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獅子王陛下の幼妻  作者: 小鳥遊彩
第四章
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75話「変化、そして」

 帰りのタクシーの中で、陛下は殆ど口を聞かなかった。

 何気ない話を振れば返事はしてくれるけれど、明らかに常より言葉少なだ。


 先ほどの一件に対して、私以上にショックを受けていると見て取れた。

 私自身、あんな現場を他ならぬ陛下に見られたことについて何も思わないでもないけれど、今はそれ以上に安堵が勝っていた。


 私は躊躇いがちに、隣に座る陛下の袖を軽く摘まむ。

 途端、陛下がその手を強く握りしめた。

 私は大いに驚いてしまう。

 とは言え、不快に思う筈もなく、気恥ずかしさを感じながらもそのままじっとしていた。



 やがてタクシーが家の前へと到着した。

 降車の際も、奥の離れへと移動する際も、陛下は私のことをいつも以上に気遣ってくれた。

 すっかり住み慣れた家に入った途端、私はほっとするのを感じた。

 時計を見ると、まだ十六時前だ。

 夕食にするには少し早い。


「陛下、お茶でも淹れますね。何だか身体が冷えました」


 そういえば、飲み物を買いに行くと言った後でトラブルに巻き込まれたのだった。

 コートを脱ぎながらそう言った私に、陛下は「いや」と首を横に振った。


「俺が準備しておこう。美夜は座っていなさい」

「……そう、ですか。では、お言葉に甘えて」


 コートやマフラー、それに買って来たものを片付けた私は、居間のソファへと腰を下ろした。

 膝の上には、数時間前に陛下がクレーンゲームで獲得したぬいぐるみを乗せている。

 そういえばあの時、陛下はこれを自室に……ブラギルフィアの王城内の部屋に飾ることを勧めた。

 やはりあれは、思わず本心が零れてしまったということだろうか。


 そんなことを考えていると、盆を手にした陛下が戻って来るのが見えた。

 湯気の立つカップをテーブルの上に置くと、私の隣へと腰を下ろす。


「いい匂い。これは、カモミールとレモングラスですね」


 カップを手に取り、その中身を一口飲むと爽やかな風味が口の中に広がった。

 林檎を思わせる仄かな甘さに、清涼感が合わさり、頭と心がすっきりする気がした。

 ちらりと陛下を伺うと、視界に入るのは彼の横顔で、何やら思案している顔だ。

 やはり、先ほどの一件が尾を引いているのだろうか。


 そう思った途端、私は再び決まり悪さを覚える。陛下が助けに来てくれたことに安堵と感動を覚えた半面、見られたくない場面を見られたことへの気まずさを、同時に感じていた。

 何か言葉をかけるべきだろうか。そう思いながら、適切な言葉が浮かばない。

 そうこうしている内に、陛下のほうが先に口を開いた。


「美夜は……」

「はい」


 僅かに緊張しながら、続く言葉を待つ。陛下が次の言葉を紡ぐまで、数拍ほどの間があった。


「随分と、冷静に見える」


 どこか躊躇いがちな物言いだった。

 私は一瞬、虚を突かれた思いだったけど、すぐに彼の言わんとすることを理解する。

 陛下にとって先ほどの一件は、信じ難いほど衝撃的な出来事だった。

 それに対し、当事者である私がそれほど動じていないように見える、そういうことだろう。


「全く何とも感じていないわけではないのですが」


 そう前置きして、一瞬逡巡してから次の言葉を口にする。


「……慣れた、と言いますか。私にとっては、決して珍しいことではないのです」


 陛下は私へと顔を向けた。そこには、表情と呼べるものが一切浮かんでいない。


「何故だ」


 そう低く呟いた。

 私に対しての問いというより、独白に近いようだ。


「何故、美夜があんな目に遭わなければならないのか。何故、あの状況を見ていた者たちはあんなにも平然としていられるのか。俺にはわからない」

「……でしょうね。陛下と彼らとは、あまりにも掛け離れた存在ですから」

「いったい、彼らは『何』なんだ?」

「彼らは、普通の人です。この世界を構成する多数派と呼ぶべきでしょうか」


 私の言葉に陛下は目を見開いた。


「では、あんな者たちが世界の大半を占めているということなのか?」

「はい。彼らは、良くも悪くも特別というわけではありません。聖人君子でもなければ、極悪人でもない、ごく普通の『善良な市民』です。友達と談笑し、恋をして結婚して家族を持ち、小さな子供が虐待の末に殺されたと聞けば憤り、罪なき少女が強姦されて死に至ったと知れば犯人たちへ極刑を求める、自分は何の罪もない綺麗な立場だと信じて疑わない普通の人たちです」


