101話「カナエVSマライア」
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霧にむせぶ森の中に、鈍い金属音が小刻みに響く。
しびれを切らしたカナエは、薙ぎ払われた鉄扇を受け流しながら斜め上に弾くと、押された勢いのまま大きく後ろへ飛びずさった。
「凍れ(コンジェラティオ)!」
カナエの左手から苦し紛れに放たれた冷気が、虚しく空を切る。
「おいおい、どこに目つけてんだい?」
「くっ……!」
「いいかい。相手を狙うときっていうのはね、こうやるんだよ!」
マライアはにやにや笑いながら、赤い鉄扇を振り下ろした。扇の柄にはめ込まれた緑色の魔晶石の効果によって、マナと空気が混ざり合い、圧縮され、半透明な風の刃となってカナエに襲い掛かる。
「ぐっ……!」
カナエは身をひねったが完全には避けきれず、左の二の腕が鋭く切り裂かれた。鮮血がぽたぽたと垂れ、足元の湿った土に吸い込まれていく。
開いた傷口は一ヶ所だけではない。先ほどから、距離を取るたびに風刃を食らっているため、カナエの全身にはいくつもの切り傷が刻まれていた。
近づけば手数で劣り、離れれば飛ぶ斬撃がすかさず襲い掛かる。それは隙のない二段構えだった。
しかし、ジリ貧になりながらも、カナエはまだ諦めていなかった。懸命に思考を巡らせて、どこかに突破口がないか探っていた。
(考えるのよ、カナエ……!)
ソウジは、あの空気の刃にはインターバルがあると言っていた。
戦ってみると確かに、マライアは一定の間隔で斬撃を飛ばしていた。しかもチャージする隙を最小限に抑えるためか、左右の扇から交互に飛んでくる。それさえ分かっていれば、直撃を避けることは容易かった。
もっとも、問題はその可視性と速度だった。半透明の斬撃が猛スピードで飛んでくるのだ。切り結びながらマライアの手元に注意してそれを避ける作業は、神経をすり減らすものだった。
「凍れ(コンジェラティオ)!」
カナエは再び左手から冷気を放った。マライアは俊敏にステップし、それをいとも簡単にかわしてみせる。直線的な攻撃では軌道を読まれてしまうというのは、こちらにとっても同じことだった。
狙いを外したのはこれで何度目になるか分からない。とはいえ、他に決定打があるわけでもなかった。大味な攻撃しかできない自分の実力不足に悔しさを感じ、カナエは歯噛みした。
そうやって健気に抗うカナエの姿を嘲笑うかのように、無傷のマライアは構えを解き、悠々と歩み寄ってきた。
「いま降参すれば、生還者にしてもらえるよう、司祭様に口利きしてあげる。あんた結構筋がいいから、きっと気に入ってもらえるよ。これからは一緒に仲良くやっていこうじゃないのさ」
「言いなりになるだけの操り人形なんかに、誰がなるもんですか!」
吐き捨てるようにそう言うと、カナエは下段から剣を振り上げて斬りかかった。マライアは気だるそうに右の鉄扇を振るい、それを払いのけた。
(一体何なのよ、このパワーは……!)
マライアの小柄な身体に似つかわしくないその剛力は、普通の魔族が持てる腕力の範疇を明らかに超えていた。
度重なる打ち合いで疲労しきったカナエの両手はついに握力を失い、手のひらからこぼれた剣が弧を描いて宙を舞った。
「ありゃ、もう終わりかい?もうちょっと楽しめると思ったんだけどねぇ。残念だよ」
扇の先端についている刃を喉元に突きつけられたカナエは、両腕を力なく下ろし、白い霧の向こうにある天を仰いだ。
万事休す、か。あれだけの大言壮語を吐いておいて、こんな結末に終わるなんて、本当に情けない。
(ごめんなさい、ソウジ君。私、やっぱりダメだったみたい)
迫りくる死の恐怖に怯えながら静かに目を開いたとき、カナエはとあることに気が付いた。幸いなことに、マライアはまだ気が付いていない。
やれることは、まだある。だが、そのためにはまず相手に隙を作らなければ。
カナエは見上げていた顔を静かに下ろすと、観念したというようにふっと息を吐いた。
「もう悪あがきは止めにするわ。こんな私にしては、十分すぎる成果だもの」
「そうかい、感心なことだね。じゃあ、さよなら」
マライアが扇を振るってとどめを刺そうとしたので、カナエは慌てて言葉を繋いだ。
「待って、死ぬ前に聞きたいことがあるの。教えてくれない?」
