66話「二人きりの同棲生活」
「えーっと」
色々なことが起こりすぎて、頭の処理が追い付かない。
長瀬先生の提案を受け入れた最大の理由は陛下の一声だけど、彼は先生のことをどう見ているのだろう。
長瀬先生……あるいはそう名乗る何者かは、明らかに怪しすぎる。
「陛下……」
隣にいる彼へと視線を向けたところ、いつの間にか姿を消していた。
仰天したけれど、すぐに見つけることができた。
陛下はキッチンにいて、調理台に触れているところだった。
何をしているのだろう、と暫く無言で見つめていたら、独白のように呟くのが聞こえた。
「……変わった材質だ。石……にしては滑らかすぎる」
「これは、天然の石を砕いて樹脂で固めた、人工大理石ですね」
天板に触れ、その質感を確かめながらそう説明する。
キッチンは程好く独立した動作対面型で、広々としていて見るからに使いやすそうだ。
皇家で使っていたキッチンとは全く違う。
キャビネット部分は木製、そして天板は人工大理石でできている。
私の説明に、陛下は大きく目を見開き、感心したように頷いた。
「人の手で造ったものとは驚きだ。この国の技術力は相当に高水準だな」
「そう……ですね。確かにそうかもしれません」
「これは何だ?」
「これはIHクッキングヒーターと言って、えーっと、発熱して火の代わりになります」
「この板が発熱するのか?」
「はい」
と言っても、見慣れない設備の機能を説明したところであまりぴんと来ないのではないか。
百聞は一見にしかず、とはよく言ったものだ。
何かないだろうかとキャビネットを開けたら、調理器具一式、それに様々な調味料や茶葉まで揃っていた。
あまりの準備の良さに閉口しつつも、小さな片手鍋と茶器、それに紅茶の缶を取り出した。
「今からこのクッキングヒーターでお湯を沸かします」
鍋に水を張り、ヒーターの電源を入れること数分。やがて水面に小さな気泡が立ち始める。
それを見た陛下が歓声を上げた。
「本当に沸いてきた」
「はい。このようにして、調理に使うものなのです」
更に数分後、私たちはテーブルの席に着いて淹れたばかりのお茶を飲んでいた。
英国製のショートブレッドの袋を見つけたので、それをお茶請けとする。
お茶は風味の強いアップルティーで、程好い甘さを持つショートブレッドとよく合う。
「これは、祖国でも食べたことがある」
「でしょうね。ブラギルフィアの食文化は、こちらの世界……正確には別の国ですが、似通った傾向がありました」
そう言葉を交わしながら、陛下が和食文化に触れるとどんな反応を示すだろうかと考える。
ブラギルフィアは農耕に適した土地柄で、その食文化は西欧に近い。
日々の食事は美味しかったけれど、味噌汁に白いご飯、梅干し、納豆、それに甘味なら小豆が恋しくなったものだ。
それにしても、と陛下の顔を伺う。彼は目にするもの全てが珍しいと見えて、こうしている間も部屋の中を興味深そうに眺めている。
先生の車に乗り込んだ時の様子は、落ち着いたものだった。
どんなところに連れて行かれたとしても、決して動じないかに思えた。
そういえば、こちらの世界における時間の経過、それに伯父の死を知った私が取り乱した時も、陛下は動揺する素振りも見せなかった。
それどころか、私を勇気付けてくれた。
アトロポス王女……クラヴィスの別人格の言葉が脳裏に浮かんだ。
(お兄様は、国王という鎧がなければとても脆い人なの。異母妹が側にいてあげないと、容易く崩れてしまう。異母妹がいなければ、あの人は王の重圧に絶対に耐えられない)
「……嘘ばっかり」
やはりクラヴィス、あるいはアトロポス王女の言葉には何一つとして真実などない。
あの女は、自分の妄想でエレフザード陛下のことを捻じ曲げて見ている。
間違った解釈の中に生きる惨めな女だ。
思わず口にした言葉を拾い、陛下が不思議そうな顔でこちらを見る。
「美夜? 何か言ったか?」
「いえ」
私は首を横に振った。
与えられた住居の中を見て回り、キッチンや浴室の使い方、それにテレビについても説明した。
その度に陛下は大いに驚き、そして感心した。
こうして改めて考えると、今まで当たり前だと思っていた文明の利器の性能がいかに凄いか実感する。
何だか新鮮な気分だ。
ここには生活するのに十分な設備が揃っていて、衣食住の内の住は難なくクリアできた。
残るは衣と食だけど、これは明日にでも買いに行くとしよう。
そうこうしている内に窓の外はすっかり暗くなり、時計を見れば十九時を回ったところだった。
数時間前にラーメンを食べたとは言え、軽く何か食べておくほうがいいだろう。
新しいキッチンの使い心地も気になるし、丁度いい。
「陛下、今から……」
軽い食事を用意します、そう言いかけたところで固まってしまう。
改めて考えれば当然のことだけど、今日からここで暫く……どれぐらいの期間になるかわからないけど、陛下と寝食を共にすることになるのだ。
しかも、今は侍女も臣下もいない。
つまり、二人きり。
そう思い至った途端、心臓が早鐘を打ち始める。
えっ……待って、え?
