112話「我が剣、我が忠誠は貴女のために」
天幕を出た頃には、既に夜の帳が落ちていた。
所々に松明が設置しているものの、数メートル先は闇だ。
暗闇を怯える性質でもないけれど、不安な振りをしてさり気なく陛下に身を寄せる。
陛下は私の背に手を添え、足下や周囲に危険がないか十分に気を配ってくれる。
その際、陛下の左腕の様子を改めて確認してみたけれど、あの忌まわしい黒い靄は見当たらない。
いったいどういうこと?
……「交歓の儀」を行ったことで、呪いが完全に解けたのだろうか。
それに越したことはないものの、油断は禁物だ。
やがてある天幕へと辿り着くと、陛下に促されるままに中へと入った。
ティエリウスの周辺は、ブラギルフィア地方よりも気温が低い。
春とは言え、夜になると冷え込む。
天幕の内には火が焚かれ、外気から遮断された空気を暖めてくれている。
安堵を覚えたことで、私は思わず詰めていた息を吐き出した。
その時、陛下に腕を引かれたかと思うと、次の瞬間には抱き締められていた。
「美夜」
私は口を開きかけたものの、上手く言葉を構築することができず、意味を成さぬ声だけが漏れた。
代わりに、陛下の背に自分の手をそっと添える。
ああ。
私は、ようやく帰って来ることができたのだ。
自分の在るべき場所に。
今の今まで、他の誰かの目がある場所ではずっと抑えていた感情が、一気に込み上げて来る。
陛下の温もりを感じながら、瞼の裏がじんわりと熱くなるのを感じた。
「こうしてまた会えて……良かった、本当に」
「……はい」
嗚咽にも似た声でそう答えた時、瞳から溢れ出した何かが頬を伝って零れ落ちた。
慌てて瞬きして、無理矢理にそれを留める。
私の顔を覗き込んだ陛下が、小さく笑う気配があった。
気恥ずかしく思う間もなく、陛下の指先が私の目元を拭う。
私から少しだけ身体を離した陛下が、真っ直ぐに私を見つめる。
そこに戯れの色はなく、切ないまでにひたむきな目が私を捉える。
「ティエリウス王城でも既に言ったが」
言葉を紡ぎながら、そっと私の手を取る。
「主神は、姫神テオセベイアに仕える存在として我が祖を創造なされた。ならば、ブラギルフィアの騎士が仕え、守るべきは彼女の血を引く貴女ただ一人」
金色の双眸に映る私もまた、神妙な面持ちでその言葉に耳を傾けている。
陛下が言葉を切った時、無言で頷いた。
それから、躊躇いがちに口を開く。
「はい。確かに、ブラギルフィア騎士としての誓いについては伺いました。それに、主君への報告も」
陛下は私をじっと見つめたまま、不意に表情を和らげた。
それから、少しだけ苦笑して続く言葉を紡ぐ。
「あの日……誓いを立てた時点では、美夜の出自について皆に知らせることにはまだ迷いがあった。できれば、事実は伏せたままのほうが美夜のためにもなるではないか、そう思っていた。しかし、それはあまりにも思い上がった考えだと思い知らされたよ」
そう言って小さく首を振った。
何の話かわからず、きょとんと見上げる私の髪をそっと撫でて、続く言葉を口にする。
「ブラギルフィアとは、姫神が愛した地。本来なら、この国は貴女のものだ。あの奇跡を……深淵を自由自在に渡る奇跡を目にした時、そう実感した」
「そう、でしたか」
「だから、美夜」
陛下は私の名を呼び、両手でそっと頬を包み込んだ。
私は心臓が早鐘を打ち始めるのを感じながら、続く言葉を待つ。
「貴女の出自を公にしたことで、良からぬことを企てる者がこの先も現れるだろう」
「……ベレス王のように」
「ああ、そうだな。だが、この先何があっても俺が貴女のことを守る。我が剣、我が忠誠を貴女に捧ぐと改めて誓おう。……その代わり、未来永劫離れることは許さない」
以前、現代日本で過ごした時と同じ言葉。
だけども、今度は私たち個人で交わすだけではなく、国や多くの臣下を交えた上での誓い。
「元より、私の心は決まっています」
それに対して私は、静かな、あるいは素っ気ないようにも聞こえる声音で答えた。
臣下や国民を巻き込もうとも、他国との関係が悪化しようとも……これはさすがに困るけれど……私の覚悟が揺らぐ筈がないのだ。
陛下と離れて別の道を生きるぐらいなら、私は迷えず死を選ぶ。
だから、私の出自を公開するかしないかなど大した問題ではない。
それよりも、他にもっと重要なことがある。
