35話「平穏無事」
あの日以来、特にこれといった事件もなく平穏無事に毎日が過ぎて行った。
マティルダは随分と大人しくなり、私に嫌味や皮肉を言ってくることもなくなった。
体調が優れないのか、他に理由があるのかはわからないけれど、クラヴィスともあれから顔を合わせていない。
私はと言えば、その辺をぶらりと歩き回って情報収集に勤しんだり、独学でこの世界の言語を勉強したりして過ごしている。
そうこうしている内に、一ヶ月が経過した。
あと一ヵ月も経たない内に、陛下が帰還される。
逆に言えば、まだそれだけ待たなければならないということだ。
王宮の奥深くで守られている私を、次期神使なのではと考える者はマルガレータ以外にもいるみたい。
というより、噂の出所はマルガレータじゃないかと思っている。
あのお喋り好きか、こんな耳寄りな情報を自分の胸中だけに留めておけるとは思えないもの。
マルガレータを初めとした侍女が、城下町で話題になっているお菓子や花などを持って来るのは、つまりそういうことなのだろう。
そのお菓子を目当てに、アスヴァレンがたまに顔を出し、私を元の世界に帰すための装置の修復は順調に進んでいるというあまりありがたくない報告をしていく。
「……ふぅ」
自室で本を読んでいた私は、深い溜息をついた。
今読んでいた本は、子供向けの本よりも少し難しい内容のものだけど、正直言って手も足も出ない。
平穏無事、と言えば聞こえはいいけれど、実際には何の進捗もない状況が続いている。
日本語対応の辞書もない状態で、独学で読み書きを習得するというのは無謀だったか。
そろそろ限界を感じつつある。
教師を付けてもらうのも一つの手かもしれない。
陛下が戻って来たら、相談してみようか。
ふとそんな考えが過ったけれど、彼は私を元の世界に帰す気でいることを思い出す。
幽体離脱もあの夜以降は起こらないし、特に変わったものを目にする機会もない。
……否、後半の言葉には少し偽りがある。
常人には見えないものを「視」る能力は、こちらに来てから一層のこと高まった気がする。
「目」が良くなった、とでも言うべきか。
机の隅に視線を向けると、そこには猫とも狐ともつかぬ顔をした小人が二人(二匹?)すやすやと眠っている。
大きさは私の親指ほどしかなく、まるでシルバニアファミリーの人形みたい。
気が付けば部屋に住み着いていて、部屋の外に出しても気付けば戻っているのだ。
侍女たちに尋ねても、そんなものは見えないと言う。
窓の外を見ると、更に色んなものが「視」える。
樹々の間を、木の葉に同化するような緑色をした小動物が駆け抜け、風が吹く場所には半透明の鳥のようなものが舞う。
動植物に似たもの、動く無機物、姿形は様々だ。
きっと、あれらがマナと呼ばれるものたちだ。
あれらを使役して奇跡を起こすのが変性術師だけど、残念ながら私にはその能力がないらしい。
マナの力を借りて変性術を使う際には、彼らの存在を強く感じるのだと聞いた。
でも、私のように常日頃から「視」える者は稀なのだとか。
この「視」える能力こそが巫祈術というものだ。
マナの動きを「視」ることで、天候や天災を予測できる能力である。
もちろん、そこに至るまではそれ相応の練度が必要だけど。
私が巫祈術を持っていると知ったことで、マルガレータは「予想」を確信に変えたみたい。
彼女の、いや、彼女たちの期待を裏切るのは心苦しいとは言え、決定権は陛下にあるのだから仕方ない。
とまぁ、そのように新たな発見もあったけれど、進捗らしい進捗はまだない。
私は今、次に自分が何をするべきか思いあぐねている。
陛下の帰還は、もちろん待ち遠しい。
でも、彼は私を元の世界に帰す気でいる。
陛下が帰還し、更に空間移動装置とやらの修復が完成したら……。
それまであまり時間がない、何とか状況を打開しなければ。
でも、どうやって?