つまりは、同棲?
えっ……。
「どうした、美夜?」
「あ、いえ、その。何か軽い食事でも用意しようかと思ったのですが……」
陛下と二人きりで同棲生活。
別に、決して嫌なわけではないというか、むしろ……。
数時間前まで打ちひしがれていた私はどこへやら、何だかふわふわして落ち着かない。
でも、ここに至って、とても重要なことを思い出した。
私は、弾かれたように陛下を振り返った。鋭い目で陛下の左腕を見て、そして……。
「あ、あれ……」
拍子抜けして、何度か目を瞬かせる。
陛下もまた、私の行動の意味に気付いたらしく、左腕を軽く持ち上げた。
「……どういうことだ」
陛下が呆然とした口調で呟く。
「最後に薬を飲んでから随分経つのに、痛みも重さも感じない」
そう。
陛下の左腕に常に纏わり付いていたあの忌まわしい靄は、今や完全に消えていた。
「失礼いたします。少々よろしいでしょうか?」
「ああ」
陛下の了承を得て、私は彼の左腕に触れた。
私が距離を縮めると、陛下が身体を固くするのが伝わって来る。
服の上からじゃよくわからなくて、袖を捲り上げてもらうようにと促した。
……別にこれは下心があるとかそういうわけじゃなくて、あくまで陛下の身を案じてのことである。
「陛下、じっとしていてください」
「あ、ああ……しかし、少し近すぎないか?」
「こうしなければわからないのです」
陛下にソファに座っていただき、その隣に腰かけて彼に凭れ掛かる。
ぺたぺたと陛下の腕に直接触りまくっている自覚はあるけれど、これはあくまで「触診」であり、変な意味はない。
私は長い時間を掛けて「触診」を行い、その結果、改竄の痕跡が見当たらないという結論に至った。
つまり、病魔……あるいは、ミストルト王家への呪いは完全に消え去っていた。
私がそのことを伝えると、陛下は暫し考え込んだ。
「……いったいどういうことだろうな」
私は首を横に振った。こんな時、アスヴァレンなら何かわかるのだろうか。
不意に陛下が顔を上げて、「もしかすると」と言った。
「この呪いは、神々がもたらしたものだという説がある。とすれば、この地にまでは神々の力が及ばないのかもしれないな」
「あっ……そうですね、もしかするとそういうこともあるのかもしれません」
こちらの世界にも様々な信仰が存在する。
それらは多種多様で、ある信仰において重要なことが別の信仰ではそうでもなかったり、受け取り方も様々だ。
ブラギルフィアにおける「神」とは単なる概念に留まらないから、少々勝手は違うだろう。
でも、七大神もテオセベイアも、信仰する者が全くいないこの地まで、その影響が及ばないというのは頷ける話だ。
何であれ、これは吉報ではないか。
「少し様子を見てみようか」
「それがいいと思います。ただ、何か異変や違和感を感じたら、すぐに教えてください」
「わかった。ありがとう、美夜」
……と言っても、私にどうにかできるのかは、あまり自信がないのだけど。
とは言え、今は思い悩んでも仕方ない。
先ほど言った通り、一先ず食事の準備に取り掛かろう。
どんな材料があるか、何が作れるか、私は冷蔵庫やベースキャビネットの中を検め始めた。




