93話「イル先生の魔術講座」
続いては、イルによる魔術講座の時間だ。
さっきの稽古が体育の授業だとすれば、こちらはさながら座学の様相を呈していた。
「では、始めます。どこまで話しましたか? 最近物忘れが多くて困ります」
「世界から魔法が失われて、その代替として魔術が生まれたってところまでは聞いたわ」
「ああ、そうでした。それでは、今日は魔術に関する基礎的な知識をお話しましょう」
イルはカタカタと揺れながら、運動の余韻が冷めやらず上気している二魔に向かって語り出した。
「天上に住まう神から授けられた魔法とは異なり、我々が住んでいるこの世界で生み出された魔術には『物理法則を書き換えることはできない』という大原則が存在します」
「えっ、好き放題できるんじゃないのか?行きたいところにワープするとか、時間を遡るとか」
ソウジはお腹の部分に白いポケットがついた某有名ロボットを想像しながら言った。
「『時空操作』は、失われし大魔法の一つです。魔術の範疇で起こせる現象はせいぜい、高速で移動するとか、空を飛ぶといった程度でしょうね。頑張って研究を続けていけば、いずれは実現できるのかもしれませんが、現時点では不可能と言っていいでしょう」
「そうなのか……やりたかったんだけどな……」
ソウジは夢が粉々に砕け散り、がっくりと肩を落とした。イルはそれを見て、あくまで淡々と言葉を紡ぐ。
「夢物語を追うのも良いですが、いまソウジ様が求めているのは地に足のついた実力だったはずです」
「そ、そうだった。話の腰を折って悪かった、ごめん」
脇道に逸れていた魔王が本筋に戻ったのを確認すると、イルは咳払いをして続けた。
「魔術陣には大きく分けて二つの用法があります。一つ目は、魔術陣に直接マナを注ぎ込む方法です。カナエさん、例のものを」
「これね」
カナエはショートパンツの尻ポケットに手を突っ込むと、折りたたまれた小さな白いメモを取り出し、ソウジに向けて見えるように広げた。そこには三角を二重円で囲んだ魔術陣が描かれている。内側の円と外側の円の間には、なにやら奇妙な文字がぐるっと一周書き込まれている。
「陣を描く塗料や用いる触媒、書き込むルーンの内容によって、魔術の効果は変わってきます。いまカナエさんが持っているのは、インクで描いた極めて簡素なつくりの陣です。ではお願いします」
「それじゃあ行くわよ」
カナエがマナを注ぎ込むと、魔術陣が淡い紅色の光を放ち、そのメモはひとりでに発火した。メモが燃え尽きるかどうかというあたりで、カナエは慌てて手を離した。
「あちち!」
「このように、陣を描いてそこにマナを注ぐだけで誰でも簡単に行使できるところに、魔術陣の大きな特徴があるのです」
「なるほど。使用者の才能に依存してしまう魔法とは、そこが決定的に違うわけだな」
「さすがソウジ様。飲み込みが早いですね」
イルは嬉しそうに、ソウジの成長を褒めたたえた。どんなに些細な成果でも、イルはこうやっていつも褒めてくれるので、消極的になりがちなソウジにとってはとてもありがたかった。
「二つ目は、魔術陣の機能と効果を魔晶石に銘じる方法です。石の中にそれらを刻みつけた後は、マナを供給するたびに魔術が発動します」
「例えば、ソウジくんが持ってるランタンとかがそうね。あの中には、持ち主のマナを消費して発光する魔晶石が入ってるのよ」
「あっ、あれか!」
森の中を彷徨うときにお供として使っていたあのランタンにも魔術が使われていたとは驚きだった。
ロスタルカで生活する中で電気という単語を耳にしたことがないが、もしかしたらマナがその代わりのエネルギーなのかもしれない。
「ってことは、アンヘルが治療してたのとか、カナエが手のひらから炎を出してたのも、魔晶石の効果なのか」
「そうだと思われます」
すると、会話に聞き耳を立てていたカナエが興味津々で顔を近づけてきた。
「待って、私そんなことしてないわよ。どういうこと?」
「いまのは偽者の方の……あっ」
そこで、ソウジは地雷を踏んでしまったことに初めて気づいた。カナエはうつむきながら、およよとしなだれた。
