76話「離れることは許さない」
瞬きすることさえ忘れて、ただ金色の双眸を見つめ返す。
触れられている部分が何だか熱く感じられる。
これは、この状況は、まさか……。
美夜、と陛下が呼気に忍ばせるように呟くのが聞こえた。
私は反射的に目を閉じた。
陛下が顔を近付ける気配があって、そして……。
終わった後も、暫くの間は何も言えなかった。
陛下にくっついたままで顔を伏せる。
鼓動は相変わらず減速する気配がなく、緊張のあまり呼吸もままならない。
陛下は陛下で、言葉を発することなく私の背に手を添えている。
先ほどまでのように抱き締めているわけではなく、その腕から逃れようと思えば逃れられるだろう。
でも、私は敢えてそうはしなかった。
それは、今までに体験したどの出来事とも全く異なる体験だった。
多大な緊張を伴うと同時に、心の内が熱くなるような切なさが込み上げて来て、何とも言えない不思議な感覚だった。
顔を伏せたまま、陛下に見られないように指先を唇に触れさせた。
先ほどの触れ合った感触がまだ残っている気がして、またしても身体の芯が熱くなるのを感じた。
「……思っていたのと全然違いました」
気恥ずかしさに耐え兼ね、半ば独白のように呟く。
背を撫でる手が一瞬止まり、それから「そうか」という声が聞こえた。
以前の私にとって、恋愛とは結婚のおまけ、世間体のために形だけでもしたおかなければならないものだった。
何しろこの国は恋愛大国で、お見合い結婚のほうが離婚率が高いと言われていても、愛のない結婚に対しては否定的に思われがちだ。
そもそも、私は結婚や出産自体、労働や納税と同じように日本国民の義務として捉えていた。
放棄したからと言って罰せられるわけではないけれど、やらなければ世間から後ろ指を指されてしまう。
恋愛の真似事をするなら、手を繋いだりキスしたり……ということも、いずれはこなさなければならない。
それは受験勉強以上に憂鬱で、そこに甘い幻想など見ていなかった。
けれど、実際は違った。もちろん、いい意味でである。
「こういった経験は……殆どないに等しいからな。上手くできなかったとしても、大目に見てもらえれば助かる」
どこか申し訳なさを含んだ言葉に、私は眉を顰める。
いや、どう考えてもそれはおかしい。
「どういうことですか? ……その、経験がないというのは」
私は恐る恐る顔を上げて、陛下を見た。
彼は決まり悪そうに苦笑し、僅かに視線を逸らした。
「そのままの意味だ」
「そのまま、とは?」
「美夜、あまり困らせないでくれ」
陛下は私の視線から逃れるように、明後日の方向へと顔を向けた。
私は何だかムカムカと腹が立って来た。
脳裏に浮かぶのは、クラヴィス=クレイスの顔。
ああ、いつ見ても……いや、想像しただけでも気分が悪くなるぐらい、腹の立つ顔だ。
「私だって、そこまで子供ではありません。……クラヴィス様とのこと、既に知っています」
不機嫌さを込めて呟くと、陛下が私を振り返った。
困惑した顔で、今度は彼が「どういうことだ?」と口にした。
「クラヴィスというのは、マティルダの娘のことか?」
「はい。神使様ですね」
「何故、ここで彼女の名が出て来る?」
「アトルシャン殿下の……陛下のご子息を産んだ女性でしょう?」
私は殆ど自棄になりながら、そう吐き捨てた。
先ほどの行為の甘い余韻の後で、その事実と改めて向き合うのは多大な苦痛を伴うけど、だからといって目を逸らし続けるのも同じぐらい辛い。
陛下は大きく目を見開き、暫く言葉を失ったまま私を見つめていた。
「アトルシャンが、クラヴィスの母親? いや、それは誤解だ」
「え? ですが、殿下は彼女のことを『母上』と……」
「ああ……」
陛下は合点がいったように呟いた。
「クラヴィスには、確かに乳母のような役割を担ってもらったからな。その過程で、そう呼ぶようになったのだろう。それに、乳母を母と呼ぶのは、神域の落とし子ならそう珍しいことではない。大半の者は、成長するにつれて別の呼称に変じていくものだが」
「え?」
私はぽかんとした顔で陛下を見つめ返す。
クラヴィスは、アトルシャン殿下の母親ではない。
ということは、陛下と彼女の間には何もなかったということ?
