55話「覚悟は決めている」
陛下は私の申し出に対し、すぐには何も言おうとしなかった。
完全な無表情で、まるであらゆる感情が欠落したみたいに沈黙する。
先ほどとは異なり、重苦しい静寂が部屋を支配する。
切り出し方を間違えただろうか、と思ったけれども、どう切り出したところで大差はなかっただろう。
そう簡単に事が運んだとは思えない。
胃の痛くないような緊張感を覚えながら、次はどう打って出るかと思案する。
けれど、私より先に陛下が口を開いた。
「……アスヴァレンか」
「え……?」
苛立ちと諦観が入り混じった声音だった。
きょとんとした顔で見返す私に、陛下は詰めていた息を吐き出してから語り始めた。
「大方、アスヴァレンの奴が美夜に何かを吹き込んだのだろう。すまない、嫌な思いをさせてしまったな」
「え……えっ? いえ、違います。その、アスヴァレンは関係ありません。私が自分の頭で考えて導き出した答えです」
思わずそう反論した。
実際のところ、嘘は言っていない。
確かにアスヴァレンに教えてもらった部分も大きいけれど、彼が何も仕掛けなくても、私はいずれ自分の意思で行動を起こし、「交歓の儀」という答えに行き着いていた。
アスヴァレンの助力のお陰で、時間短縮できたというだけのことだ。
「何にしても、そのことは忘れてくれ」
口調こそ穏やかだけど、そこには断固とした意志が感じられた。
そして、私にはそれが拒絶のように思えてしまう。
驚きと憤りを抱えながら陛下を見つめるも、彼は相変わらず悠然とした様子で私の視線を受け止める。
「元の世界に帰ることに承諾すれば、何でもしていただけると仰いましたよね?」
「俺に可能な範囲で、という条件付きだ」
「無理難題は申しておりません。その、つまり、一発ヤらせてくださいというだけのことですから、その……」
「十分に無理難題だ」
わざと直接的な表現を用いたのに、陛下は全く動じない。
私は暫しの間陛下を睨み付け、それから独白のように呟いた。
「……それは、私にそういう魅力を感じないからですか?」
「いや、それは違う」
返答は思いの他早かった。常よりも早口で言って、首を左右に振る。
「美夜ほどかわいらしく可憐な女性は他にはいない」
「それは、えっと、ありがとうございます。って、だったら何故……」
陛下にそう断言されれば、悪い気がする筈もない。
とは言え喜んでいる場合ではないと、すぐに気を引き締めた。
陛下は困ったように眉を顰め、私から視線を反らす。
「理由はいくつかある。……美夜は俺の左腕のことを知った上で、その解決策としてそう申し出てくれたのだろう?」
「はい。テオセベイア、つまり私の祖母は陛下と似た症例を交歓の儀によって治癒したのだとか」
「あくまで口伝は口伝だ。もう二百年以上も前のことであって、信憑性はない。それこそ、『儀式』という意味合いのほうが重視されていたのかもしれない」
「で、ですが……!」
先日、私は治癒の儀を行ったばかりであり、その治癒師の一人は他ならぬ陛下だ。
変性術のような摩訶不思議な力が当たり前に存在している世界なのに、そんなふうに言われるとは思わなかった。
「どうしてそんなことを言い切れるのですか。実際、私の手足だって再生したではありませんか」
「無条件に何でも治癒できるわけではない。……それに、交歓の儀などテオセベイア亡き後は行われていない」
「それは彼女の血を受け継ぐ者がいなかったからでしょう? だから立証しようがなかった。……実際に行ってみなければ、ただの口伝かどうかはわからない筈です」
「いや、絶対に駄目だ」
強い語調だった。
あまりにも明確な拒絶に、私は言葉を失ってしまう。
「そんな不確かなものを検証するために、美夜に犠牲を強いるというのか?」
「犠牲だなんて、そんな」
ああ、またそれだ。
思わず奥歯を噛み締めた。
犠牲を強いるとか、巻き込みたくないとか、この方にとって私はあくまで「部外者」の域を出ない。
アスヴァレンと違い、全く頼りにされていないのだ。
私が申し出た「無理難題」を蹴るのも、私のためを思ってのことである。
「……私は遠からず、元の世界に戻ることになります。その前の思い出作りといいますか、初めての人が陛下であればと思うのですが……」
「ははは、嬉しいことを言ってくれる」
そう言って陛下は、少しだけ表情を和らげた。
でも、それもほんの一瞬のことで、すぐに笑みを消して私を見つめる。
「何と言われようと、俺が美夜を抱くことは絶対にない」
「……ッ、それは……それも、私を守るためなのですか?」
「その通りだ。俺の望みは、美夜を無事に元の世界へ……ご家族のところへ帰すことだ」
「じ、じゃあ、私が元の世界に帰って、誰か他の人と、その。くっついても、陛下は何とも思わないと?」
「美夜の幸せが何よりだ」
嫉妬を煽ろうとした、というわけではない。
悪あがきというほうが近いのだけど、それにしても冷静すぎる反応だった。
陛下が私を好きだというのが、誤った認識だったのではと思えるほどに。
