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89話「ハワードの親心」

◆◆◆


「こうして、王様は両親を取り戻し、賢者とついに出会うことができました。めでたしめでたし」


「おー、すごい……想像もしない展開だった……」


 ベッドに腰掛けていたエマは、両手を自分の顔の前まで持ち上げると小さく拍手した。


二魔(ふたり)とも本当に昔話が好きなのね」


 カナエは寝室の入口からイルたちのことをのぞきこみながら微笑んだ。


「おや、カナエさんもご一緒にいかがですか?長年の魔生(じんせい)を通して耳にしてきた逸話は、まだ沢山ありますからね」


 カナエはエマに飲み物の入ったマグカップを二つ手渡した。そのうち一つには、手が使えないイルのためにスプーンが添えられている。


「私は遠慮しておくわ。歴史の勉強ってどうも苦手でね」


「先祖の知恵や経験……大事な教訓なのに、もったいない……」


 エマは残念そうに言いながら、左手でイルの側頭部を撫でた。イルはまんざらでもなさそうに、両目の青い炎をちかちか明滅させている。


「では、次のお話をしましょうか。今度はもっとスカッとする話です」


「暗いのもいいけど、そういうのも好き……」


 イルたちが二魔だけの世界に戻っていったのを見て、カナエはそっと寝室のドアを閉じた。それにしても、いつの間にあそこまで仲良くなったのだろうか。物静かな者同士で結構気が合うのかもしれなかった。


 カナエは元いたキッチンに戻って、残っているマグカップを二つ持つと、ソウジの隣に腰掛けた。そして、ソウジにもそのうちの一つを手渡した。


 中身は昨日飲んだものと同じ『ティーゼ』だった。

 ハワードに尋ねたところ、ロスタルカでは定番の飲み物なんだそうだ。作り方はとても簡単で、コーヒーのように、干した豆をお湯にさらすと出来上がる。豆には様々な品種やブランドがあり、産地もそれぞれ違うとか。

 その複雑で独特な味わいは、ソウジにとって嫌いではなかった。


「アンナちゃん、やけに遅いわね」


「今日はもう帰ってこないんじゃないか?」


「ええ?」


 ソウジたちがラトレイアでアンナと別れてから、軽く数えても数時間は経っている。帰ってきたときにはまだ頭の真上にあった黒く輝く太陽も、いまでは地平線へと沈み始めていた。


「ハワードさんはそろそろ帰ってくるかな?」


「そうね。木をこりに行くって言っていたけど、暗くなった後もまだ森にいるのは危ないものね」


 カナエはマグカップに入った温かいティーゼをずずっとすすると、小さくその身を震わせた。部屋が寒いわけではないから、きっと別の理由がある。


「カナエ。もしかして、ナメクジ嫌いなのか?」


「大っ嫌いよ!表面がぬめぬめしてるし、どこに顔があるんだか分かったもんじゃないしね!触るどころか、近づくのも嫌だわ!」


 カナエは苦虫を噛み潰したような顔で、両手の十指をわきわきと動かしながら言った。スライギーたちに襲われたことは、カナエにとってよほどのトラウマになっているらしい。もしまたやつらに襲われたとき、まともな戦力にはならなさそうだった。


 そのとき、ログハウスの玄関ドアが開いた。噂をすればなんとやら、ハワードが帰ってきたのだった。エマは寝室のドアを開くと、ハワードの下へ一目散に駆け寄った。


「おかえりなさい、パパ……!」


「ただいま」


 腰に抱きつくエマの後頭部を、ハワードは優しく撫でた。


「俺が出ていったときより顔色がいいんじゃないか?」


「うん……イルに面白いお話、いっぱい聞かせてもらったから……」


「そうか、それは良かったな」


 ハワードは嬉しそうにうなずくと、ソウジたちに軽く会釈した。


「すみません、世話を頼んでしまって。なにかご迷惑をおかけしませんでしたか」


「迷惑なんてそんな、全然。大人しくて、いい子でしたよ」


 ソウジは首と手を振った。それを見たハワードは安心した様子で、チュニックの裾を両手でつかむエマを見下ろした。


「そうですか。普段からそうしてくれるといいんですがね」


「私、普段からいい子だよ……」


「本当か?」


 ハワードは小笑いしながら、エマの額から飛び出ている黒い角を人差し指で小突くと、ソウジたちの向かいにでんと座った。エマは「イルの話の続きがあるから」と言って、再び寝室に戻っていった。


 ハワードは机に肘をつくと、合わせた両手を胸の前にやった。


「実は、どうしてもエマの病状が気になって、結局ラトレイアまで行ってしまいました」


「えっ」


 初耳だった。しかし、昨日エマが森で倒れたのを見て焦ってしまったのかもしれないと思うと、責めるに責められなかった。ハワードはいま相当上機嫌なようで、珍しくにこやかな顔で話を続ける。


「運良く司祭様に直接会うことができたので、事情を色々と話したのです。そうしたら、『黄昏夜会(メメントモリ)』という掴魂教(セイズソウル)の集会が七日後にあるそうなんですが、そこで根本的に治療していただけるそうです」


「じゃあ、エマちゃんはもうすぐ治るんですか?」


「完治するだろう、と言われました。健康体になって、普通の(マギ)と変わらない生活を送れるようになると。私はそれがもう嬉しくてたまらんのですよ」


 ハワードは泣き笑いになりながら、こぼれてきた涙を手で拭った。


 こんないい雰囲気をぶち壊すわけにもいかず、ソウジとカナエは困惑しながら顔を見合わせるしかなかった。せめてアンナが無事に帰ってきて、手に入れた情報を全員で整理するところまでは待ってもらいたかったが、こうなってしまってはもう遅い。


 もっとも彼はすでにアンヘルからエマの治療薬を受け取っているから、掴魂教(セイズソウル)を信用する方向に振り切れるだけの素養は十分にあったのだろう。そしていまのソウジたちには、彼のその決心を否定するだけの材料も、口を出す権利もない。


「エマちゃん、無事に治るといいですね」


「ええ。私はそれだけを思って、いままで生きてきましたから」


 片親だけで子供を育てる苦労は計り知れない。まして、それが重い病気を抱えた子供であるならばなおさらだろう。ハワードの顔に深く刻まれたしわが、それを物語っているような気がした。

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