「ああ、偽者ね……私よりずっと有能な……」
「あの、いや、カナエも魔晶石さえあれば、きっと同じようなことができるって! なっ、イル!」
「そっ、そうですね! 明日にでも店舗に寄ってみましょうか!」
「そうよね……偽者の実力に少しでも近づかないとね……」
思ったよりがくんと落ち込んでしまっているようだ。ソウジたちがこの高貴な傭兵をどうやって慰めたものかと考えあぐねていた、そのときだった。木立に沿って、血相を変えたアンナが叫びながら駆け寄ってきた。
「みんな、大変だよ! ハワードさんがいなくなった! エマちゃんも!」
「えっ?」
ソウジは事態が飲み込めず、動揺しながらこちらを振り仰いできたカナエと顔を見合わせた。
「はぁ!? 貴方はその間、一体何をしていたんですか!」
「うるさいなぁ! エマちゃんを寝かしつけてるうちにアタシも寝落ちしちゃってたんだよ! 悪うございました!」
頭部だけのイルとぎゃーぎゃー口論し始めたアンナの両肩に、ソウジはつかみかかった。
「二魔がどこに行ったか分かるか?」
「いや、ごめん、それは分からない」
「そうか……」
行く宛があるとすれば、二つに一つだ。すなわち、絶望した今生に別れを告げるため暗い森の中に向かったか、あるいは希望を抱いて天から垂れる蜘蛛の糸をつかんだかのどちらかである。
ハワードの言動からはエマに対する未練と心残りが感じられた。エマが生きられる可能性がまだ残っているのに、そのための手段をみすみす捨てるとは思えなかった。
「みんな、よく聞いてくれ。たぶん、あまり時間がない」
ソウジは全員の視線がこちらに向いたのを確かめると、早口にならないように意識しながら、はっきりと自分の意見を述べた。
「ハワードさんはきっとエマちゃんを連れて『黄昏夜会』に向かったんだ。すぐに追いかけて止めないとまずい」
カナエは立ち上がると、切り株の上でがたついているイルを両手で持ち上げた。
「でも、その会が次に開かれるのは明日の夜でしょう?ハワードさんが言ってたじゃない。エマちゃんの状態が急変したから、治療に駆けこんだのかもしれないわよ」
「ハワードさんが、俺たちに嘘の情報を告げていたとしたら?」
「ありえる話ですね」
「えっ?」
気立てのいいカナエにはハワードを疑うという選択肢が全くなかったようで、くりくりとした緑の目をさらに丸くしている。
ハワードはときおり、持っている情報をソウジたちに隠すことがあった。エマの飲み薬の出所だって、掴魂教から受け取っていると判明したのは、ラトレイアの教会に直接出向いたからだ。
それは、ハワードがソウジたちのことを心の底から信用しているわけではないという明白な証拠だった。
そうすると、『黄昏夜会』に関する情報だって当然怪しくなってくる。
彼が自分の予定や自分が取った行動を正しく伝えてくれたかどうかなんて誰にも分からないのだから、『黄昏夜会』の本当の開催日程が仮に今夜だったとしても、ソウジにとっては何の驚きもなかった。
「杞憂ならそれでいいんだよ。でも俺の予想が当たっていた場合、エマちゃんが危ない」
「んにゃあー! なんだかよくわからんけど、とりあえず止めよう!」
アンナは小難しい心理戦にイライラと頭をかきむしった。
ときには、考える前にまず行動した方がいいこともある。アンナの直情的な発想はこういうときにこそ必要だった。
「よし、いますぐに発とう。カナエはその格好でいいか?」
「悠長に着替えていたら追いつけなくなるかもしれないでしょう? 仕方ないけど、このまま行くわ」
「アタシもこれでいいや」
カナエは薄手の黒いタンクトップに、緑色のショートパンツ。アンナは寝間着にしているピンク色のチュニックに、赤い七分丈ズボンだ。
それぞれ動きやすい服装ではあるものの、もし戦闘するとなると少々心許ない。本来ならばちゃんと武装して行きたいところだったが、いまはハワードとエマの行方を追うのが急務だった。
「それじゃあアンナ、先導してくれ」
「了解!」
こうしてソウジたちは、着の身着のままで件の屋敷まで急行することになった。




