32話「本物のアトロポス」
アスヴァレンが何か話しているけれど、彼の言葉は既に私の耳に届かない。
まるで世界からあらゆる音と色が消えてしまったかのようだ。
陛下に実子がいた。
そしてその子は、クラヴィスのことを母と呼んだ。
私は今まで、少女が主人公の物語を何冊か読んだことがある。
それに登場する少女たちは、高校生ぐらいの年齢でも子供を作る行為について知らない場合が殆どだった。
でも、私はそんなに無知ではない。
男女の身体の機能の違い、妊娠のメカニズムもそれに至る行為もきちんと理解している。
つまり、陛下とクラヴィスの間に何があったのかも。
……そして、その事実を理解するということは、私にとって相当な不快感を伴う行為である。
(陛下とクラヴィスが、そんな……)
陛下は私のことが好きな筈だ。
疑いもなくそう信じていたけれど、もしかすると早計だったのではないかと思い始める。
思い返せば、陛下ははっきりとそう伝えたわけではない。
それに、本当に私を好いているとしても、「好き」にも色々な形がある。
クラヴィスが言うには陛下はまだ妃を迎えていない状態で、しかもその理由というのが彼女に心を残しているからだとか。
少なくとも、彼女自身はそう思い込んでいる。
(……でも、二人の間に子供がいることは事実)
二人が相応の関係にならなければ、アトルシャン王子は存在していない。
そこで、私はあることに気付いてはっとした。
ということは、アトルシャン王子は正式な王妃の産んだ子ではなく、不義の子だ。
「アトルシャン……様は、陛下の世継ぎとなられるのですか」
「へっ?」
今、私とアスヴァレンとは並んで廊下を歩いている最中だ。
唐突な質問に彼は目を白黒させた。
「うん、そうだよ?」
「そうですか……」
アスヴァレンは彼のことを王太子と呼んだ。
つまり、不義の子でありながら第一王位継承者候補ということか。
おそらくは、正式な妃を迎えた後にはその女性との間に生まれた子供ということにするのだろう。
「君、どうしたんだい? さっきから変だよ」
「ええ、まぁ」
どうしたもこうしたも、気になっていた人に実子がいると知ればさすがに冷静ではいられない。
そんな気持ちを語る気にもなれず、言葉を濁した。
「アスヴァレンは、どうして隣の部屋に……?」
そう尋ねると、彼は珍しく決まり悪そうに肩を竦めた。
「クラヴィスが君に接触したって聞いて、すぐ駆け付けたんだよ」
彼の性格からしたら踏み込んできそうなものだけど、そうしなかっただけの理由があるみたい。
クラヴィスにも遜った態度を取っていたし、神使の地位は傍若無人な彼であっても軽視できないということか。
「あまり望ましくないことだったのですか? その、私がクラヴィス様と会ったのは」
「んー、まぁね」
そう言って言葉を濁したきり、黙り込んでしまう。
どうやら何か事情がありそうだ。
そのまま暫くは、お互い口を聞くこともなく廊下を歩く。
「アトロポスにも会ったのかい?」
アスヴァレンが次に口を開いたのは、私の部屋の前まで来てからのことだった。
「ええ、会ったと言えば会ったことになるのでしょうか。確かに、アトロポスと名乗っていました。あの、彼女はいったい何者なのですか?」
私は初め、クラヴィスは所謂二重人格と呼ばれる症状なのではないかと考えた。
けれど、歩いている内に別の過程が浮かんで来た。
もしかしたら、アトロポスの霊がクラヴィスに乗り移ったのではないか、と。
そういえば、こちらの世界には死者が乗り移るといったそういう概念はあるのだろうか。
「ま、クラヴィスが作り出した架空の人格だね」
「多重人格……ということでしょうか? 記憶の共有はしていないようでしたが」
「うん」
「娘……アトロポスの霊が母親に乗り移った、ということはないのですか?」
「いや」
彼は短く答えると共に、首を横に振る。
「それはないね。アトロポスはあんな性格じゃなかったからね」
「え?」
意外な言葉に驚きを覚えた。
アトロポスがクラヴィスの……母親が作り出した人格なら、生前の娘の性格や言動をそのまま反映したものだと思ったけど、どうやら違うみたい。
私の疑問を察したように、アスヴァレンは口の端を吊り上げて皮肉めいた笑みを浮かべる。
「生前のアトロポスは、とても人見知りで引っ込み思案な子供だった。いや、そもそも娘ですらなかった」
一瞬、何を言われたかわからなかった。ぽかんとする私を余所に、アスヴァレンは言葉を続ける。
「アトロポスは男、つまり息子だった。母親によって女の格好をさせられてたけどね」
私は暫し唖然として、アスヴァレンの言葉を脳裏で反芻した。
生前の、つまり本物のアトロポスは娘ではなく息子だった?
じゃあ、クラヴィスの中の人格とはいったい……?
