1話「落雷は魔王のはじまり」
せわしなく駆けずり回る音が、家の中に響く。
「兄貴、もう行く時間だぞ~」
「わかってる! あと一回だけ持ち物確認させて」
創治は肩にかけたリュックの口を開いて、チェックを始めた。
今日は泣くか笑うかの大一番、大学進学へ向けた一次試験の当日だ。所持品、特に受験票を忘れるなどという初歩的な失敗は絶対に許されない。
受験票よし。顔写真も貼ってある。筆箱の中身もきっちり入っている。定期入れは……外側のポケットにあるな。折りたたみ傘は脇ポケットに入れてある。
よし、大丈夫だ。
「何回確認するんだよ……さっき一緒に確認したばっかりだろ」
「そう言われても、不安なものは不安なんだよ!」
「はいはい。先に外出てるから」
「ま、待ってくれ」
有名な某スポーツメーカーのロゴがついたスニーカーを履き、玄関脇の姿見に向かって身支度を整えると、創治は玄関を開いて待つ麗奈の隣に慌てて並んだ。
「では参りましょう『お兄様』」
「その切り替えの早さ、ほんとすご――痛てっ!」
脇腹に無言の肘鉄を食らって悶絶する創治をよそに、麗奈はすまし顔ですたすたと歩き出した。すれ違う近所の奥さま方に優雅な会釈を繰り出しつつ、駅の方へと向かっていく。
ボーっとしているとまた置いて行かれそうなので、創治もその横をすたすたとついていった。
なにも、我が妹はふざけてこういう言動をしているわけではない。彼女は某有名女子校に通う由緒正しきお嬢様である。
『常に気品ある振る舞いを心がけること』という校則があるからなのか、教師陣からそういった指導を受けるからなのか、ほとんどの生徒がこういうお上品な喋り方をするそうだ。
とはいえ、イマドキの女子高生がこんな気取ったお嬢様口調を四六時中するはずもなく、麗奈の情報では生徒の半数以上は先生に隠れてフランクに喋っているとか。
しかし、麗奈はどうやら普通の生徒たちとは心構えが違うらしい。
周囲の心象を良くすることは成績に関わるからといって、家を一歩出た瞬間からこのように、いっぱしのお嬢様として恥ずかしくない立ち居振る舞いを見せるようにしているのだ。
実際、成績はいつも学年でトップ層を維持しており、有言実行である。
自他共に認める、自慢の妹だ。
麗奈の高校はすでに休みに入っているが、期末試験を控えているため図書館で自習するとのことで、そのついででこうして見送りについてきてくれている。
そんな妹の努力に兄として恥じぬよう、今日の試験は何としてでも良い点を取りたい。自分に気合いを入れるために両の頬を叩くと、力が入りすぎて少しヒリヒリしてしまった。
最寄り駅の改札口を通ると、そこから先は主要路線に乗ることになる。麗奈を片手でかばいながら、第一の戦場へと足を踏み入れた。
大都市の朝は混雑が激しい。乗客がすし詰めにされた車両内で、根を張るように踏ん張る。後からどんどん人が乗ってきて、創治たちは車両の反対側の窓際まで押しやられた。
この中には別の受験生もいるに違いないと思うと、違った意味で緊張してきた。
いやいや、ついさっき麗奈に言われたばかりの言葉をもう忘れたのか?試験はまだ始まってすらいないのだから、平常心で行かなければ。
目の前にいる麗奈の表情をふと伺うと、体勢がきついのか非常に不機嫌そうな顔をしていた。
そのことを顔の動きだけでそれとなく指摘すると、そういうお前も同じような不満顔だぞ、というニュアンスの仕草を返された。
そんなくだらないやり取りをして暇をつぶしながら満員電車に揺られていると、窓にぽつぽつと水滴が当たりはじめた。傘はいちおう持っているが、朝っぱらから降られるとは面倒なことになった。
雲行きは次第に怪しくなり、大学の最寄り駅で車両から吐き出される頃には、ついにどしゃぶりの雨となった。今朝の天気予報では降ると言っていたが、こんなにひどくなるのは予想外だった。
「傘、持ってるか?」
「この私が持っていないとでも?」
麗奈はかばんから落ち着いた花柄が入った浅黄色の折りたたみ傘を取り出し、優雅な所作で開いた。
「さすが麗奈さんですわね」
「その口調、気持ち悪いので二度としないでください」
「ごめん……」
ジト目で見られつつ、創治も『ださい傘を差してる人とは一緒に歩きたくないから』というツンデレな理由で麗奈が買ってくれた黒い無地の折りたたみ傘を広げた。
改札口から先はもう屋根がないので、できるだけ体が濡れないよう、二人とも急ぎ足で歩いていく。
ゴロゴロと雷が轟き、創治の不安を煽る。「暗雲が立ち込める」なんて、昔の人はよくもまあ上手く表現したものだと思うが、雷でも試験でも、落ちるのはまっぴらごめんだった。
しばらく歩くと、試験会場である大学の正門がやっと見えてきた。
「校舎はどこですか?」
「ちょっと待って」
とりあえず建物の中に入ってしまえば安心だろう。そう思い、指定された教室の場所を急いで確認するために受験票を取り出したところで、なんだか妙に嫌な予感がした。
空をふと見上げると、頭上で黒雲がまばゆい紫色に光り、稲妻が走っている。
なんだか不吉な天気だな。
そう思った次の瞬間、轟音とともに天地がひっくり返った。
――否、ひっくり返っていたのは自分だった。
どれくらい経ったのだろうか。
一秒かもしれないし、一分かもしれないし、それ以上だったかもしれない。
飛び散りそうな意識をかき集めて目を開くと、妹は顔面蒼白になって真横に屈みこみ、こちらを覗き込んで必死に何やら叫んでいる。
さっきまで門の横に立っていた警備員のおっさんも慌てて自分のそばまで駆け寄ってきて、妹と一緒に声をかけているようだが、どうにも耳が遠くて、どちらの声もよく聞こえない。
そうこうしているうち、だんだんと意識が混濁していく。
創治の脳裏に最後に浮かんだのは、シンプルな一言だった。
まだ、死にたくない――。