7話「金のなる木」
建物の外壁から飛び出している看板には『ホテル メリー』と書いてある。ガラス張りの両開き扉からは、暖色のライトに照らされたロビーが見える。
さっき立ち寄ったティエシュプアと比べると、そのホテルは全体的に小ぎれいに保たれており、外観を見ただけでも信頼できると思うような清潔感と安心感があった。
イルもこれなら許容範囲だと思ったようで、文句を言うことなく中へ入っていった。
「いらっしゃいませ!」
ロビーに入ると早速、豚の顔をした従業員が出迎えてくれた。
それはソウジの肩くらいまでの身長しかない、華奢で小柄な女性だった。
質素な鈍色のドレスに、ショート丈の白いエプロンをつけている。
肌の色は淡いピンクで、快活な印象を与える桃色のベリーショートヘアに、くりくりとした黒目が愛らしい。
手は人間と同じ五本指で、爪の代わりにベージュ色の大きなひづめがついている。
見た目からしておそらく、『嗅豚』と呼ばれる豚に近い魔族だ。
その従業員はロビー脇にある本棚を掃除するのを止め、持っていたはたきを下に置くと、入口正面にあるカウンターに小走りで戻っていった。
「お泊まりですか?」
「あの、一泊したいんですが。食事はつけなくて結構です」
「かしこまりました。部屋にはたくさん空きがあるので、一番条件がいい二階の角部屋にしておきますね。こちらの台帳にご記入をお願いします」
彼女はテキパキと作業をこなしていく。イルが記入を終えたのを確認すると、受付カウンターの後ろの小さな棚から鍵を取り出した。
「では201号室になります。そちらの階段から上がって、左手に部屋がございます。なにか分からないことがあったら、いつでもお尋ねください」
丁寧に説明を終えると、その店員は手で階段を示した。
「いったん部屋に入るってことは、少し時間かかるよね?」
「そうですね。ここまで歩き詰めなので、ちょっと休憩したいです」
「じゃあ、三十分くらい時間潰してくる。このロビーでまた合流ね」
イザベラは有無を言わさずにそう決めると、すたすたと出ていってしまった。イルは憤懣やるかたないといった調子で、その後ろ姿をにらみつけた。
「全く、強引な小娘ですね!」
「まあまあ。右も左も分からないよりはいいでしょう」
土地勘があまりないイルだけに頼ってこの街を歩くのは正直不安だったので、だいぶ助かっているのはたしかだった。
鼻息の荒いイルをなだめながら階段の方に向かっていると、入口の扉が荒々しく開かれた。
大柄な二名の魔族が、大股でずんずんと踏み込んできたのだ。
両方とも黒いチョッキを身に着け、深緑色をした分厚い生地のズボンに黒いブーツを履いている。腰には剣を下げており、なんとも物騒な格好だった。
イルから教わった知識に照らせば、こいつらはイヌをベースとした『噛狼』と呼ばれる種族だろう。
前に立っている噛狼はオオカミのような頭部をしており、白い体毛にところどころグレーのまだら模様が混じっている。シベリアン・ハスキーみたいだな、とソウジは思った。
それに比べると、後ろに控えている噛狼はちょっと野性味が薄い。茶色い体毛が、顔の中心を通る白い一本筋によって左右に分けられている。こちらも同様に犬種に例えるなら、さながらウェルシュ・コーギーといった容貌だった。
「こんにちは、お嬢さん。ご機嫌いかがかな?」
その丁重な口ぶりとは裏腹に、ハスキーの噛狼は肩をいからせながら威圧的に近づいてきた。
従業員の嗅豚は怯えながらも、ソウジたちをかばうように、噛狼たちの眼前に歩み出た。宿泊客の安全を守る、という最低限の矜持を見せようとしているようだったが、その細身の体は恐怖に震えていた。
「何の用ですか」
「いけずだねぇ。お前さんが金を払いに来ないもんだから、こっちからわざわざ出向いてやったっていうのによぉ」
ハスキーの噛狼は、近くにあった待合用の木の丸テーブルを横柄に叩いた。
「ちょ、ちょっと待ってください。両親が稼いだ分と私がお支払いした分を合わせて、今月分はもう支払ってあるはずです」
言い分を聞いて、その男たちはげらげらと笑った。コーギーの噛狼はハスキーの噛狼の横から顔をひょっこりのぞかせると、嫌らしいにやけ顔とともに、左手の五本指を掲げた。
「5万ぽっちじゃよぉ、利息にすら足りねぇよ」
「えっ? 利息は月4万のはずじゃ――」
「ったく、貧乏人は計算もできねぇのか? 目ん玉見開いて、よく読め」
