでいて確かな決意を秘めた声だった。

 それを聞きながら、前に彼が話していたことを思い出す。


 姫神テオセベイア、八柱目の神、原初の女性。

 そして、私の祖母。テオセベイアは、あの世界に住まう人々にとって重要な意味を持つ存在で、多くの者が彼女の帰還を今も信じて待っている。

 彼女があの地に戻ることはもう二度とないという事実を知る者は殆どいない。


 テオセベイアの血を、その神性を受け継ぐのは孫娘である私だけだ。

 私が世界に与える影響は計り知れない。

 陛下もそれを危惧して、私の安全を守るために遠ざけようとした。


 でも、陛下は何があっても私を守ると決めたのだ。

 私としても、既にその覚悟は決めているものの、それにしてもこの甘ったるい雰囲気にはまだすぐには慣れそうにない。


 出会って間もない頃、意味もなく私を抱き上げた陛下に対して抗議したことがあった。

 あの時、陛下はすぐに謝罪してくれたけれど、本当に私を待ち望んでいたからこそ触れずにはいられなかったのだと、今になって理解する。

 知らなかったとは言え、酷いことをしてしまった。


 陛下が私の髪を撫で、梳るのを感じながら、「陛下は……」と言った。

 彼は手を止めぬまま、穏やかな表情で私を見つめる。


「幼い頃に私に会ったことがある、と仰いましたね。では、その頃から私のことを……その、何て言うか」

「ああ。確かあれは九つの頃だったな。あの日以来、ずっと美夜だけを想い続けてきた」


 それを聞いて、心がじんわりと温かくなる。だって、こんな幸せなことが他にあるだろうか?

 陛下のような方が、そんなにも長い間私だけを想い続けてくれていただなんて。

 陛下は私の頬に両手を添え、真っ直ぐに見つめる。


「……やっと、約束を果たすことができた。全ては美夜のお陰だ」

「え……?」


 金色の双眸に、心まで縛される気がした。

 陛下の言葉の意味を理解しかねて、目を瞬かせながら見つめ返すと、彼は少しだけ微笑んだ。


「美夜に勇気をもらったからな。そうでなければ、美夜がいる未来を選ぶ決断はできなかった」

「ああ……」


 そう言われて、ようやく合点がいった。

 この数ヶ月、これから先も陛下と共に在るために様々な手段を講じてきた。

 私を遠ざけようとする彼の気持ちを、何とかして変えたかった。

 どういう理由で、あるいは何の力が作用して陛下までこの世界に来てしまったのかはわからないけれど、それが私の……いや、私たちの望む未来に繋がる結果となった。


 陛下は確かに、私のことがずっと好きだった。

 でも、二人が一緒にいる未来を掴み取ることができたのは、私が陛下に手を伸ばして自ら求めたからこそだ。


 けれども、私の性と言うべきだろうか、手にしたばかりの幸せに浸ってばかりもいられない。

 私たちは、いくつかの問題も抱えている。

 陛下の左腕に目を向けると、よくよく目を凝らさなければあの黒い靄は見えない。でも、なくなったわけではないのだ。

 陛下を蝕む呪いの効力は、もしかするとこちらの世界までは及ばないのではないか、私はそう推測している。

 私の視線や表情から、何を考えているか察した陛下が頭を軽く撫でてくれた。


「……考えるべきこともあるが、焦ったところで良い結果には繋がらない。まずは、今できることをしよう」


 真っ直ぐに私の目を見つめたままそう言った。

 多くの言葉を重ねるわけではないけれど、そこには十分すぎる想いが乗せられている。


 呪いのことだけではなく、どうすればブラギルフィアに戻れるかというのも、大きな課題である。

 あれから、私なりに何度か深淵を渡ることができないか試みたけれど、何も起きなかった。

 もしかしてもう二度と戻れないのではないか、そう考えてしまうこともある。


 陛下とて、自分の国のことが気にならない筈がないのに、決してその不安を口にしようとしない。

 どこか遠くを見るような目で物思いに耽っているのを、一度だけ見たことがある。

 あれは、きっとブラギルフィアやそこにいる人々のことを考えていたのだろうけど、私の視線に気が付くと、何でもないように笑ってみせた。


「今、できること……」


 陛下の言葉を反芻しながら、視線を泳がせる。

 お互いの距離の近さに、改めて気恥ずかしさを覚える。

 これからずっと一緒にいることになるのだから、こういう状況にも慣れていかなければならないだろう。


 でも、あくまで焦らずにである。


「陛下の仰る通りですね」


 私は頷くと、素早くソファから立ち上がった。

 私が腕の中から擦り抜けたことで、面食らった顔をする陛下には申し訳ないけれど、高鳴りっぱなしの心臓を落ち着かせる必要がある。


「そろそろ夕食の支度に取り掛かります」


 それだけ言って、キッチンへと向かう。

 キッチンの手前で、陛下が私の肩に手を置いた。


「美夜、一つ忘れていた」

「え?」


 何を、と尋ねようとしたものの、それが言葉として発せられることはなかった。

 陛下は振り返った私を抱き寄せると、既に何度目かわからない口付けを落とした。


「……っ」


 驚きと動揺のあまり、思わず喉を鳴らした。

 口付けを続けながら、陛下は私を強く抱き締めた。私たちの間には僅かな隙間もなく、必然的に胸の膨らみを陛下の身体に押し付けることとなる。


 しかも、それだけでは終わらず、口付けは更に深くなる。

 漠然とした知識でしか知らなかった類の口付けに、心ごと絡め取られる気がした。


 ……終わった後、茫然自失状態で立ち竦む私に陛下は優しく笑いかけた。


「……すまない。美夜があまりにもかわいすぎてな、少しの間とは言え離れがたかった。もう邪魔はしない」

「……す……」

「ん?」

「こっ……こんな状態で夕食の準備だなんて無理です!」


 完全に腰砕けになった私は、抗議を込めて言い放った。



 ……そんな訳で、この日は食事の準備も後片付けも、全て陛下にやっていただくこととなった。


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