 そう語る内に、私は諦観にも似た苦笑を浮かべていた。

 陛下を見れば、言葉を失って立ち尽くしている。

 陛下には、彼らのような者を理解することはできない。彼らのような者との邂逅が今までにあったとしても、陛下には私に見せるのとは全く違う一面で見せていた筈だ。


「陛下、おわかりいただけましたか? 今日、ご覧になったものこそ私が生まれ育った世界の本質……私にとっての普通、日常、当たり前なのです」

「何……」

「初めてお会いした時、私はスタンガン……小型の武器を携帯していましたね? あれは、自分の身を守るために必須なのです。陛下と一緒に行動することに慣れて慢心していたせいか、今日は携帯しておりませんでしたが」


 陛下は暫くの間、呆然とした様子で私を見つめていた。

 対する私は、穏やかな笑みを湛えながら相手の視線を受け止める。


「三人がかりでか弱い女性を襲うような男たちが、善良な市民だと?」

「……残念ながら、陛下、この国ではそのような考えは好まれないのです」

「どういうことだ?」

「男女平等、という言葉が横行しています。男女平等と言う、人によって解釈が分かれる言葉に支配された社会においては、男性のほうが腕力がある、女性はか弱い、女性は性犯罪の被害者だ……といった考えに拒否反応を示す者が大半なのです」

「しかし、だからと言って彼らの行動が正当化される筈がないだろう。それに、平等と謳ったところで、体格や腕力の差がなくなるわけでもない。力で勝る者が、三人がかりで一人を襲うなど、どんな御託を並べたところで許されない」

「はい、その通りです。けれど、そう言ったところで、『じゃあ女が男に暴力を振るうのはいいのか?』『興味のない女からのしつこいアプローチに迷惑している男だっている』、こういった趣旨の言葉で論点をずらされてしまうのがオチなのです。世の中、話しの通じない人ばかりですからね。今日の一件だって、私が警察に被害を訴えたところで、彼らが裁かれることはないでしょうね。良くて、厳重注意ぐらいです。下手をすれば、私のほうが難癖を付けて悪者にされることさえ考えられます。スカートや長い髪は男を挑発する、そんな恰好をしているほうが悪い。白い肌は襲われやすいというデータが出ているから襲われたくなければ肌を焼け……といった具合に」

「そんな……! それはあまりにも酷すぎる! 美夜には何の落ち度もないだろう!」


 珍しく声を荒げる陛下を見ながら、私は胸の奥が熱く疼くのを感じた。

 笑おうとしたけれど上手く笑うことができなくて、歪んだ表情になってしまう。


「私の味方をしてくださったのは、今まで陛下だけでした」


 ともすれば溢れ出しそうになる感情を押し殺しながら、小さく呟いた。

 陛下は、そんな私を痛ましい面持ちで見つめる。

 私はぐっと奥歯を噛み締め、陛下を見上げた。


「先ほど、陛下は私が何故あのような目に遭うのかと仰いましたね。その理由の一つに、私が他の人より綺麗だからというのがあります」

「まさか、そんな理由で……」

「はい。この国では、『皆と一緒』とか『和を重んじる』という風潮が非常に強いのです。そして、私のように綺麗な者は少数派で、それだけで異端児なのです。自分たちよりも不当に得をしている……謂わば、先天的な脱税者のような印象を持たれるのです。綺麗に生まれた者でも、率先して人前に出て見世物になったり、あるいは皆のリーダーを務めるなら存在を許してもらうこともできます。けれど、私のように単独で行動している者に対しては、何をしてもいいと思うのでしょうね。更に、私の母親は若い頃に数年間行方不明になり、帰って来た時には私を身籠っていました。このことから、私は生まれながらに『強姦犯の娘』という偏見の目で見られ、揶揄されながら育ちました。だからこそ余計に、私に対しては何をしてもいいという意識が働くのでしょう」


 私の言葉に真剣に聞き入っていた陛下が、はっとしたように目を見開いた。


「アルヴィース……アルヴァレンの父親か」

「はい。アスヴァレンから、そのように伺いました」


 私がそう答えると、陛下は沈痛な面持ちで目を伏せた。それから、小さく呟いた。


「すまない。ミストルト王家の者のせいで」

「いえ、そんな。陛下に謝っていただくことでは」


 と、慌てて首を横に振った。

 何しろ、陛下が生まれるより二百年も前のことだ。

 彼に責任がある筈がない。


 それに、出生のことがなかったとしても、私が揶揄を受けることに変わりはなかっただろう。

 この国において、私のように綺麗に生まれることは、それ自体が人生の難易度を大きく底上げするのだ。

 にも関わらず、美人は得だという偏見が横行していることが、私の人生における更なる障害となる。


 今まで変な男に絡まれた時、それを警察や学校の先生に言っても比較的好意的な反応でさえ「かわいいからだよ、自信持ちなよ」という的外れな励ましだった。

 もっと酷い場合は、「本心ではそれを気持ち良く感じてるんじゃないの?」「思い込みってことはない?」「頻繁にそんな目に遭うのは、自分自身に問題があるからじゃないの?」と責められることも多々あった。


