5話 「異世界転移」
その日の深夜、私は唐突に目を覚ました。
暫くぼうっとしている内に、その違和感に気付いた。
床に降り立ち、寝台を振り返ると、そこには眠っている「私」がいる。
幽体離脱、と言うのだろうか。
他の人には見えないものが視える以外にも、こういう経験は昔からよくあった。
この何年かはなくなっていたのだけど、久々に「出て」しまったようだ。
今日、あんなものを視たことと何か関連性があるのだろうか。
……何かの前触れでなければいいのだけど。
大抵は「私」の横に寝そべって目を閉じれば、朝には元に戻っている。
けれど、どういうわけか、私は廊下に向かって歩き出していた。どこに行くのか自分でもわからないまま、気付けば伯父の書斎の前まで来ていた。
そのまま、ドアに吸い込まれるようにして書斎の中へと入る。
伯父の仕事部屋でもあるこの部屋に入ったことは、今まで一度もない。
落ち着いた色の部屋で、家具はマホガニー製で統一している。
部屋の一番奥に、パソコン画面に見入る伯父の姿がある。
いったい何を見ているのだろう?
知らないほうがいい、内なる声がそう告げていた。
にも関わらず、私は足音を殺しながら伯父へと近付いて行く。
そんなことをしようとしまいと、伯父が気付く筈がないのだけど。
多分に緊張しながら彼が眺めている画面を覗き込み、それを見た瞬間、息が止まるかと思った。
……嘘。
あれは、いったい?
気付けば、私は脱兎のごとくその場から逃げ出して自室へと戻っていた。
生身ならば、心臓が早鐘を打っていたに違いない。
自分が見たものが信じられないけど、見間違いなんかじゃない。
画面には、我が家の浴室の光景が映っていた。
それだけではなく、シャワーを浴びる女性の裸身も。
見間違える筈がない、あれは私自身だ。
『まもなく一番線を列車が通過します。危険ですので、黄色い線までお下がりください』
お馴染みのアナウンスが、駅のホームに響き渡る。
私が通う学校の最寄り駅は、二面二線の小さな駅だ。
有名進学校の最寄り駅だというのに、快速電車が止まらないことに不満がないと言えば嘘になるけれど、まぁ仕方がない。
程無くして、快速電車の先頭車両が見えて来た。
あの電車に乗れればもっと早く帰れるのに、ぼんやりとそんなことを考える私の脳裏に、全く別の考えが過った。
(今、線路に飛び込めば家に帰らなくて済むのよね?)
茫漠とした目で見つめている内に、車両は猛スピードで駅のプラットホームへと近付いて来る。
もちろん、決して本気ではない。けれど、家に帰りたくないとは本気で思っている。
昨夜、私は幽体離脱をして伯父の書斎に忍び込み、そこで彼の秘密を知ってしまった……かもしれない。
でも、もしかしたら夢かもしれない。
今朝、目覚まし時計の音で目を覚ました私は、恐る恐る書斎に向かったけれど鍵がかかっていて入れなかった。
だから、昨日見たものが夢か現実かはわからないままだ。
それでも、私の冷静な部分は、あれが現実のことなのだと理解している。
つまり、浴室には隠しカメラが仕掛けてあって、伯父はそのことを知っている。
いや、仕掛けたのは伯父だ。
そして彼は、カメラを通して私の裸を眺めて楽しんでいる。
それはあまりにもおぞましい事実で、大抵の理不尽さは受け流してきた私でも、さすがに今回ばかりは無理だ。
こんな事実を知った今、あの家で生活していけるだろうか。
とは言え、他の選択はない。
一日中頭を悩ませて、今日は全く授業に集中できなかった。
……後から思えば、この時は注意散漫になっていたのだろう。
唐突に、背中に衝撃を感じた。
(えっ?)
肩越しに振り返ると、バンビとその取り巻きの楽しそうな笑顔が目に入った。
次の瞬間、足元から地面が消える。
正確には、私の身体が線路上へと押し出されていた。
電車は速度を落とすことなく、すぐ間近まで迫っている。
運転士が大きく目を見開いているのを見て、やっと恐怖を実感した。
線路に叩き付けられるのと、先頭車両に衝突するのとでは、どちらが先だろうか。
しかし、次の瞬間、不可解なことが起きた。
眼下に、小さな球体が現れたかと思うと、それは大きく広がった。
球体だったものは、金色の燐光を帯びた黒い靄と化し、私の全身を包み込んだ。
(何? これは……)
周囲は一面真っ暗闇で、何の音も聞こえない。
前後左右も不確かな、静寂に満ちた闇がどこまでも続いている。
まるで、先ほどまで私がいた世界から切り離されたみたい。
足を動かして前進してみたけれど、本当に進んでいるのかどうかわからない。
手を伸ばしても、指先は虚空を薙ぐばかり。
(いったいどうなったの? まさか……)
死、という言葉が脳裏に浮かんだ次の瞬間、唐突に凄まじい引力を感じた。
それは私の全身を捕らえて、そのままどこか別の場所へと放り出したかのよう。
そして、気付けば私は見知らぬ青年の膝の上にいた。
何一つ状況がわからないまま、何人もの男に取り囲まれ、しかも彼らは一斉に私に悪意を向けた。
もちろん、身の覚えなどある筈もない。
周囲にいる男たちが口々に「殺せ」と喚く中、その青年……エレフザード陛下と呼ばれた彼だけは私を庇ってくれた。
なのに、彼は今、私の喉元に抜き身の刃を突き付けている。
困惑する私を、彼は冷たい目で真っ直ぐに見つめる。
「いくつか確認したいことがある」
陛下が感情の籠もらない言葉を紡ぐ。
けれど、それらは既に私の耳には殆ど入っていない。
心臓が早鐘を打つ音が、耳の奥で響いて彼の言葉を掻き消す。
(どうして?)
そんな疑問が浮かぶも、それを声にすることはできなかった。
元いた世界で、散々厄介者扱いされた挙げ句に線路へと突き飛ばされた。
この世界に来てからも、訳のわからないまま殺されそうになった。
そんな中で、唯一私の味方をしてくれたのが、目の前にいるこの人だったのだ。
ところが、彼は今、私に刃を向けている。
裏切られた、という思いが胸に去来する。
最後の希望を見失うと同時に、辛うじて私を支えていたか細い糸がついに切れる音が聞こえた気がした。
支えを失った精神が、奈落の底へと落ちて行く。落ちる間際、咄嗟に手を伸ばして何かを掴んだ。私に向けられた金色の双眸が、困惑するように揺らぐ。
私は、半ば無意識の内に喉元に向けられた剣の切っ先を掴んでいた。
掌から零れ落ちた鮮血が手首を伝い、セーラー服の袖口を赤く染め、水音と共に足下に滴る。
「お断りします」
相手をひたりと見据えてそう断言したけれど、それが限界だった。
ぐらりと視界が揺れたかと思うと、直後に暗転し、私の意識は昏い淵へと沈んで行った。
「美夜!」
意識が途切れる直前、誰かに呼ばれた気がした。