ハスキーの噛狼はコーギーの噛狼にあごで合図を出した。コーギーの噛狼はポケットから折りたたまれた紙を取り出すと、ありありと広げて見せた。
その借用書を隅から隅まで読んだ女性は、わなわなと震えながら口に手を当てた。
「嘘……」
「これで納得しただろう。早く出せ」
「あの、いますぐには……あと一週間だけ待ってください、お願いします」
ハスキーの男が思い切り蹴とばすと、丸テーブルは大きな音を立てながら豪快に倒れた。その上に乗っていた観葉植物の鉢が落下の衝撃で割れ、湿った土が板張りの床に飛び散る。
「散々待たされてんだよ、こっちは。今日の暗8までに全額払えないなら、この土地と建物はうちの商会で没収だ」
従業員の嗅豚は冷や汗をかきながら両膝をついてひざまずき、ハスキーの噛狼の腰に必死にすがりついた。
「ここは父と母がようやく手に入れた、大切なホテルなんです! それだけは勘弁してください! お願いします!」
「はぁ? 『それだけ』のわけがないだろ。こんなボロ家一軒じゃ全然足りねぇよ」
ハスキーの男は屈みこんで、嗅豚の女性に目線の高さを合わせると、左肩をぐっとつかんだ。その全身を舐めまわすように眺めてニヤニヤしながら、耳元で囁く。
「支払えないようだったら、別の方法で支払ってもらってもいいんだぜ?」
その意味を理解した従業員の女性は、自分の体を両腕で抱きながら立ち上がり、数歩後ずさった。そのまま背後のカウンターにぶつかったが、彼らからさらに距離を取りたかったようで、後ろ手をつき、怯えながら大きくのけぞった。
男たちは鼻で笑いながら、顔を見合わせる。
「泣き落とししようったってダメだぜ。さあ、どうすんだよ。払うのか、払わないのか? はっきり決めてくれよ、姉ちゃん」
ずいずいと近づいてくる男たちに対して成す術はなく、女性が目をつぶって観念しようとした、そのときだった。後ろで様子を見ていたソウジが、男たちの前に立ちはだかった。
「なんだぁ?」
「手荒な真似はやめませんか? 彼女、怖がってるじゃないですか」
「お前、俺たちに楯突こうってのか?」
ハスキーの男は怪訝な顔をしてソウジにガンを飛ばした。それでもソウジは臆さず、にらみ返す。
「やり方が乱暴すぎるって言ってるんです。穏便に話し合っても、問題は解決できるんじゃないですか?」
「それで済むなら、取り立て屋はいらねぇんだよ。どうなっても知らねぇぞ?」
ハスキーの男は、右拳を自分の手のひらに叩きつけて威嚇した。コーギーの男は、準備体操のつもりか、首を左右に軽く曲げながら、指の間接を鳴らしている。
戦闘は避けられないと悟ったソウジは半身に構えると、足を肩幅に開き、開いた両手を前に上げた。ソウジには、現実世界で教わった空手の心得がある。二対一と頭数で負けていて形勢は悪いものの、やるだけやってみようと考えていた。
「やめましょう、ソウジ様! どう見ても不利です!」
イルが慌ててソウジの腕をつかんだ。非力ながらも引っ張って、横に退かせようとする。いまのソウジは魔王の肉体を上手く扱えないということが分かっているからだろう。
「ごめんなさい、イルさん。それはできません」
「なぜですか!?」
「ここで逃げたら、絶対に後悔するから」
誰がどう見ても多勢に無勢だし、イルの言っていることは100%正しい。それでもソウジには、この女性を黙って見捨てることができなかった。
なぜなら、ソウジは過去に他人を見捨てて逃げ、それが原因で死ぬほど後悔したことがあるからだ。そのときと同じ気持ちを再び味わうくらいならいっそ死んだ方がいいと、ソウジは本気で思っているのだった。
イルは一歩も退かないソウジを見て諦めたのか、従業員の女性を連れてロビーの隅に逃げ込んだ。
あわや喧嘩の火蓋が切って落ちる、そんな絶妙なタイミングで事態は急変した。
屋外で突如大きな歓声が上がったのだ。
「ミャントム団だ! ミャントム団が出たぞ!」
それまで殺気をむんむんと放っていた噛狼の男たちが、血相を変えてガラス扉の外を振り返る。
「おい、追うぞ!」
「ちっ、命拾いしたな……いいか、明日の昼間、暗の初めにもう一度来る! それまでにきっちり全額用意しておけ! 逃げたらただじゃおかねぇぞ! いいな!」
従業員の嗅豚を指差しながら言い放つと、ハスキーの噛狼はコーギーの噛狼を連れて、ホテルの外に駆け出していった。