104話「母親という名の他人」
私は詰めていた息を吐き出す。
そうだ。
私と母とは、血の繋がった親子とは言え全く別個の存在だ。
私の理想を彼女に見出すべきではない。
私を見つめて、母は満足そうに微笑んだ。
「どうやら理解してくれたみたい、ね?」
「……はい」
「美夜ちゃんは、昔から賢い子だったものね。わかってくれるって信じていたの」
理解はしたものの、心から納得できるかどうかはまた別の話である。
でも、一先ずその話題は脇に置いておく。
彼女に言いたいことは他にもある。
「お母様とベレス陛下の関係については、私が口出しするべきではないことだと理解いたしました」
「良かったー」
「……ですが、私の婚姻のことについては別問題です」
にこにこと笑っていた母が、小さく首を傾げる。
「美夜ちゃん、サリくんのことは嫌いかしら?」
「好きとか嫌いとか以前の問題です」
私はここで言葉を切り、僅かな逡巡の後に再び口を開いた。
母はサリクスがどんな人物なのか、全く知らないようだ。
この際、全て話してしまおう。
「私はあの男に殺されかけました。あの男はとんでもない変態王子です。これまでも、異世界からやって来た稀人を捉えて殺しています」
「あらあら」
「あらあら、って……随分と軽いですね。彼がいつも連れている少女たちをご存知でしょう? サリクスは、稀人の死体を利用して彼女たちを創造したのです。私も危うくその『素材』にされるところでした」
「じゃあ、私が美夜ちゃんと再会した時、実はピンチだったのかしら?」
「ええ、まさに解体される寸前でした」
「だったら、もう安心していいわよ」
「……は?」
あまりに緊張感のない物言いに、私まで間の抜けた声を出してしまう。
聞き間違いだろうかと母を凝視したけれど、能天気ににこにこ笑っている辺り、そうではなさそうだ。
「美夜ちゃんがここにいることは、私もベレス様ももう知っているもの。サリくんは確かにちょっと意地悪だけど、頭のいい子だからね。ベレス様の怒りに触れるようなことはしない筈よ」
「え……? あの、確かにそうかもしれませんが……私は彼に殺されかけたのですよ?」
「美夜ちゃんが殺されなくて、本当に良かったわ」
「……そうですか」
私は素直に頷いた。
言いたいこと、突っ込みたいことは色々とあったけれど、それら全てを呑み込む。
普通の感性を持つ人間なら、この話を聞けばもっと異なる反応を示す筈だ。
驚くなり、サリクスへの怒りを覚えるなり、娘を彼から遠ざけようとするなり。
でも、母にそんなものを求めても無駄なのだ。
抗議したところで、時間と労力を費やすだけで得られるものは何もない。
緩やかな諦観と共にその事実を受け入れた私は、話を元に戻す。
「何にせよ、私はサリクス王子と結婚する気は毛頭ございません。既に申し上げました通り、私はブラギルフィア国王の婚約者です」
「でも、ベレス様はすっかり乗り気みたいね~」
「みたいね~、って……お母様は私の味方だと仰いましたよね?」
「もちろんそうよ? 私が言って聞いてくれるならベレス様にそう進言するのだけど、言うだけ無駄だもの」
「……では、私に諦めてサリクスと結婚しろと仰るのですか?」
「うーん。今のまま行くとそうなっちゃうかしらねぇ。でも、もしかしたらベレス様の気が変わる可能性もあるじゃない?」
「……」
私は閉口して、まじまじと母を眺める。
……駄目だ、この人。
娘が嫌な結婚を強要されているというのに、のほほんとしている。
暖簾に腕押し、糠に釘、とはまさにこういうことを言うのだろう。
ベレス王が心変わりするなど、本気で思っているのだろうか?