「そ、それは、その。いったい何のために……?」
「君、あの人形は見たよね? あれを見て、どんな印象を受けた?」
そう言われて、先ほど見た人形の姿を思い出す。
本物の人間と見紛うほど精巧な人形で、その容姿はと言うと……一言で表現するなら、完璧な金髪美少女だった。
艶やかな金髪を持ち、陶磁器のように(実際に陶磁器そのものだろう)真っ白な肌には染みや黒子一つなく、大きな瞳は極上の宝石のように澄み渡り、それを縁取る睫は信じられないほど長い、生きているのが不思議に思えるほどの美少女……という、あり得ない理想、あるいは妄想を具現化したような印象を受けた。
それを伝えると、アスヴァレンは「その通り」と大きく頷いた。
「あの人形は、クラヴィスの『理想の娘』そのものさ。彼女はアトロポスが生きている頃から、我が子を見ようとせず、自分の頭の中で作り上げた虚像を追ってたんだ」
「じゃあ、あの人形は……」
「クラヴィスが腕利きの人形師に作らせたものだね。才気煥発、天真爛漫、無鉄砲、それでいて誰からも愛される美しい王女……それが、クラヴィスにとって理想のアトロポスだったってわけさ」
「でも、本物のアトロポスはそうではなかったと」
「うん。何しろ性別からして理想とは異なってたからね。アトロポスは褐色の髪と目で、気の弱く、王城に来てからもずっと何かに怯えてるような少年だった」
その話を聞いた私は、言い様のない不快感を覚えた。
「王城に来る前はどうだったのですか?」
「その頃からだよ。サーシャ……幼い頃からクレイス家に仕えて来た彼女の話によると、息子が生後間もない頃からクラヴィスは自分の理想の世界を心の中に創り上げ、ずっとそこで生きてたんだ」
「……それは、息子の存在を最も残酷な形で否定しているも同然ではありませんか」
「確かにそうだよね」
「そうだよね、ってそんな他人事みたいに」
「実際、他人事だもん」
クラヴィスの所業はもちろん、アスヴァレンの飄々とした態度にも腹が立った。
でも、彼は私の非難などどこ吹く風だ。
「エレフザード陛下の異母弟ではありませんか」
「うん、エルの異母弟であってエル本人じゃないよね」
今度こそ私は、何も言い返せなくなってしまう。
本当に、この人はエレフザード陛下しか見えていないのだ。
彼以外はどうでもいいとでも言うようなその態度は、いっそ清々しい。
その時、ふと気になったことを尋ねた。
「それにしても、今日は珍しく面倒臭がらずに答えてくれるのですね」
「あー、うん、まぁね」
決まり悪そうに言って肩を竦める。
「クラヴィスとの、しかもアトロポスとの接触を許したのは僕にも落ち度があったからね」
「なるほど。それにしても、私がクラヴィス様と関わることはそんなに不都合なのですか?」
「まぁ、色々あってね。クラヴィスは、見ての通り不安定なんだよ。それに、アトロポスは……」
「この場合の『アトロポス』というのは、クラヴィス様の別人格を差すのですか?」
「んー、うん」
クラヴィス=クレイスについて、何か隠しているのは間違いない。
でも、いったい何があるのだろうか?
彼にしては珍しく引け目を感じている今なら、何か話してくれるかもしれない。
「『彼女』はいったい何者なのですか? ただクラヴィス様が創り出した人格というだけなら、特に危険は感じませんけど」
「アトロポスは、君が考えてる以上に危険な存在なんだよ」
真剣な声で紡がれた言葉に、私は思わず黙り込んだ。
「彼女を……アトロポスという人格の脅威を抑えるために、クラヴィスを神使という地位に就かせてるんだからね」
「脅威……を抑えるため?」
「うん」
「それは、」
「もうこれ以上はいいだろ。君には関係ないことだよ」
ぴしゃりと私の問いかけを遮る。
彼にしては十分に譲歩してくれたけど、それももう終わりのようだ。
不完全燃焼ではあるけれど、ここで粘ってもアスヴァレンの口を喋らせるのは難しい。
何か他の手段を講じなくては。
「……ところで、その恰好は君の趣味なのかい?」
「えっ? いえ、これはマティルダが選んで半ば無理矢理着せられたと言いますか」
「あー、道理でね」
と、合点がいった様子で頷くアスヴァレン。
何だかわからないけど、酷く嫌な予感がする。
「あの、やはり変なのですか?」
「君が気に入ってるならいいじゃないか」
「あまり気に入っていないのですが」
「そっかぁ。僕もあんまり女物の服のことは詳しくないんだけどさ、そういう色は年老いた寡婦が着ることが多いよ。それこそ、マティルダみたいな。
それに、コルセットでぎゅうぎゅうに締め付けて腰の括れを強調するのはもう時代遅れの筈だよ。
確かに五十年前ぐらいはそういうのが流行ったけど、健康を害するってわかってからはもうとっくに廃れたと思うけど。
髪型も、女主人に仕える立場の女は主人より目立っちゃいけないからって理由できっちり纏めることが多かったけど、それも時代遅れな考え方になりつつあるよ」
私は唇を引き結んで、アスヴァレンの言葉を脳裏で反芻しつつ、自分の今の装いを見つめる。
そういえば、クラヴィスはオーガンジーのような布を重ねたようなドレスを着ていた。
身体を締め付けない着心地のよさそうなデザインで、色も綺麗なラベンダー色だ。
侍女たちも、仕事中は髪を邪魔に纏まらないように纏めているけれど、それでもどことなく抜け感を感じさせる髪型をしている。
私の今の髪型は、まるで物語に登場する口うるさい女教師のようだ。
「まさかマティルダは、嫌がらせのために私にこんな恰好を?」
「嫌がらせかどうかはわかんないけど、綺麗に飾り立ててやろうって気は皆無みたいだね」
「あのクソババア」
ああ、ついに口に出してしまった。
それでも全く反省する気のないまま、私は乱暴に髪を解く。
こんなドレス二度と着てやるものか、そう心に誓った。