私は何度目かの溜息をついた後、机の端で眠る小人に視線を向ける。
軽く頬を突いても、起きる気配はない。
お伽噺に登場する小人みたいな服を着ているけれど、その服から覗く手が顔の部分は動物のそれで、艶やかな毛に覆われている。
眠るか食べる以外のことをしているところを見たことがないけれど、いったいどういう存在なのだろうか。
気分転換に庭の散策でもしよう、そう思って数歩歩いたところで床の上に落ちているものに気付いた。
元の世界から持って来た、うさぎのぬいぐるみだ。
「あ、れ……?」
思わず首を傾げる。これはいつも枕元に置いてあり、そして寝台は隣の部屋にある。
寝台から転げ落ちたとしても、さすがに距離が離れすぎている。
まぁ、当たり前のように魔法の力が生活に根付き、精霊や小人が存在する世界なのだから、別に不思議ではない……のかもしれない。
寝台のある部屋に戻るのも面倒臭くて、ぬいぐるみを持ったまま庭へと出る。
この一ヶ月で、春の気配は一層のこと近くなった。日中ならもうショールも必要ないぐらいだ。
薄手のドレスのまま、庭の散策を始める。
ミモザの時期は過ぎたけれど、代わりに違う花々が色付き始めている。
モッコウバラの蕾は日に日に膨らみ、かわいらしい花を咲かせてくれる日も近いだろう。
多分きっと、その頃には……。
(陛下)
久しく会えない人のことを思い浮かべながら、手に持ったぬいぐるみをぎゅっと握り締める。
その時だ。
「……え? あ、あれ」
目眩にも似た感覚を覚えた私は、思わず足を止める。
突如として空が揺れた。
否、揺れているのは私の視界なのか。
「あ……」
事態に気付くと同時に、小さく呟いた。
地面を見下ろせば、「私」の身体が傾ぎ地面へと倒れ伏せるのが見えた。
ああ、痛そうだと顔を顰める。
そう、私は……私の精神は、肉体から離脱してしまった。
周りの景色は肉体から見るよりも幾分か彩度が低い。
その代わり、マナたちの存在を一層のこと強く感じることができる。
(本当にどこにでもいるんだ)
肉体からでもマナを視認することはできるけれど、犬や猫を見る時みたいにはっきり「視」えるわけではなく、視界の端では瞬くのに直視すれば見失う星のように朧気だ。
また、その数も決して多くはなく、珍しい鳥や昆虫のように注意していなければなかなか見つけられない。
幽体になった私の視界には、多くのマナが動き回っている。
それらはスズメや野良猫のように、見つけようと思わなくても視界に入って来る。
……あまり意識を向けないようにしよう。
人間に対して敵意を持っているわけではないにしても、私たちとは全く異なる価値観や認識の中で生きている存在だ。
経験上、こういったものと目を合わせると碌なことにならないと知っている。
その時、誰かが私に声をかけた。
「ねぇ、ちょっと……」
「えっ?」
その消え入りそうな声は、すぐ間近から聞こえた……気がした。
しまった、反応するべきではなかっただろうか。
後悔と共に立ち竦む私の手の中で、ぬいぐるみが小刻みに震えだし、驚くあまり取り落としてしまった。
いったい何?
何が起きているのだろうか。
目を瞬かせる私の前で、地面に転がったぬいぐるみが揺れたかと思うと、そこから何かが飛び出した。
息を呑む私の目の前で、それはヒトの姿へと変じた。
女性、だと思う。
緋色のドレスを纏い、長い黒髪も束ねることなく垂らしている。
その輪郭や顔立ちは朧気で、全体的なシルエットから女性だとはわかるけれど、存在全体が酷く不安定に感じる。
私の知らない人物だ。
まさか、ぬいぐるみに封じ込められていた幽霊とか?
呆然と佇む私に彼女が何かを訴えかけてくるけれど、その声はあまりにも弱々しくて聞き取れない。
「え? な、何?」
最初こそ賢明に意思を伝えようとしていた彼女も、徐々に……というか、割と早い段階で苛立ちを見せ始める。
彼女の金切り声なのか、キーンと甲高く耳障りな音が響き、思わず顔を顰めた。
耳を塞ごうとした瞬間、不可視の力が私を捉えた。
抗議する間もなく、私の身体は強制的に引き摺られて行く。
「ちょ、ちょっと……! まっ、や、やめて……! あっ! こふっ!」
石に躓きそうになっても、枝葉が肌を傷付けても私の身体は意に反して止まってくれない。
靴と地面との間に摩擦が生じ、足下が熱を帯び始めている。
幽体とは言え、痛みははっきりと感じるというのは厄介だ。
「あうっ!」
ずざざざざっ!
派手なを立てて、私の身体は地面にうつ伏せの状態で投げ出された。
その拍子に掌をすりむいたのか、じんじんと痛みを訴えている。
どこの誰だか知らないけど、何て短気で乱暴な女なのだろう。彼女を睨み付けようと顔を上げた瞬間、今度は髪を掴まれた。
「い、痛い! やめてよ! ねぇ、やめてってば!」
こちらの抗議などお構いなしに、まるで荒縄でも扱うみたいに髪を引っ張り、無理矢理上向かせる。
そして、それを見た瞬間、彼女への抗議もどこかへと吹き飛んでしまう。
虚空に現れた裂け目……綻びがそこにあった。
横一文字のその裂け目は、前に見た時よりも確実に広がっている。
小さなポーチの口ぐらいだったものが、今では大きめのカバンの口ぐらいはある。
これって……。
次の瞬間、再び全身を引っ張られるような感覚が私を襲った。
まず感じたのは、後頭部への鈍い痛み。
先ほど倒れた時は俯せで、地面に手を着いた筈なのにどうして?
そんな疑問が脳裏を掠めたけれど、答えはすぐに見つかった。
いつの間にか、私は自分の身体に戻っている。
幽体になった状態で、先ほどの変な女に引き摺られた際にできた傷は見当たらない。
その代わり、幽体離脱した際にまともに転倒してしまい、打ち付けた部分が痛みを訴えている。
「いったい何が起きたの……?」
口に出して言ったものの、それに答える者はいない。
手には相変わらずぬいぐるみを持ったままだけど、今となってはただの無機物に過ぎず、うんともすんとも言わない。
不意に、自分が今しなければいけないことを思い出した私は、痛みに耐えて立ち上がる。
そして、急き立てられるように小走りで庭の奥へと進んでいく。
目指すのは、先ほど綻びを見つけた場所だ。
肉体に戻った状態でも視ることができるものなのだろうか、そんな不安はあったけれど、私はそれを見つけることができた。
「……あった」
詰めていた息を吐き出すと共に、小さく呟いた。
虚空に現れた、三十センチ物差しほどの横一文字の裂け目。
目を凝らすと、確かにあの黒い靄が漏れているのが見える。
これはいったい……。
立ち竦む私の目の前で、唐突にその裂け目から指先が生えた。




