56話「従騎士シルウェステル」
部屋を飛び出した私は、まるで美術展示場のような回廊を突き抜けていく。
そのまま広い渡り廊下を通過して別の棟へと移動した。
許可された行動範囲を既に超過していると知りながらも、決して止まらない。
もっとも、陛下が家族をあの場に置いてまで私を追って来るとは思わないけれど。
同じブラギルフィア城内でありながら、初めて足を踏み入れる場所までやって来た。
この辺りには私の顔を知る者もいないだろうけれど、装いが装いだけに、何者かと問われる恐れもある。
広い庭……いつもの見慣れた箱庭ではなく、広々とした見晴らしのいい庭に出て、そのまま目的もなく歩き出す。
どこに行くのか、自分でもわからない。
ただ、今はとにかく完全に一人になりたかった。
なるべく遮蔽物を見つけながら庭を進む。
庭は遠くから見れば見通しがいいけれど、規則正しく植えられた生垣は私の背丈とそう変わらない。
存外、遠目からでも私の姿を隠してくれそうだ。
歩く内に、樹々が生い茂った場所に続く小道を見つけた。
小道の奥は広い空間になっていて、一本の木を囲む形で円形のベンチが置いてある。
私はそのベンチに座ろうとして、やっぱり止めた。
ベンチのすぐ近くの低木と低木の間に、自然にできた空間を見つけた。
ベンチに座った状態だと、小道を覗けば私の姿が丸見えになってしまうけれど、ここならそう簡単には見つからない。
私はその空間に身を置くことにした。
「……はー」
ようやく腰を落ち着けたと私は、詰めていた息を吐き出した。
思わず逃げ出したものの、いずれは部屋に帰らなければならないのはわかっている。
帰らなければならないと言えば、元の世界のこともある。
正直に言うと、元の世界に帰ることについては、一旦は承諾しておけばいいと安易に考えていた。
多分きっと、私には深淵を渡る能力がある……筈だ。
母もそう言っていたもの。
私がその力を行使し、自分の意思でブラギルフィアに戻って来たら、もう元の世界に送り返すようなことはできないだろう。
そうなれば陛下も折れてくれる、そう思った。
何と言っても、陛下だって本心では私と離れたくない筈だから。
でも、そういう問題ではなかった。
陛下の気持ちに付け込んだり、情に訴えかけたり、そんな小手先が通用しないほどに陛下の意思は固い。
頭が固いとか独り善がりというわけでもない。
私のことを考えて、それが最善だという結論に至ったのだということは理解できる。
もしかしたら、私は本当にここに留まるべきではないのかもしれない。
ブラギルフィアで過ごした日々の思い出と共に、元の世界で生きるべきなのかもしれない。
いつしかそう思い始めたものの、陛下の腕に纏わり付く靄は、やはり看過できない。
けれども、その解決に繋がる可能性さえも彼は撥ね付けた。
完全な拒絶、少なくとも私にはそう感じられた。
「……っ、ふっ、く……う、ぅ……」
陛下の前では何とか堪えた涙が、堰を切ったように溢れ出す。
抱えた膝の間に顔を埋め、私は啜り泣いた。
悲しくて悔しくて腹立たしかった。
陛下は私を拒んだ。
あの女、クラヴィスとは、一子を儲けるまでの関係を持ったというのに。
犠牲を強いるわけにはいかないだなんて、そんな言い方はあんまりだ。
それから、どのぐらいの時間が経っただろうか。
誰かが近付いて来る気配を察知して、反射的に嗚咽を止めた。
息を殺し、物音を立てぬように細心の注意を払いながら、僅かに顔を上げて様子を伺う。
間違いない。
何者かの足音が近付いて来る。
いったい誰が何をしに来たというのか。
私に気付くことなく引き返してくれればいいと願ったけれど、その想いはいとも簡単に裏切られた。
ベンチの側まで来た人物は、私の存在に気付いてぎょっとした。
私はと言うと、半ば居直って目を逸らすことなく睨み付けてやる。
お互い知らぬ顔ではなかった。