私は陛下との距離を詰めて、胸が触れそうな位置で顔を上げる。
「美夜?」
「本当に、誓っていただけるのですね?」
「ああ、当然だろう」
「ならば……」
陛下を見上げたまま、両の瞳を閉じる。
私の意図を理解したためか、陛下がたじろぐ気配があった。
玉座の間で再会した時、私からはしたけれどそれだけでは不十分だ。
だって、私とて女の子。
やはり好きな人からしてもらいたいと思うのは当然のこと。
何を躊躇っているのか、陛下が小さく呻くのが聞こえた。
先ほどのように自ら彼の首に腕を回し、背伸びしてやり遂げたい衝動を抑え、じっと待つ。
「……美夜」
困惑と諦観が入り交じった声が聞こえた。
正直、拒まれるのは嫌だなと思う。
拒まれたからと言って嫌いになるわけじゃないけれど、やはり少し傷付く。
そもそも、いったい何故迷う必要があるのだろう。
瞼が痙攣し始めた頃、小さな嘆息と共に陛下の手が頬へと触れる気配があった。
私は大いに緊張しながら、次の瞬間を待つ。
唇に触れる柔らかさに、自分の願いが成就したことを知る。
とは言え、それは本当にたった一瞬のことだった。
「……美夜」
陛下が離れる気配を感じ、片目だけ開いて覗うと、彼は決まり悪そうに苦笑を浮かべている。
「状況が状況だ、今日はここまでにしておこう。そうだ、腹が空いただろう? すぐに食事を……」
「……食事では満たされないものもあるのではありませんか?」
「美夜」
陛下が溜息交じりに私の名を呼ぶ。
その時、私の脳裏にある考えが閃いた。
「『それ』が満たされない限りは何も食べられません。例え飢えて死ぬことになろうとも、パン一切れさえ喉を通らないのです。つまり、文字通り私の命運は陛下の手の内にあるのです」
私の言葉に、彼は弱り切った様子で眉根を寄せる。
やがて、根負けしたのか先ほどよりも長い溜息をついた。
陛下は私の頬へと手を添え、空いているほうの手の親指で唇をなぞった。
真っ直ぐに目を見つめ、そっと囁く。
「……わかった。貴女の望む通りに。だが、その代わり、二度と死ぬなどと口にしないでくれ。例え冗談だとしても」
あまりにも真剣な口調と眼差しに、私は頷くことしかできなかった。
瞼を落とした後、再び唇が触れ合う気配があった。
今度は、先ほどよりもよりも長い。
しかも、一瞬離れたかと思うと、すぐに再び重ねられる。
「……ふ、っ」
息苦しさを覚えた私は、口付けの合間に小さく声を漏らした。
「陛下、もう……」
十分です、と言いかけた言葉は、何度目かの口付けによって遮られた。
強く抱き締められていて、殆ど身動ぐこともできない。
不意に、背中に硬質なものを感じた。
どうやら、天幕を支える柱のようで、これでは身を引くことできない。
……ようやく解放されたのは、緊張と息苦しさで文字通り息も絶え絶えになった頃だった。
「……っ、はっ……」
忙しなく早鐘を打つ心臓は、今にも皮膚を突き破りそうなほどだ。
その鼓動を感じながら、荒々しく呼吸を貪る。
今の表情を見られることには抵抗があって、陛下の胸に額を押し当てて相手の視線から逃れる。
心臓付近に触れられた瞬間、一際大きく跳ね上がった。
「随分と鼓動が速くなっているな」
「だって……当たり前です」
半ばふて腐れながら答えると、陛下が小さく笑う気配があった。
それから、私の頭を抱き寄せて嘆息混じりに呟く。
「……迂闊に触れると歯止めが利かなくなることはわかっていたからな。だから、近付きすぎないように自分に言い聞かせていたのに」
そう言いながらも、心臓の辺りに押し当てた手はそのままである。
……何と言うか、位置的になかなかに際どい場所である。
そのことを指摘するべきか、あるいは身を引くべきかと悩んでいたら、その手がやや下方へと移動する。
思わず身構えたけれど、予想に反して陛下はすぐに手を離した。
視線を持ち上げて相手の顔を覗うと、首を左右に振るのが見えた。
「ここはあくまで即席の野営地に過ぎないからな。……この間の約束を果たすのは、帰還してからにしよう」
この間の約束、と聞いてどきりとした。
ああ、そうだった。身も心も結ばれた日に交わした約束だけど、色々あってまだ果たせないままなのだ。
「取り敢えず。今は夕食にしよう」
とは言え、今の状態ではその提案に同意するしかない。
頷くと同時に、自分が空腹であることを強く実感した。