一瞬、安堵しかけた私だけど、すぐに「いや、でも」と思い直す。
「では、アトルシャン殿下の母君はどなたなのですか?」
「そもそも、最初からいない。何しろ、アトルシャンも俺と同じ神域の落とし子だからな」
「え……」
理解が追い付かなくて、私は困惑してしまう。
神域の落とし子というのは、そういえば聞いたことがある……気がする。
と言っても、ブラギルフィアにいる時に小耳に挟んだぐらいだ。
陛下は突如として閃いたように「そうか……!」と言った。
「もしかして、こちらの世界では有性生殖のほうが一般的なのか?」
「えっ? ええ、一般的と言いますか、それしかありません」
「やはり……」
彼は確信した様子で頷いたけれど、私は何が何だかわからない。
戸惑いの表情を彼へと向ける。
「ブラギルフィア国内では、神域の落とし子を授かることが妻帯の前提条件という考えがまだまだ一般的だ」
「その、神域の落とし子というのはどういうものなのですか? こちらの世界では聞いたことがありません」
私の言葉に、陛下は驚いたように眉を跳ねさせた。
普段、平静な態度を崩さない彼としては珍しい反応だ。
よくわからないけど、相当に驚くべきことだったようだ。
「ブラギルフィアでは、男女ともに十六で成人の儀を迎える。成人した後、生計を立てるに十分な基盤を整えた男子は『七祈の塔』と呼ばれる場所に赴き、断食して神域におわす神々に祈りを捧げる。そして、その者が人の親になるに相応しいと認められれば、男児を授かることができる。それに、フラルヴァーリには二百年ほど前までテオセベイア以外の女性が存在しなかった」
今度は私のほうが驚く番だった。
祈りを捧げて子供を授かるなど、私が生まれ育った世界での常識からはあまりに懸け離れている。
「二百年前……それは、嘗ての天変地異が関係しているのですか?」
「ああ。世界と深淵とを隔てる障壁が薄れ、そこから数多の禍女と共に稀人たちもやって来た。彼女たちこそ、今のフラルヴァーリに生きる女性たちの先祖だ」
「授かるというのは、いったいどのように……その、何もないところから赤子が現れるのですか?」
「祈りを捧げる部屋の隣に、新しい命誕生のための部屋がある。祈りを捧げている間は、どんな力自慢の者にもその部屋の扉を開けることはできず、誕生の瞬間は誰一人として目にしたことがない。俺がアトルシャンを授かった時には、そちらの部屋から泣き声が聞こえて来た。急いで向かうと、扉は既に開いていて、揺り籠の中に生まれたばかりのアトルシャンがいた」
その時の感動を思い出すように、陛下は目を細めた。
理屈で考えれば俄かには信じ難い話だけど、私は不思議とすんなり受け入れることができた。
これも、私に流れるミストルト王家と姫神の血がそうさせているのだろうか。
それに、もっと重要なことがある。
とは言え、直接的には確認しづらくて、私は視線を泳がせながら言った。
「ということは、その、陛下とクラヴィス様は。えっと、つまり……そういう関係はない、ということでしょうか」
陛下は、しどろもどろになる私をじっと見つめて、それから笑みを零した。
「そうか。クラヴィスの話題が出る度、妙に強張った顔をすると思ったら、そんな誤解をしていたのだな」
そう。
陛下がクラヴィスの名前を呼ぶことさえ嫌で嫌で仕方なかった。
陛下の口からあの女の名前が出ると、どうしても二人の関係を意識せずにはいられなかったから。
誤解だとわかって心底安堵すると同時に、何だか居た堪れなくなって、視線を虚空に彷徨わせながら頷いた。
陛下はそんな私の肩にそっと手を添え、目線の高さを合わせると、「美夜」と囁くように言った。
「誓って言うが、俺は美夜以外の女性には触れたことさえない。以前、美夜から指摘を受けた通りだ」
指摘、と聞いてもすぐにはぴんとこなかった。
きょとんとしながら陛下を見つめる私に、彼は笑みを零した。
「美夜がブラギルフィアに来た当日だったかな」
「えっと……あっ」
やっと思い出した。
そうだ、あれは確か、陛下が何の理由もなく私を抱き上げた時だったか。
当時の私は、浮かれていたと話す彼に対して「童貞でもあるまいし」と言った。
あの時のことを思い出すと、ますます居た堪れない気持ちになる。
「あ、あの時はとんだご無礼を」
「いや、構わない」
陛下は笑ってそう言ってくれたけれど、私のほうは思い返すと申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
とは言え、誰にだって過ちはあるものだ。
そう、この私でさえも。
それに、よく考えれば別に私が悪いわけではない。
悪いのは運命とかテオセベイアとかアルヴィースとか、それにバンビこと岩澤ケイやクラヴィスだ。
陛下の寛大さは忘れないにしても、自責の念は今すぐ捨てよう。
はい、捨てた。
「ということは、つまり……」
改めて「その事実」に向き合うと、心臓がとくんと鳴った。
クラヴィスは、初めから何の障害でもなかった。
陛下のことを間違った解釈で捉え、自分の狂った妄想世界で生きる頭のおかしい女に過ぎない。
私は躊躇いがちに視線を持ち上げるも、陛下の顔を直視することができない。