唇を引き結んで押し黙る私を、陛下はじっと見つめる。
「美夜、わかってくれ。美夜が言った通り、貴女はいずれ誰かと出会い、愛し愛される日が必ず訪れる。その誰かのためにも、どうか自分を大切にして欲しい。この国の問題は我々で対処するべきことであって、貴女が案ずることは何一つとしてない」
聞き分けのない子供に辛抱強く付き合うみたいな態度が、どうにも癪に触って仕方がない。
彼の左腕には相変わらず黒い靄が渦を巻いていて、日増しにそれが広がっている気がするのは決して気のせいではない。
こうしている間にも、病魔は確実に陛下の身体を蝕んでいる。
それを遅らせる術すら、既に失われたのだ。
私が奪ったと言っても過言ではない。
そしてその私こそが状況を打開する鍵となる可能性があるのに、陛下は私に何もするなと言う。
「では、陛下はどうなさるおつもりなのですか。左腕を切断したところで、お命を繋げる保証はないのですよ」
内ではマグマのような激情が渦巻いているというのに、自分でも意外なほど静かな声が零れた。
返事はすぐにはなかった。
次に陛下が口を開いたのは、数拍置いてからだった。
「覚悟は決めている」
「そんな……!」
その言葉の意味するところは一つしかない。
私は思わず取り乱した声を上げてしまった。
動揺を隠し切れぬまま陛下を見つめても、彼は相変わらず凪の海のように平静だ。
先ほどの言葉はただの虚勢ではないと悟る。
そんな陛下を見ていると、私はとても腹が立った。
私にとって絶対に忌避したい事態なのに、どうして当の陛下はそんなに落ち着いていられるのか。
「それは逃げなのではありませんか?
貴方を必要とする者は多くいます。そんな彼らを置いて、ご自身の騎士道に酔われて逝かれると仰るのですか?」
支離滅裂かつ無礼極まりないことを口走っている自覚はあった。
それでも、とにかく何でもいいから陛下に考えを改めて欲しかった。
生に繋ぎ止めたいと思った。
「まだ打つ手はあります。ええ、そう、目の前に。まだ可能性がある以上、最後まで足掻くべきです。試してみる価値はあります。だから……」
「アトルシャンがいる」
言葉を捻り出す私を遮って陛下が言った。
その名を聞いた瞬間、あの金髪の子供の姿が脳裏にありありと浮かんだ。
同時に胸を締め付けられるような苦しさが私を襲う。
「そうか、美夜にはまだ紹介していなかったな。アトルシャンは俺の息子で……」
「……存じております」
そう答えた声は完全に抑揚を欠いていた。
心臓を氷の手で鷲掴みにされたような錯覚を覚え、意識が遠のきそうな気分の悪さに苛まれながらも、皮肉にも胸中で荒れ狂う激情が私の心を支えていた。
「殿下はまだほんの幼子でしょう」
「俺としても、王としての責務を放棄し、後のことを息子に押し付けて逝く気はない。俺にできること全てを終わらせるまでは、死ぬつもりはない」
「……」
ああ、そうだ。
この方は、自暴自棄になっているわけでも諦観しているわけではない。
逃げだとか自分の騎士道に酔っているだけだとか、そんな風に責めるのがお門違いだということは私自身もよくわかっている。
むしろ、他にそんな言う者がいれば、私が絶対に許さない。殴り飛ばしてやる。
何か言いたい、言わねばと思うのに、何の言葉も出て来ない。
それどころか、視界が酷く歪んで目の前にいる陛下の姿がよく見えない。
「美夜」
陛下の声音に混じった困惑、それに私の頬を伝うもの、私が先に気付いたのはどちらだっただろうか。
わからないし、どちらだろうとどうでもいい。
泣くところを見られるのは嫌で、零れ落ちるものを何とか阻もうと瞬きを繰り返す。
その時、扉を叩く音が聞こえて、心臓が止まりそうなほどの衝撃を受けた。
侍女たちが戻ってきたのだと思ったけど、それは半分当たりで半分外れだった。
扉が開く音と共に、誰かが部屋へと転がるようにして入って来た。
同時に、「ちちうえ!」という無邪気な声が聞こえた。
「これ、殿下! 勝手に入ってはいけませんよ」
それを咎めるのは、クラヴィス=クレイスの声だ。
「アトルシャン! 困った奴だな」
陛下が立ち上がり、小走りに駆け寄る幼子を抱き上げる気配があった。
私はと言えば、凍り付いたようにその場から動けずにいた。
アトルシャン殿下のことは、今の今までなるべく考えないようにしていた。
いずれは陛下の家族として、殿下やクラヴィスのことを改めて紹介される日が訪れる、そう思っていたけれどよりにもよってこのタイミングで?
嫌だ。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。
考えるより先に、私は椅子を蹴るようにして立ち上がっていた。
そのまま、扉付近にいるクラヴィス及びその後ろに付き従うマルガレータたちの脇を通過し、走り去る。
「美夜!」
陛下の声が聞こえても足を止めることなく、どこに行くかなんて自分でもわからないけど、とにかく走った。




