16話「ドウェインの誤算」
焦げ臭い黒煙が充満した空気を吸ってしまい、鼻がとても利く種族である噛狼に生まれついた彼らは悶絶した。鼻と口を急いで手で覆ったが、咳が止まらない。それでもドウェインにどやされるよりは一億倍ましだと思い、ロビーからさらに奥へと突っ込んでいく。
資料は全て一階の奥の書類庫に保管されている。普段は、部屋の扉には厳重に鍵がかけられているが、緊急事態のため誰かが開け放ったようだった。
ハスキーの衛兵は、室内右奥の四角い金庫についた鍵をいじくりまわしている、白ブラウスに緑色のワンピースを着た跳猫職員に呼びかけた。
「おい、お前そこで何をしてる!」
口元にタオルを巻いたその職員は、驚いてびくんと飛び跳ねた。
「あの、大事なものから優先して運べと言われたので、どうにかして開かないかと……」
その女性は小さな咳を挟みながら、か細い声で答えた。切った張ったの世界で生き抜くためにガサツな者が多い商館の職員にしては従順そうに見え、なかなかに好印象だった。
てっきり叱りつけられると思って目をつぶった跳猫職員に、ハスキーの衛兵は穏やかな声色で語りかけた。
「これはこの鍵がないと開かねぇんだよ」
「そうだったんですか」
事情をあまり詳しく知らない者の方が、機密書類を運ぶには好都合だ。この職員は使える、と彼は判断した。
「よし、じゃあお前も手伝え」
「承知しました」
ハスキーの噛狼はその跳猫職員を連れて、書類庫の中へと入っていった。棚にある数々の書類を差し置いて、右奥にある大きな金庫へと駆け寄る。経理部長から受け取った鍵を回して扉を開くと、その中には束になった書類が積み重なっていた。
「時系列順になってるが、それは気にしなくていい。中身はじろじろ見るなよ。とにかく外に出してくれ」
「は、はいっ!」
ハスキーの噛狼は金庫の中から書類の束を取り出して、コーギーの噛狼と跳猫職員へそれぞれ手渡していく。手ぶらで戻ってきたら、再び手渡す。そうして運搬は手際よく進んでいき、建物が燃え尽きる前に何とかなりそうな気配が見えてきた。
あらかた運び終わった辺りで、跳猫職員はなぜか急に戻って来なくなった。
「あいつ、どこ行ったんだ?」
「わからん。手が足りないんで、別の部署に駆り出されたのかもしれねぇな。そんなことより、こいつらを運べばもう終わりだ」
「よし、早いとこやっちまおう」
コーギーの衛兵は借用書の束を言われるがまま受け取ると、建物の外へ出ていった。レンガ張りの庭にずらっと並べられた書類の一端に、持っていた束を加える。残った最後の紙束を持った相棒が出てくるのを待ちながら、彼は何の気なしに庭を眺めていた。
「おい」
「はっ、何でしょうか」
ぼーっと気を抜いていたところへ急にドウェインが近づいてきたので、コーギーの衛兵は面食らいながらも居ずまいを正した。
「この紐を結び直したのはお前か?」
「いえ、俺は全くいじっていません」
ドウェインが指した紙束をよく見ると、他と比べてそれだけ紐の結び方が違っていた。きっちりと締められている他の束に比べると、結び目が乱雑だし、紐の張り方も緩い。ちょっと指で突いただけで崩れてきそうだ。
「おい、お前!」
「はいっ!」
返事だけは威勢のいい経理部長が、両手を擦り合わせながら近づいてくる。
「お前か? これを結び直したのは」
「いえ、私もいま初めて拝見しました。こんな結び方は絶対にしません」
ようやく中から出てきたハスキーの衛兵も、不穏な空気を察して駆けつけてきた。ドウェインは目でものを尋ねたものの、彼は首を振った。金庫を開けてからこの書類に触れたのは、衛兵二魔組と例の職員だけだ。
ハスキーの衛兵は手を震わせながらその紐をほどくと、書類の束をパラパラとめくっていった。それを何度か繰り返したあと、恐る恐るドウェインにひざまずいた。
「申し訳ございません! 書類を盗まれました!」
「盗まれたぁ……?」
ドウェインは舌先をチロチロと出しながら、ハスキーの衛兵の前に屈みこんだ。
「フィーネという小娘が経営するホテルの運営資金の借用書を、新旧ともに持っていかれました! ですが、実行犯の顔はすでに割れております! すぐに捕まへぶっ――」
ドウェインはハスキーの衛兵の顎を下から蹴り飛ばした。その衝撃で切れた鼻から鮮血が飛び散る。
「くだらん御託を並べるんじゃねぇ、このダボが。そいつらを絶対にこの街から出すな。地の果てまでも追い詰めて、お縄にかけろ。無理そうなら、手が滑ってもいいぞ」
「はっ!」
ハスキーの衛兵は増援を呼ぶため、コーギーの衛兵を連れて、商館前広場の門扉から飛び出した。
殺しの許可証を手にした興奮と、自分たちの失態に対する処分が待ち構えていることへの恐怖心とで、彼らの目は真っ赤に血走り、精神は異様に高揚していた。いま彼らができるのは、あの唱角たちをとっちめて汚名返上することしかないのだ。
商館の周囲には、騒ぎを聞きつけた野次馬が大量に群がっていた。衛兵たちはそれらをかき分けながら、大通りを駆けていく。
その光景を不安そうに見つめる、一魔の跳猫がいた。
「まずいことになってきたわね……」
エリーは群衆に紛れて、商館の内外で起きている事態を遠巻きに観察していた。緊張で汗ばんだ片手にはピンク色のスマボを握っている。商館で何か大きな動きがあったらすぐに連絡してほしい、と妹に言われているからだ。
エリーは妹たちの無事を祈りながら、事態の行く末を見守るのだった。