6話「雑貨店ティエシュプア」
その店の外に出ている色あせた看板には、かすれた魔族文字で『ティエシュプア』と書いてある。
不思議なことに、魔族の文字を一度も学んだことがないにもかかわらず、ソウジはそれを読むことができた。
今更ながらよくよく考えてみれば、魔族たちがしゃべる言葉の意味や内容を何の気なしに理解できている、というのもおかしな話だ。
理由は定かではないが、魔王の体に入り込んだとき、日常会話において必要な最低限の語学力を獲得したのかもしれない、とソウジは思った。
「この店ちょー安くてさ、オススメなんだ」
「これ、大丈夫なのか……?」
ソウジが危惧するのも無理はなかった。
隣や向かいの露店は盛況であるのに比べて、イザベラが示した店は明らかに客の入りが少なかったからだ。
外から見る限り、店全体の雰囲気が暗く、窓ガラスはどれも曇っていて中の様子がよく見えない。
端的に言って、初見では全く入りたいと思わないような怪しい店だった。
「ソウジ様、やはりやめましょう。こんな得体の知れない店でなくとも買い物はできます」
「いいじゃないですか。なんか逆にワクワクしてきましたよ。早く入りましょう」
「ええ!?」
いままで旅行をほとんどしたことがないソウジにとって、異国の土地で買い物をするという未知の体験は刺激が満載で、まさにアトラクションそのものだった。
それに加えて、いまのソウジの肉体やアイデンティティは全て自分のものではないという一種の離人感が、ソウジを普段より一層積極的にさせていた。
イザベラはソウジたちに外で待っているよう伝えると、いったん店の中に入り、少し経ってから出てきた。
「アタシの連れてきた客だって伝えたから、悪いようにはされないと思うよ」
「ありがとう、イザベラさん」
「いーのいーの。アタシは外で待ってるね。何かあったら気軽に声かけて」
ソウジたちは近くの壁に寄りかかって手を振るイザベラを横目に、店内へ恐る恐る足を踏み入れた。
中に入ってまず思ったことは、薄汚れた外装に反して店内はきれいに整っているということだった。
壁際に沿っていくつか棚が置かれ、文房具や化粧道具などの日用品がきちんと整頓されて陳列されている。
また中央にある脚付きのかごには、ヘアゴムなどのアクセサリーや可愛らしい小物類が入っている。どうやら女性向けの商品が多いようだ。
向かって右側に目を向けると、跳猫の女性店員がカウンターの奥に座っていた。
ついた片肘に、体毛と同じ薄茶色のロングヘアを垂らして、物憂げな黄色い瞳でにこやかにこちらを見ている。
「いらっしゃいませ。イザベラから話は聞いたわよ。私でよければ力になるわ」
店員は静かに立ち上がると、ソウジたちの隣へ歩み寄った。白い半袖のフリルブラウスにベージュのロングスカートが合わさって、上品な立ち姿に見える。
「私はエリー。気兼ねせず、何でも聞いてちょうだい」
エリーは爽やかに笑いかけてきた。
イルは主君であるソウジに手間を取らせまいと、率先して声を発した。
「よろしくお願いいたします、エリーさん。では早速ですが、日持ちする食糧と地図を用意したいのです。この店にありますか?」
イルがそう言うと、エリーは目を少し見開き、左耳をピクリと動かした。
「あるけど……紙の地図が欲しいなんて、いまどき珍しいわね。いまってみんなスマボで見ちゃうじゃない?」
「スマボ?」
「なに、知らないの?スマートボールよ。いま手元にあるなら、拡張チップの方を売ってあげるわ。そうすればかさばらなくて済むでしょ?」
エリーはスカートのポケットから小さなピンク色の球体を取り出した。
表面にある小さな突起を押すと、球の直上の空間に画面がホログラム投影された。続けてその画面をタッチ操作すると、やがて周辺地域の地図らしきものが映し出された。
ソウジはエリーが操作する様子を見て、即座にスマホを連想した。
ロスタルカのスマホにあたる道具が、スマボと呼ばれるこの球体なのだろう。
