8話「ない袖を振る」
青白い顔でへたり込む女性従業員に、ソウジは急いで駆け寄った。
「大丈夫ですか?」
「すみません……腰が抜けてしまって……」
あんなことが起こった後では無理もないだろう。
ソウジは倒れている丸テーブルを元通りに立て直すと、そばにあった一人掛けのソファを女性の方へ向けた。それからイルとともに肩を貸して、彼女が歩くのを手伝い、ゆっくりとそのソファに座らせた。
「ちょっと待っててくださいね」
ソウジはイルから鍵を受け取ると、階段を駆け上がり、自分たちが泊まる201の部屋のドアを開けた。
室内を見渡すと、入ってすぐ右手にバスルームがあった。洗面台の上に置いてあるコップを取って、水道の蛇口から水を汲み、早足で一階に戻る。
「お水です、どうぞ」
「ありがとうございます」
嗅豚の女性は受け取ったコップを震える両手で抱え、ちびちびと水を飲んでいく。やがて、ほっとため息をつくと、少し血色が戻った顔でソウジたちを見上げた。
「お客様にトラブルを仲裁していただいた上に介抱されるなんて、スタッフ失格ですね」
「いえいえ、大したことじゃありませんから。それにあいつら、いけ好かなかったし」
「衛兵がいるところで、そんなこと言っちゃダメですよ?」
嗅豚の女性は困り顔で笑いながら、コップをテーブルに置いた。
そのとき、ホテルの扉が開かれ、誰かがまた入ってきた。蝶番がこすれる小さな音にびくんと身を震わせた女性を見て、ソウジは立ち上がった。
あの噛狼たちが引き返してきたのだとしたら、今度こそ戦わなければならなくなるかもしれない。そう思い、力みながら振り返ったソウジの目に止まったのは、見覚えのある灰毛の跳猫だった。
イザベラは地面に落ちた観葉植物の鉢を見ると、ソウジに近づいてきた。
「どうしたのこれ!? ソウジがやったの!?」
「そんなわけないでしょう!」
主君をかばうため、イルはすかさず間に割り込んだ。
「ですよねー。で、何があったの?」
イザベラはうっとうしい骸骨を軽くあしらうと、その肩越しにソウジを覗き込んだ。ソウジは頭に被さってきたイルのマントを手で払いながら、イザベラの方に体を乗り出す。
「物騒な格好をした噛狼の二魔組が来て、荒らしていったんですよ」
「衛兵の奴らか……!」
嗅豚の女性は、憤慨するイザベラに向かってこくりとうなずいた。
「明日の昼までに、追加の利息を払えって脅されたんです」
「はぁ!? ふざけてるなぁ! こっちの立場が弱くて言い返せないからって、好き放題やりやがって!」
右手の親指の爪を噛み、イザベラは悔しそうに唸った。
ソウジはホテル内の平穏が(ぶち切れている猫娘を除いて)保たれたことに胸をなで下ろし、ソファに座り直した。
「でも衛兵って、いわゆる警備員みたいなもんでしょう? 市民に対して、どうしてこんなひどいことができるんですか?」
イザベラは別の丸テーブルにくっつけて置いてあったソファを持ち上げると、ソウジたちが座っているテーブルの近くまで移動させて、そこに座った。足を組んで、不機嫌そうなしかめ面で身を乗り出す。
「いちおう衛兵と呼んではいるけど。ゲルート公爵がラッシマ商会に警備を依頼して、そこの自警兵たちにお墨付きをあげてるだけなんだよね」
「それなら公的な立場の者として、なおさら義務を果たすべきなんじゃ――」
あくまできれいごとを言うソウジに苛立ちを見せながら、イザベラは平手でテーブルを叩いた。
「そんな建前、守るわけないじゃん! ラッシマは商会の会長っていうだけじゃなくて、ゲルートの執政補佐官でもあるんだよ? その権力を笠に着て、ラッシマの指示通りに動き回る手駒さ。だから街の見回りと並行して、借金の取り立ても平気でやっちゃうわけ」
「な、なるほど……」
公私混同も甚だしいとは思うものの、社会の仕組みがそうなってしまっているのだから、それに対してこの場で文句を言っても仕方がないだろう。働きかければいますぐに変化を起こせるという性質の事柄ではないからだ。
とはいえ、あんな話を聞かされた以上、このまま放置しておくわけにもいかない。明日になればまたあの衛兵たちがやってきて、このホテルはもうおしまいだ。
「一刻も早く、借金の問題をなんとかしましょう。俺たちも手伝いますから。ね、イルさん」
「え、ええ。ソウジ様がそうおっしゃるなら……」
有無を言わさぬソウジの語気に押されて、イルはそのまま首肯した。
「よし、アタシも付き合うよ。同じ街の住民として、理不尽にやられっぱなしじゃ納得いかないからね」
イザベラは不適に笑い、ソウジに向かって拳を突き出した。もしやと思い、ソウジが同じように拳を突き出すと、拳頭をガッとぶつけて突き合わせてきた。いわゆるグータッチというやつだ。竹を割ったようなおてんば娘だった。
嗅豚の女性は、それらの申し出を聞いてもなお、首を深く垂れている。あまり嬉しそうには見えない。
「お気持ちはありがたいのですが、これはこのホテルメリーと、ラッシマ商会の間の問題です。部外者のあなたたちを巻き込むわけには――」
「なに言ってんの!」
イザベラに背中をバシッと叩かれ、驚いた嗅豚の女性は顔を上げた。
「すでに巻き込んじゃってるでしょ! 協力するって言ってくれてんだから、最後まできっちり頼りな! 困ってるときは、それくらい図々しくならなきゃダメ!」
ソウジたちの顔を見回した後、嗅豚の女性はすすり泣きながらうなずいた。
「ありがとうございます……」
「諦めないで、一緒に頑張りましょう」
ソウジがそっと右手を差し出すと、女性は逡巡した後にゆっくりと握手を交わした。
これで、晴れて協力関係の成立だ。
「俺はソウジ、こっちの骸骨がイル。こちらは」
「あ、知り合いだから紹介はいらないよん」
イザベラはフィーネの両肩に後ろから手を回し、ソウジの方に優しく押し出した。
「この子はフィーネ。一魔でこのホテルを切り盛りしてる敏腕若女将、ってとこかな」
「へえ、すごいですね。やり手なんだ」
フィーネは恥ずかしそうに顔を背け、両手をぶんぶんと振って否定した。あまり褒められ慣れていないのか、どことなく居心地が悪そうだった。
「やり手だなんて、そんな。いつも閑古鳥ですし」
「この控えめなところがチャームポイントなんだよね」
「そ、そうかな?」
「そうだよ! 商売っ気があればもっと儲かってるでしょ!」
「ううっ……」
押しの強いイザベラに奥手なフィーネという正反対の性格ではあるが、それらが上手く組み合わさっていて、意外に相性は良さそうだった。
「えっと、それで、私はどうしたらいいでしょう。このホテルからはもう出せるお金がないんです」
「まずは、お金をどこかから工面する方向で考えましょうか」
「そうだね。悔しいけど、払わないとこのホテルが取り上げられちゃうんでしょ?」
「はい……」
無理だと決めつけていては、話が前に進まない。何としても解決策をひねり出さなければならないのだ。