31話「アトルシャン王子」
さすがにアトロポスも、喋るのを止めて私を見た。
「黙って聞いていれば、陛下のことについて随分な言い草ですね」
「お兄様は可哀相な人なのよ。本来なら、王の器などではないの。なのに、心から愛したお母様のことさえ諦めて、王としての務めを全うしようとしていらっしゃる。周りは、そんなお兄様の脆く不安定な心を理解しようともせず……」
「黙りなさいよ」
私が言うと、今度こそ本当にアトロポスは口を噤んだ。
「ちょっと、あーた……」
マティルダが、何故か声を潜めながら私に言葉をかけた。
「お前も黙るのよ、マティルダ」
彼女に一瞥を向け、冷え冷えとした声で言い放った。
年老いた侍女は目を大きく見開き、固まっている。
「私がアトロポス王女と話しているのよ。侍女風情が口を挟むな」
マティルダは何か言いたそうに口をぱくぱくさせていたけれど、私の迫力に気圧されたのか、特に何も言わなかった。
賢明な判断だったと思う。
はっきり言って、言い合いになったら私は弱いから、彼女がまだ何か言う気ならこのケーキスタンドで顔面を殴るぐらいはしてやるつもりだった。
マティルダを黙らせた私は、再びアトロポスへと向き直る。
この女にはもう少し言ってやらないと気が済まない。
アトロポスはと言えば、暢気にケーキなど食べている。
彼女は顔を上げてマティルダを……つまり、今の人格にとっての「祖母」を見て微笑んだ。
「そうよ、おばあ様。どうか心配なさらないで」
「……そう……ええ、そうね」
マティルダは、蚊が鳴くような声で答えた。
いつになく動揺している、というよりは怯えているようにも見えるけれど、その理由まではわからない。
それに、今はそれどころではない。
悠然とお茶を楽しむアトロポスを見下ろし、そして睨み付けてやる。
「陛下は、深刻な事情を抱えていらっしゃる。誰にも何も言わず、その苦しみを……」
私の言葉を遮るように、かしゃん、と甲高い音が響いた。
アトロポスの手から離れたカップが、床に落ちて割れたのだ。
「うっ……あ……!」
彼女は激しく咳き込み、身体をくの字に折って苦しそうにしている。
「クラヴィス!」
マティルダが彼女に駆け寄り、背中をさすり始める。
「ああ、クラヴィス、大丈夫?」
「おかあ、さま……」
弱々しく顔を上げた彼女は、紛れもなくクラヴィス=クレイスその人だった。
憔悴しきった顔で、マティルダに身体を預けている。
「ごめんなさい、少し、つかれ……て……」
「クラヴィス様」
部屋の外で待機していたのか、クラヴィス付きの侍女たちが現れ、彼女を介抱し始める。
私はと言うと、すっかり出鼻を挫かれた形で立ち竦むしかできずにいた。
「ははうえ!」
聞き慣れないその声は、子供のものだった。
振り返ると、侍女たちの間を擦り抜けるようにして幼い子供が部屋の中へと駆けて来るのが見えた。
その後を追いかけるようにアスヴァレンが続く。
「ははうえ! だいじょうぶ? くるしい?」
その子供は、侍女たちの制止にも聞く耳を持たず、今にも泣き出しそうな顔でクラヴィスへと駆け寄る。
彼女はそんな幼子を抱き留め、弱々しく微笑みかける。
「ああ、アトルシャン。悪い子ね、隣の部屋で大人しくしているように言ったでしょう?」
「侍女たちが慌て始めたのを見て、貴女の身に何かがあったのではと心配し、私より早く駆け付けてくれたのですよ」
そう言ったアスヴァレンの口調は、どこか言い訳めいて聞こえた。
どうやら隣の部屋で、この幼子のお守り役に当たっていたのは彼らしい。
でも、私は心臓が早鐘を打つのを感じながら、呆然と立ち竦むことしかできなかった。
信じられない思いで、クラヴィスに縋り付く子供をまじまじと見つめる。
年の頃は三つか四つほどの、金髪の男の子だ。
まさに、「天使のよう」と形容するに相応しいほど綺麗な顔立ちだ。
その顔は私の知る人物に酷似している。
そして、彼はクラヴィスのことを母上と呼んだ。
まさか……。
「やっほー」
聞き覚えのある緊張感のない声に、我へと返った私はアスヴァレンを振り返った。
「アスヴァレン、どうしてここに……」
「んー。神使に呼ばれたって聞いてね、念のため隣の部屋で待機してたっていうか。アトロポスのお目付も兼ねて。うん、美味しい」
ちゃっかり、ケーキスタンドに残ったお菓子を食べ始める彼を咎める者はいない。
皆、それどころではないようだ。
私とて例外ではない。
(アトルシャン)
その名を心の中で反芻する。
これが、あの子供の名前。
「陛下の弟君ですか」
殆ど祈るような気持ちで口に出した声は、自分のものとは思えないほど抑揚を欠いていた。
アトルシャンと呼ばれた子は、一見しただけで血縁者だとわかるほど陛下にそっくりだ。
それこそ、写真で見たのなら、子供時代の陛下だと言われても疑いさえしないほどに……。
けれども、アスヴァレンは口をもごもごと動かしながら首を横に振る。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
「ううん。王弟じゃなくて、王太子アトルシャン。エルの第一子だよ」
絶望という闇の中、残酷な事実を告げる暢気な声が響く。