人類の技術の進歩はとてつもなく早いから、現実世界でも近い将来、これと同じくらい高機能なデバイスが出てくるかもしれない。
イルはどうやらエリーの問いかけにどう答えていいか分からず、焦っているようだった。
もしかして長年俗世から離れていたせいで、最新デバイスの情報を知らないのだろうか。
老人はデジタル化についていけないという話をよく聞くが、この慌て具合を見るとあながちその予想が間違いとも言えなさそうだった。
「あいにく、我々はそれを所持していないのです。買えるほどのお金がないものでして」
「あら、そうだったの。差し出がましい真似をしてごめんなさい」
イルがなんとか返答をひねり出すと、エリーはそれ以上押し問答することなく、スマボをスリープしてポケットにしまった。イルのプライドを傷つけることなく話題を終わらせる、上手い対応だった。
「ちょっと待ってて。いま在庫を持ってくるから」
エリーはそう言うと、カウンターの奥の部屋へと入っていった。どうやらそこが倉庫になっているらしく、ゴソゴソと物を漁る音と、エリーの張り上げた声が聞こえてくる。
「地図って言っても色々あるわよ。このハブの周辺地図から、世界地図までね。どんなのが欲しいの?」
「そこまで大きいものでなく、コロニア国内の大まかな地図で良いのですが」
「ああ、コロニアに行くのね。あそこは領地が結構狭いから、コンパクトにまとまったものが結構あるわ」
エリーは畳まれた地図をいくつか手に持って出てきた。エリーがそれらをカウンターに広げて示すと、イルはしばらく吟味した末、一番シンプルな表記のものを選んだ。ある程度の土地勘があるということなのかもしれない。
「それから食糧だったわね。日持ちするものっていうと大したものがなくて、パンとチーズ、それと魚の干物くらいしかないんだけど、それでいいかしら」
「ええ。それも数日分あれば十分です。ソウジ様は魚がお好きですか?『今のソウジ様』ならば大丈夫だとは思いますが」
つまりこの肉体の持ち主である魔王は生前、魚が嫌いではなかったということだろう。そして幸いなことに、ソウジ自身も元から魚が好きなので、いずれにしても問題はなかった。
そういうわけでソウジはこくりと頷いた。
エリーはそれらの商品を順次手に取り、手際よく紙袋に入れていった。
やがてカウンターの上には二つの大きな紙袋と、代金合計が書かれた領収書が置かれた。
「あの跳猫が言っていた通り、相場よりずいぶん安いですね」
「そうよ。何事も見かけで判断するのは損だって、覚えておいてちょうだい?」
「骨に銘じておきます」
イルはマントの襟を開いて胸部の骨を見せ、そこに結びつけてある小さな袋から金貨を一枚取り出すと、エリーに支払った。
「まいどあり!」
「ありがとうございました、助かりました」
イルは紙袋を抱えると、入口に向かって歩き出した。そこにエリーが追いすがる。
「待って!おつりを忘れてるわよ」
「おや、すみません。うっかりしておりました。ソウジ様が代わりに受け取っておいてください」
「あっ、はい」
ソウジはエリーから銀貨一枚と、一回り小さい銅貨数枚を受け取った。
こうして手に取って見てみると、現実世界で使われる硬貨と何ら変わらない。その感触を楽しみながら、ポケットにしまった。
外に出ると、イザベラがいまかと待ち構えていた。イルが抱えている紙袋を興味津々に眺めている。
「ねぇ、何買ったの!?」
「貴女には関係ないでしょう。それよりほら、案内しなさい」
両手が埋まった状態のイルにあごで指示されて、イザベラはムッとした表情で口をとがらせた。
「ちえっ、ケチだなぁ。それで、次はどこに行きたいわけ?」
「今日の宿屋を確保しておきたいですね。この荷物も置いていきたいですし」
「はぁん、宿屋ね。それならこっち!」
イザベラは軽やかな足取りで道を進み始めた。いままでに来た道を少し戻って、少し広い別の道に入っていく。
しばらく歩くと、小さな二階建ての建物をイザベラは示した。