私と母とは全く別個の存在であり、自分から切り離して考えるべきだということは既に理解した。
それに加えて、たった今、もう一つ理解したことがある。
人と人とを繋ぐものが絆だとすれば、血を分けた親子とは言え、絆を育む機会などなかった私たちは所詮他人に過ぎない。
そして、他人というものが如何に当てにならないか、私は身を持って知っている。
つまり、この人に対しては何一つ期待するべきではない。
私は詰めていた息を吐き出し、それから新たに吸い込む。
「……お母様の仰りたいことはわかりました」
「理解が早くて助かるわー。……と、いけないわ、そろそろ行かなきゃ」
「またベレス王のところですか」
「ええ、そうよ」
今更そう聞いたところで、昨日までの私のように心が乱れるようなこともない。
冷めた目で、退室しようとする彼女を見送るだけだ。
扉の前まで来たところで、母が私を振り返った。
「それじゃあ今日は失礼するわね、美夜ちゃん。……まぁ、あれよ。貴女も、もっと肩の力を抜いて今の状況を楽しんだらどうかしら?」
「ご忠告痛み入ります」
「今からは、婚約者同士水入らずの時間を過ごしてね」
母は嬉々とした調子で言って扉を開くと、そこにはサリクスの姿があった。
既に取り繕う必要もなく、顔を顰める私にお構いなしに彼は慇懃無礼に頭を下げる。
「これはこれは、美桜子殿。……相変わらず、貴殿の察しの良さには驚かされるばかりで
す」
「ふふふ、偶然よ。それよりサリくん、丁度いいところに来てくれたわ」
サリクスの言葉には含みが感じられたけど、母はそれに気付いているのかいないのか、何でもないような顔で私を振り返る。
「美夜ちゃんったら、何だかご機嫌斜めなのよ。今日も朝からご飯食べないーってわがまま言って、下女たちを困らせていたわ」
「それは感心できませんな」
「でも、普段はそんなわからないことを言う子じゃないのよ? まだ新しい環境に馴染めないみたいだから、美夜ちゃんと仲良くしてあげてくれる? お願い、サリくん」
首を傾げてかわいらしく「お願い」する母に、サリクスは喉を鳴らして低く笑う。
「婚約者として、するべきことはいたしましょう」
「ありがと、サリくん」
母はそう言って破顔すると、今度こそその場を後にした。
残された私たちの間に、重苦しい沈黙が流れる。
私は立ち上がると、扉の側へと足を進める。
もちろんサリクスを迎え入れるためではない。
私が扉を閉めようとすると、白いドレスの少女が割り込んでそれを防いだ。
「帰っていただけませんか」
「ええ、言われなくとも。務めさえ果たせばすぐにでも」
「務め?」
相変わらず、少女は見た目に似合わぬ怪力だ。
扉を閉めようにも、それに抗する少女のほうが私よりもずっと力が強い。
サリクスを追い出すより私が出て行くほうが早い、そう判断して無駄な抵抗を止めることにした。
ところが。
「エレフザードから返事があったと父から聞いたでしょう。私が、代理としてそれを持って来たのですよ」
「陛下からの?」
さすがにそれは聞き流せない。
そんな私の反応を見て、サリクスは苦笑いを浮かべる。
「そういうわけですので、中に入れていただけますかな」
「……ええ、喜んで」
そう口にしたものの、その声音には不本意さが滲み出ている。
とは言え、背に腹は変えられない。
陛下からの返事……見るのが怖い、けれども見ないわけにはいかない。
サリクスに促され、二人の少女も部屋へと身を滑り込ませた。
彼女たちの内の一人、黒いドレスの少女は手に包みのようなものを持っている。
「まぁ、返事と言っても手紙ではないのですがね。王女殿下は、彼奴が絵を嗜むことはご存知で?」
「……はい」
「貴殿の婚約について知った彼奴が、王女殿下に謙譲したいと言ってこの絵を寄越しまして」
絵、と私は言葉に出すことなく反芻した。
陛下が絵を嗜むことは私も知っている。
いつか彼の作品を見せてもらう約束を取り付けつつも、色々あってまだ叶っていないのだけど。
それでも、元の世界にいる間に紙にボールペンで描いたイラストを見せてもらう機会は何度かあった。
「何を思って、このような絵を寄越したのかはわかりませんが」
苦笑を浮かべたまま、黒いドレスの少女に包みを解くように促すサリクス。
彼女は包みをテーブルの上に置き、丁寧にそれを解いていく。
やがて現れたのは、額縁に納められたごく小さな一枚の絵。
いったい何が描いてあるのだろうか、多大な緊張を持って覗き込んだ私は、その絵を見た瞬間に言葉を失った。




