消化試合 〈2〉
試合は既に始まっている。
リングを取り囲む客席からは、野蛮な声援が飛び交っている。
スタジアム一杯に詰め掛けた観客が途方も無いボリュームの、殆ど罵声が怒号に近い声援を送っている。
レフェリーが二人の選手から、適当な距離を置きながら、慣れた調子で試合を裁いていた。
両選手ともに、相変わらず距離を置いたまま相手を窺うように立っている。
リングを取り囲むように陣取った客席からは、不思議なざわめきが沸き上がっていた。意味の有る言葉では無し、かといって叫び声や怒号とも違う、何か中途半端な無数の唸りが堆積して分厚い響きの層をなし、リングを取り囲んでいるようである。
二人はまだ間合いを詰めない。
時間にすれば、十数えるかどうかと言うくらいの間隔だったが、その僅かな間が、観客にはいやに長く感じられた。
ロギンスが仕掛けた。
大股で強引に踏み込んで距離を詰めるや、長いリーチを利用して、遠間から風を巻くようなパンチで撃ちかかって来た。
しかし、タツローは難なくこれを避ける。
打つ瞬間、相手がまだ動いていない、手を出そうと言うその時には既にタツローはブルッと体を一震いさせ、漸く攻撃が作動した時には一歩踏み出していた。ロギンスがパンチを出した時には既にタツローは動いている。彼が撃ちかかった場所は、タツローの立っていた位置とは見当違いな空間であった。
続いて右の回し蹴り。中段を狙ってきた。これも、同じようにタツローはかわして、それだけではなく今度はあっさりとロギンスの懐に入って行った。
ロギンスは慌てて後退する。
いや、退こうとしたが、間に合わず懐に入られてタツローのボディブローを一発食ってしまった。
苦痛は感じない。
戦闘の興奮状態でアドレナリンが分泌されているため、痛覚は麻痺している。しかし、それが曲者である。この軽いボディブローが、痛みを感じぬからと言ってあまり何発も受け続けると後々効いてくる、内臓を圧迫する打撃である話をロギンスも聞いている。
人はタツローのこのボディブローを『毒拳』と呼ぶ。
何故、タツローの中段突きがこのような効果をもたらすのか。
人体は水__この言葉に、その謎解きが隠されていた。
詳しく説明すると長くなるのだが、要するに人体は大半が液体で構成されており、表面を強く叩くより、深く押し潰すような打撃を受けると内臓自体が圧迫され、耐久性が劣化するのである。
タツローの拳打は、的に接触する瞬間に最大の速度を集中するよう訓練されており、その為標的に命中した後もある程度加速するのである。フォロースルーなどと言うような雑で曖昧な行為ではなく、ハッキリと敵体に接触した時に速度を上げ、できるだけ深々と勁力が浸透するように普段から心がけて練習しているのだ。
人体は水、とは良く目にする言葉であると思う。しかし、その意味__少なくとも、伝えんと言う意図を正確に実感しておられる方は少ないであろう。ハッキリ言えば、このフレーズにまつわる解釈は実に多種多様で、実態を把握するよりも、言ってしまえば意味も分らず何やら神秘的なムードに酔う言霊の様な捉え方が一般的であると思われる。更に、多少真面目に考えようとする方々の間においても、その人その人によって解釈がまるで違うのである。医療用語として用いられる場合もあれば、哲学の様に語られる時もあるが、今回は武術としての解釈を、一応納得していただきたい。
人体は水。
生物の体は、固体ではない。これは動物も植物も同じである。程度の差こそあれ、必ずその内部に水分が含まれている。特に人体の場合、質量の7割以上が液体だとの事である。その人体を破壊するためには、固体を粉砕するような打ち方よりも、液体、具体的には流体を押し潰すようなやり方が必要なのだ。
人間の体は、人によって鍛え方に個人差があると言っても、基本的には皆同じ、弾力を備えた液胞性のクッションなのである。
レンガや石を割るには、硬い鉄の棒かハンマーを用いれば簡単に割れる。何故か。これらは人体に比べればほぼ完全に固体であり、ほとんど弾力が無いからである。しかし、これが水気を含んだ生木になると、これらの硬質な道具で打っても容易く割れる事は無い。粘りが有るからである。逆に、のこぎりを使えば木は切れるが、石やレンガならば刃がかけるだけである。また、人間の頭を叩く時も、木よりは石やレンガの方が殺傷力がある。頭蓋骨は人体でも最も大きな骨格であり、かなりの硬度が有るからである。これが、腹を打った場合だと余り差はないであろう。このように、全ては相性があり、同じ人体ですらも場所によって性質や耐久性に違いがあるのだ。
話がえらくそれてしまったが__要するに、人体と言う弾力のある物質を潰す為には、石やレンガを割るやり方ではなく、水に波紋を起こすやり方が必要とされるのである。
タツローの中段突きは、表面を叩くのではなく、標的に接してから更に加速して、瞬間的に押し潰すのである。できるだけ、拳がぶつからないような打ち方である。フォロースルーなどと言う中途半端なものではなく、明確に当たってから突きの速度を最大に加速するのだ。それにより、液体を含んだ内臓が瞬間的に圧迫され、その細胞をつないでいる組織の構造が劣化するのだ。
如何にも何か訓練したような形のロギンスの動きに対し、タツローの身捌きは日常の動作の様に自然であった。
パンチの速度も話にならないほどロギンスの方が速い。にも拘らず、ロギンスの攻撃はことごとく空を切り、タツローの、まるで素人の様なパンチが簡単に命中する。