そんな私に、彼は静かな声で「美夜」と呼び掛けた。
「はい」
短く答えつつも、やはりなかなか目を合わせることができない。
それでも意を決して、陛下の顔を見る。
彼は笑みを浮かべるでもなく、ただ穏やかな面持ちで私を見つめていた。
陛下がそっと私を抱き寄せ、そのまま腕の中に閉じ込める。
自分を抱く腕の力強さを温かさを感じながら、心臓が壊れそうなほど早鐘を打つ。
「いったいどうしたと仰るのですか」
内心の動揺を誤魔化すために口にした言葉は、自分でも意外なほど抑揚を欠いていた。
それでも、そのままの口調で続ける。
「ずっと私のことを拒んでいらっしゃったと言うのに」
ずっとずっと望んでいたことが叶ったのが信じられなくて……というわけではないけれど、つい意地の悪いことを言いたくなってしまう。
それだけこの瞬間を待ち望んでいたのだ。
陛下の意図するところを理解していたとは言え、やはり何度も拒まれると心が摩耗するのも無理からぬ話。
少々捻くれてしまうのも致し方ないというもの。
案の定、陛下が身動ぎする気配が伝わってきた。
「いや、決して拒んでいたわけでは」
陛下はそう言いかけて、言葉を途切れさせた。
それから、小さく嘆息するのが聞こえたかと思うと、私を抱く腕に一層のこと力が篭る。
私と陛下との間に既に隙間はなく、息苦しささえ覚える。
「えっ、あ、あの……陛下?」
困惑気味に声をかけても、陛下からの返答はない。
やがて、低く囁く声が聞こえた。
「一度手を伸ばせば、もう二度と離れられないことはわかっていた。だからこそ、これまでずっと……いや」
どこか諦観したような口調で言って、それから首を小さく振った。
「……美夜。未来永劫、俺の側にいてくれ。いや、離れることは許さない」
穏やかな、それでいて断固とした物言いに私は小さく息を呑んだ。
クラヴィスという、目の上のたんこぶはなくなった。
彼女は最初から何の障害でもなかったのだ。
そして、陛下は長く私を想い続けていた。
ということはつまり、彼の言葉の意味するところは……。
何か言おうと口を開きかけたものの、言うべき言葉が見つからず、代わりに小さな呼気が零れただけだった。
陛下の言葉には、並々ならぬ覚悟が感じられた。
未来永劫ずっと側にいるということ、それは比喩でも何でもない。
私がテオセベイアの孫であること、姫神の眷属の帰還、それらが世界にもたらす影響は私とて理解している……つもりだ。
けれど、陛下はきっと私以上に、その事実を正確に理解している。
故に、私を遠ざけようとしていたのだから。
本心では私を欲していたにも関わらず、である。
自らの意思で私に手を伸ばすということ、それが意味するところを理解できない私ではない。
覚悟を問われる瞬間に身を置きながら、私は喉を鳴らした。
同時に、スッと身も心も軽くなったように感じた。
そうだ、とっくの昔に私の心は決まっているのだから、改めてそれを問われたところで臆することなど何もない。
「……一つだけ、言っておきたいことがあります」
そう切り出した私に、陛下は何も言うことなく続く言葉を待つ。
「先ほど、『思っていたのと違う』と申しましたが、おそらく陛下は誤解をしていらっしゃいます。あれはつまり、何と言いますか……私は陛下と出会うまで、そういった方面に何の夢も希望も憧れも抱いていなかったのです。つ、つまり」
落ち着いて、あくまで淡々と言葉を紡ぐつもりだった。
ところが、紡いだ言葉は縺れてこんがらがるばかりで、全然纏まらない。
陛下の腕が少し緩んだ。
それは決してその行為に飽きたとかではなく、むしろ安堵故だろうか。
かわいらしく綺麗な小鳥が、厳重に閉じ込めておかなくても飛んで行ってしまうことがない、常に肩に止まっている存在だと知ったかのような、そんな心情を感じた。
私の背に優しく腕を回したまま、少しだけ身体を離した陛下が顔を上げた。
穏やかな面持ちで私を見つめ、「そうか」と言った。
あんな説明で伝わったのだろうか、そう思いながら恐る恐る視線を持ち上げると、陛下の手が顔に添えられるのを感じた。
金色の双眸に、驚いた顔の美少女が映っている。
それを確認できたのも一瞬のことで、相手の行動の意味を察した私は、ぎこちないなりに目を閉じた。
次の瞬間に、再び唇に触れる柔らかさを感じた。
その幸せな温もりに、まるで心に春が到来したかのようだった。
ずっとずっと、私には味方などいないと思っていた。
いや、あのままの人生を歩んでいれば実際にそうだった。
自分に害しかもたらさない連中を相手にしないことで、何とか心の平静を保っていたものの、その代償に気付けば心を凍り付かせていた。
だって、そうでもしなければ生きていられなかったから。
けれど、心に暖かな風が吹き抜け、色とりどりの花々が一斉に咲き誇るかのような、そんな心地だ。
そうして、私たちは何度か口付けを交わした。
その合間に、陛下が私の耳元で囁くように言う。
「そう言ってもらえて安心した」
「は……」
はい、と言いかけた言葉は口付けによって途中で遮られた。
まだ慣れない行為に、受け身だった私も恐る恐る伸ばした腕を陛下の背に回す。