 そんな日々の中で、私は加害者も含めて、他人に期待することを止めた。

 今回の加害者である男たちにも、傍観していた連中にも、端から何の期待もしていないから、彼らに腹を立てる気も起きない。

 地面に落としてしまった食べ物に蝿が集ってきたからと言って、それを窃盗だと言って怒らないのと同じだ。


 私の身に起きたことに対し、不当だと言ってくれたのは陛下が初めてだ。

 正直、心がじんと温かくなるような、そんな心地だ。


「美夜」


 陛下が私の名を呼ぶと同時に、恐る恐るといった様子で肩に手を回した。

 小さく心臓が跳ねるのを感じた。

 この世界に戻る直前の一件以来、陛下が私に触れてくることは殆どなかった。


「美夜は本来なら、ブラギルフィアで生まれる筈だった。ミストルト王家の王女として生まれていれば……俺の側にいたなら、全てから守ってあげられたのに」


 それは、酷く思い詰めたような声だった。

 私は何か言おうと口を開きかけたものの、何一つとして言葉を発することができなかった。


 小さく息を呑み込む。

 それから再び口を開き、「いえ」と短く言った。


「これで、良かったのだと思います。仮に、私を身籠った母がブラギルフィアに留まっていたとしたら、それはあくまで二百年前の世界ですから」

「……そうか。言われてみればそうだな」


 そう。

 陛下との邂逅は叶わなかった。

 少なくとも、私の目の前にいるエレフザード陛下とは。


「母は、私を従兄弟と結婚させたいと望んでおりました。でも、私は彼のことを何一つとして知りません」


 私の従兄弟、それはアスヴァレンが「兄上」と呼んで心から慕う人。

 彼曰く、陛下と同じ魂を持つ前世だと言う。


「私にとって陛下は、その……陛下だけですから」


 伝えたい言葉が上手く出てこないことを、心から焦れったく感じる。

 でも、陛下には伝わったみたい。

 肩に回した手に力が入るのを感じて、私は思わず身体を固くする。

 陛下はそのまま何も言おうとしなかった。

 私は私で、顔を伏せて自分の膝に視線を落としながら、身動ぎ一つできない。


 いつの間にか、手の中のカップが中身ごとすっかり冷えている。

 抵抗の意思がないと見たようで、陛下はもう片方の手を私の背へと添えた。

 気付けば完全に抱き締められている状態で、私は気が気ではない。


 その時、ファンヒーターが電子音を立てた。

 それ幸いにと、様子を見に行くべく立ち上がろうとした私を、陛下はますます強く抱きすくめた。

 冗談抜きにして逃げられそうにない。


「陛下、暖房が……多分、換気を……」

「後でいい」


 有無を言わさぬ口調で言われ、口を閉ざしてしまう。

 心臓がうるさいぐらいに高鳴っていて、それが陛下にも聞こえてしまわないだろうかと気が気ではない。

 緊張のあまり頭の中が真っ白になり、紡ぐべき言葉を何も思い付けない。



「……どうして」


 半ば無意識の内にそう呟いた。

 陛下は常々、私を遠ざけようとしていた。


「気が変わったとでも仰るのですか」


 精一杯、平静を保ったつもりだった。

 けれども、声はすっかり掠れていて、覇気というものが全くない。

 陛下は私を抱き締めたまま、肩と首筋の辺りに顔を埋めた。

 前髪が肌に触れるのを感じて、肩が小さく跳ねた。


「……初めから、わかりきったことだった」


 陛下が小さく呟くのが聞こえた。

 顔を伏せているためか、その声はくぐもっている。


「もう、ずっと前から。手放せる筈がなかった。全てが誤りだった。そう知りながらも、見ない振りを続けるだけだった」


 耳を澄ませることで、陛下の言葉の内容を拾い上げることはできたものの、その意味まではよくわからなかった。

 私自身の鼓動の音が、ともすれば彼の声を掻き消してしまいそうだ。

 それほどまで、私の心臓は激しく早鐘を打っていた。


「美夜」


 陛下が私の名を呼ぶ。

 返事をしたつもりが声は完全に掠れてしまい、呼気しか聞こえなかった。

 顎に手を添えるのを感じたかと思うと、次の瞬間には強引に上向かせられた。


 金色の双眸と視線が絡むと、まるで心まで縛されたかのように、目が離せなくなった。


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