94話「神聖な儀式」
アンヘルの顔が、ろうそくの明かりにほんのりと照らされている。薄暗い室内には、円形並んだ信者たちの低いうめき声が絶え間なく響き渡っている。
「ジェシカ、道具をこちらへ」
「はい、司祭様」
ジェシカは金属製のトレイを持ってアンヘルの下に近づいた。その上にはガラス製の空きびんと、黒曜石でできた小型ナイフが乗っていた。
ハワードはそれを実際に目にすると少し怖気づいたようで、ひゅっと息を呑んだ。一方のエマは何を思っているのか、苦しげにそれを眺めていた。
「それでは黄昏夜会を始める。ハワードさん、エマさん、心の準備はよろしいですか」
「はい。娘をどうかよろしくお願いします」
ハワードは施術台の上で横になっているエマを見下ろしながら、その肩にそっと手を添えた。エマは顔をしかめながら苦しそうに呼吸している。エマが顔を傾けてふと隣を見ると、そこには意識を失った掘爬がぐったりと横たわっていた。
ハワードが心配そうに振り返りながら魔術陣の外へ出たのを見届けると、アンヘルは厳かな表情で台を見下ろした。
「エマ・オニールさんへの術式を始めます。ナイフ」
「はい」
アンヘルの右手が差し出されると、ジェシカはナイフを手際よく渡した。アンヘルはナイフを掘爬の胸元に突き付けてから、ぐっと押し込むように突き刺した。掘爬はそれでもなお反応することなく、静かに横たわっている。どういう原理か、傷口から血が流れることはなかった。
「ガラス瓶」
「はい」
アンヘルはガラス瓶を受け取った。コルクの蓋を開けて逆さまにし、それを掘爬の口にそっと当てた。掘爬の唇から溢れ出した煙のようなものが、瓶の中に次第に充満していく。
やがてそれがいっぱいになると、アンヘルは注意深く蓋を閉め、ジェシカが持っているトレイの上に置いた。
気体と液体の中間のような奇妙な形状をした物質が瓶の中で揺れるのを確認すると、アンヘルは小さくうなずいた。
「それではエマさん、いきますね」
「はい……」
エマは額に脂汗を浮かべながら、ぎゅっと目を閉じた。アンヘルがエマの腹部に手を当て、はっきりとした口調で呪文を唱えると、みぞおちのあたりが緑色に発光した。
「救いあれ、恵みあれ。主たる神より授かりし御魂の在り処をここに示す。万物流転の源泉たるマナの導きにより、新たなる古き生命を滅びゆくこの身に宿せ――」
アンヘルが唱え終えた途端、エマの表情から険が取れ、穏やかな顔つきに変わった。
そしてジェシカがガラス瓶の蓋を開いた、そのとき。
「待て!」
叫び声に驚いたジェシカがとっさに振り返った瞬間、ガラス瓶がひとりでに空中に浮き上がった。
「えっ」
ガラス瓶はそのままふわふわと宙を漂い、乱入者の元へと向かっていく。その中身は次第に霧散して、消えていく。
ソウジはそのガラス瓶をキャッチすると、透明化を解いたアンナとともに、アンヘルをじっと睨みつけた。不測の事態に、アンヘルは困惑と驚愕の入り混じった表情でソウジたちを指差した。
「お前ら……!」
「その儀式、いますぐ止めてもらおうか」
「入るなァ!!」
ソウジが魔術陣に足をかけると、アンヘルはものすごい形相で怒鳴りつけた。
「神聖な儀式の場に入るんじゃない!」
「神聖……?」
ソウジは恫喝に臆することなく、さらに踏み込んだ。
「命を弄ぶこの儀式の、一体どこが神聖だって言うんだ!」
ナイフを痛々しく突き刺された掘爬と、その横で死んだように気絶しているエマを見つめながら、ソウジは叫んだ。
アンヘルは顔を片手で押さえながらくっくっと笑った。
「大切な誰かをある日突然失うことの恐ろしさを知らない、お前のような幸せ者には分からないだろうな! この儀式の偉大さが! 家族を救ってやりたいという、彼の心からの祈りが!」
アンヘルは事の成り行きを見つめながら陣の外で立ちすくんでいるハワードを指さした。部屋が暗いせいなのか、それとも辛い心境から眉をひそめているせいなのか、いつも険しい彼の顔のしわが一層険しく見えた。
ソウジは嘆息した。
「分かるさ。俺も大事な親友を失ったことがあるからな。だからこそ、そのやり方は間違ってるって言いに来たんだ」
アンヘルはそれを聞いてなお、馬鹿にするように鼻で笑った。
「どこが間違っているというんだ? 言ってみろ」
「小さな子供でも知っている簡単なことだよ。生き物はいつか必ず死ぬし、生き返らない。俺も、お前も、そこにいるエマちゃんだってそうさ。その結末をどんなに先延ばしにしても、避けることはできない」
「だから、死ななくて済む方法があるんだよ! しかも幾度となく成功している、確立された方法だ! それを否定するなんて、バカかお前は!?」
アンヘルは、駄々をこねる分からず屋の子供を怒鳴りつけるときのように、声を荒げた。苛立ちのあまり施術台を平手で何度も叩くアンヘルを、ソウジは冷めた目つきで見つめた。
「バカはアンタだろ。他の誰かを犠牲にして助かる命なんて、そんなの絶対にあっちゃダメだ」
「それが許されるかどうかは、部外者のお前が決めることじゃない! 司祭である私が決めることだ!」
アンヘルは手を前に出すと、室内に響き渡る大声で呼びかけた。
「生還者の諸君、そこにいる邪魔者どもを食べていいぞ!」
「オオオ……!」
魔術陣の外周にいる信者たちが、鶴の一声で動き出した。彼らはよろよろと立ち上がると、ふらふらと左右に揺れながらソウジたちに向かってきた。
「ね、ねえ、なんかこの魔たち、様子が変じゃない!?」
アンナの言う通り、生還者と呼ばれた彼らからは、健康さや元気といったポジティブな要素が感じられなかった。やせ細った両腕を真っ直ぐ前に突き出してのろのろと歩くその姿は、さながらゾンビ映画に出てくるゾンビのようだ。
「無理無理無理! 私、言ったわよね! ホラーは嫌いって!」
カナエは恐怖の表情を浮かべながら、すくみあがっている。ソウジだって、こんな得体の知れない存在に捕まるのはまっぴらごめんだった。
「とりあえず、エマちゃんを連れて逃げよう! ハワードさん!」
ハワードは沈黙したまま施術台へ歩み寄ると、横たわっているエマを背負った。アンヘルはハワードの背中に軽く手をかけながら、壁際へと誘う。
「場所を変えましょう、ハワードさん」
「はい、司祭様」
「ハワードさん!」
必死の呼びかけも虚しく、ハワードはジェシカとともに垂れ幕の裏へと消えた。彼がソウジたちを振り返ることは一度もなかった。