現れたのは、陛下の従騎士であるシルウェステルだ。
そういえば、今日は陛下の側で彼の姿を見ていなかったことを思い出す。
服装も常に比べればラフだし、もしかしたら休日なのかもしれない。
シルウェステルは唖然とした面持ちで私を見つめ、それから何か言おうと口を開きかけた。
その時だ。
「シルウェ」
突如として聞こえた声に、私とシルウェステルは同時にはっとした。
足音と共に、誰かがシルウェステルの側まで歩み寄る気配があった。
その姿を、あるいはシルウェステルの畏まった様子を見るまでもなく、陛下だとわかる。
「陛下!」
「いや、楽にしてくれていい。せっかくの休日なのに呼び止めてすまないな。
……美夜を見なかったか? この辺りに向かったことは間違いない筈だが……」
この時の自分の感情を、どう捉えるべきだろうか。
まだ、安堵を感じるほど落ち着いたわけではない。
正直、これほどまで陛下に会いたくないと思ったのは初めてだ。
バンビ一味に目を付けられた翌日の、教室に入る直前の気持ちに似ている。
気が進まない、けれども避けて通れないことを、見えない重圧に強要される時の感覚。
シルウェステルは、すぐ近くにいる私のことを教えるに違いない。
「……いえ、私は見ておりません」
彼の声は酷く上擦っていた。
きっと、主君に対して嘘をつく後ろめたさからだろう。
私は信じられない思いで彼を見た。
シルウェステルは私のほうを見ようとはしないものの、意識がこちらに向いているのは確かだ。
数拍置いてから、陛下は「そうか」と言った。
そこには、静かな諦観が滲んでいるように思えた。
陛下は暫くの間、何も言わなかった。
あと数歩ほどシルウェステルに近付けば、私が潜んでいることに気付かれてしまうだろう。
そう考えると、胃がキリキリと痛みを訴え始めた。
「わかった。俺は別の場所に移ることにする」
「は……い」
「もし美夜に会ったら、伝えておいて欲しい。日が暮れる前に戻るように、と。帰り道がわからなければ、近くにいる者に話してマティルダかサーシャ、あるいはアスヴァレンにでも伝言を頼めばいい。彼女たちには既に事情を伝えてあるから、すぐにでも迎えの者を寄越してくれる」
言い終えると同時に、陛下の足音が遠ざかっていくのが聞こえた。
彼に深々と一礼するシルウェステルを尻目に、緊張が解けた私は一気に脱力した。
同時に、陛下は従者の嘘と私の存在に気付いていたと確信する。
ああ、ますます顔を合わせにくくなってしまった。
「……もう行ってしまわれたようだ」
「……え?」
はぁ、と嘆息したところで聞こえた声。
自分にかけられたものだと気付くまで、少し時間がかかった。
間の抜けた沈黙が流れる。
それを破ったのはシルウェステルで、彼は「あああぁ」と奇声を上げて項垂れた。
「ああ、なんてことだ! まさか陛下に嘘偽りを述べるとは!
ああ、くそっ……! 一生の不覚……!」
私は唖然としながら、一人で騒ぎ立てるシルウェステルを見つめる。
主君に嘘をつくということは、彼にとっては私が考えている以上に重い罪に当たるようだ。
私こそ自責の念に駆られて然るべき場面なのかもしれないけど、今まで漠然と抱いていたイメージとは異なるシルウェステルを前に、呆気に取られるしかできなかった。
やがて彼はヨロヨロと立ち上がり、それから私に何かを差し出した。
「ん」
「え」
「ほら!」
「は、はぁ」
よく見れば、その手には瀟洒なハンカチがある。
使えということだろうか?
仕方なくそれを受け取ったところ、どうやら正解だったらしく、彼はそっぽ向くと同時に一歩下がった。
何だかよくわからないけれど、この場合は涙を拭くのが正しい……気がする。
他人から借りたハンカチという時点で大いに抵抗があったけれども、私はそれを目元に押し当てた。
気が付けば、涙はほぼ完全に乾いていた。