「じゃあ、冥途の土産に一つだけ答えてやるよ。なんだい?」
マライアは勝ち誇った余裕を見せながら、顎で質問を促した。カナエは少々考え込んだ後、率直に尋ねてみることにした。
「掴魂教の――いえ、アンヘルの目的は何? 一体何を企んでいるの?」
それを聞いてきょとんとしていたマライアだが、そのうち鈴を転がしたような声で笑い始めた。カナエは戸惑いながら、愉快そうに細められたマライアの目を見つめ返す。
「何がおかしいのよ」
「いやぁ、あんたが司祭様のことを壮大な計画の首謀者みたいに言うから、つい笑っちまったよ」
マライアはひとしきり笑い終えると、カナエに向かってにこやかに微笑んだ。
「司祭様はね、あんたが思っているよりもずっと純粋な魔だよ。そんな回りくどいことを考えるようなタマじゃない」
「じゃあ、生還者を増やしているのは……」
「ああ、そうだよ。掛け値なしの善意でやってるのさ」
カナエはぞっとしなかった。善意に基づく悪行というのは、悪意をもってする悪行よりもずっと質が悪い。持っている価値観が根本的に違うからだ。
「司祭様は、ゆくゆくはあの街の全員が生還者になってほしいと思ってるし、そうなるべきだと思ってる。そうして一つの繋がりを持った家族になることが、揺るぎない幸せを得られる唯一の方法だってね」
「馬鹿げてる……」
「そう思うだろう? あたしも最初はそう思ってた。こんな体にされて誰が喜ぶんだ、って」
マライアは自嘲気味に鼻で笑った。感覚のない、冷たい体。実際にそうなってみなければ分からない葛藤があったのだろう。
「でもね。司祭様がより良い方法を一生懸命に探すのを見ているうちに、このお方なら本当にみんなの幸せを掴んでくれるかもしれない、って思うようになったんだ。司祭様はいまも、犠牲者を出さずに済む完璧な方法を求めて“研究”を続けてる。あたしたちはそれを信じて、彼に協力してるんだよ」
マライアの語り口は饒舌で、嘘をついているようには見えなかった。カナエは黙って耳を傾けていたが、話が終わると真剣な表情で口を開いた。
「私って頭が回る方じゃないから、何が正しくて何が間違ってるのかは分からないけど――言えることが一つだけあるわ。貴方、私を殺す気ないわよね?」
「えっ」
いま主張した内容を真っ向から否定されるとばかり思っていたマライアは、全く別の角度からの質問にきょとんとした。
「私たちを本気で殺すつもりなら、最初にソウジくんに攻撃した時点で、急所を狙って致命傷を与えることができたはずよ。それなのにずっと手加減していたってことは、この役目は貴方の本望じゃないんでしょう?」
「違う。あたしは、家族のためにこうやって――」
「家族ですって? こんな暗殺者まがいの汚れ役を押しつけるような魔たちが、貴方の本当の家族だって、心の底から言えるの?」
畳み掛けるようにして言いくるめられたマライアは、地団太を踏みながら逆ギレ気味に憤慨した。
「う、うるさい! あたしは自分がやりたいことを、やりたいようにやってるだけだ!」
「じゃあ、どうしてそんなに辛そうな顔をするのよ」
マライアはカナエとの会話を始めて以降、明らかに表情が暗くなっていた。それを指摘されたことが気に入らなかったようで、マライアは歯を食いしばりながら、苛立たしげにカナエを睨んだ。
「減らず口はもうそこまでだ。さっさと死んじまいな!」
先ほどから動揺しきりのマライアが手元を狂わせた一瞬を、カナエは見逃さなかった。マライアの腹部を思い切り蹴り飛ばすと、手のひらを中空に向けて高く伸ばし、一気にマナを放出する。
刹那、後ろによろけたマライアの全身を無数の氷柱が貫いた。
「っ――!?」
地面に張り付けになったマライアは、もがいて抜けようとするものの、巨大な氷の棘は地中まで深々と突き刺さっており、びくともしない。
マライアは悔しそうにカナエの顔を見上げた。生還者は痛みを感じないようだが、相手にしてやられたことに対する精神的な苦痛はしっかりと感じるようだ。
「木の枝に氷柱を作っておいて頭上から落とすなんて、洒落たことするじゃないのさ」
「これくらいしないと、パワフルな貴方の動きは止められないでしょう?」
「まあ、そうだねぇ」
拘束されたこの状態から反撃することは諦めているらしく、鉄扇を取り上げようとするカナエに対してマライアは素直に応じた。
「さぁ、形勢逆転だ。さっさととどめを刺しなよ」