4節
背中を寒気が刺す。
ゾクゾクするそれに身震いしようと体が反応するが、そうはいかなかった。
何故なら背中だけではなく、右半身がキレイに凍っていたからだ。
全力のダッシュをしていたため、滑って転ぶその一瞬で自分の体を確認しながら俺は己の身に最悪の危機を感じた。
転倒は免れなかったが左半身で受け身を取り、長い通路で左肩を削りながら地を滑っていく。
もの凄い衝撃音と共に、家屋の壁に叩きつけられ、意識が遠退く。
痛っ。あー、やべ。落ちる…。
い、痛い。
「っぎっ…いぎぃ…」
引き裂かれるような痛みに覚醒を余儀なくされ、人の口から出るとは思えないような呻き声が口内に響く。
「あっぐぁ、い、いっ…痛ってええええええ!!!?!?」
気がつくと視界は空と地を平行線に眺める形を取っていた。
ただし平行線というよりもむしろ垂直といったほうが正確だろう。
地平線と平行なのはむしろ体の方で視界は体を縦に割るように地平線を捉えている。
俺の体は浮いていた。
それは自らの意思によるものではなく、何者かによってそのようにされている。
激しい痛みが右手と右足及びその付け根まで走っていることに気付き、恐怖に堪えて右手の方に首を傾ける。
麻痺した自分の右手のある位置にはボス級モンスターの顔があり、その敵によって己の一部は今にも噛みちぎられんとする勢いでくわえられ、ギシギシと悲鳴をあげていた。
このモンスターの名前は【アイスエイジツインドラゴン】氷河時代の双頭竜。
二つの頭を持つ竜はウイングクロスオンライン正式サービスには現段階では存在していない。
このモンスターはクローズドベータテスト(正式サービスのためのテスト稼働)のみに登場した最強クラスのモンスターである。
その二つの首はユニークな習性を持っていて、それが今の俺に実行されている。
その習性とは自分自身が凍らせた肉のみを砕いて食すという、なんとも不可解なものだったが、現実にやられるとはまず思ってもみず、またベータテストのモンスターが混入しているとは考えもしなかった故の油断だった。
この油断も仕方のないことかもしれない。
ウイングモンスターズオンラインの敵モンスターは魔法系の攻撃スキルを持つものはいないに等しく、そこで氷ブレスに当たったのは運が悪かった以外のなにものでもなかった。
「あがっ…おががががが…ぎひぃ…」
舌を強く噛み、脳天から響くような声を漏らすが。
氷によるものなのか痛みによるものなのか、頭から手足の末端までが冷えきっていて感覚がないのにも関わらず、痛みだけは全身を駆け巡る。
あーあ。俺、死ぬのか。
いやだなぁ、怪物に食べられて死ぬ最期は。
せめてあともう一回、もう一度だけユーリの笑顔が見たかったな。
でも、叶いそうにないな。
ホロリと何かが頬の上を滑り落ちた。
その滴が地面に達するかどうかのところで、俺の視界の端に一筋の閃光が駆け抜けた。
俺の右足を咀嚼していた方の首に赤い一筋の線が入り、その場所を断面としてズレるようにして頭がゴロリと落ちる。
ゴギャアアアアアアゥオオオンと叫ぶ竜は俺の腕くわえたままその身を仰け反り、首を容赦なく振りまわす。
ブチブチブチ。
奇怪な音と共に、俺の腕と体が分離する。
最早痛みで声もでない俺は宙を舞い、放射状に飛んでいく。
体が落下を始め、まさに地に落ちんとするその時、バフッという柔い感覚に包まれ、視界は上空へ戻っていく。
「また、また…間に合いませんでした。」
声の方を見上げると少女が顔をくしゃくしゃにして涙を流していた。
その熱い滴が俺の顔に垂れ、優しい想いに包まれる。
体中の痛みなんてどうでもよくなるほど、心地好くて温かい心が俺の全てを満たした。
地に舞い降りたユーリが俺を降ろし、続いて飛んできた仲間の数名が近くのモンスターから守るように戦っていた。
「俺、死ぬ…のかな。」
「何言ってるんですか。手当てさえすればこの世界でだって…」
「…」
「うそ、セツナさん…?」
「まだ、まだ生きてるよ。なんとかな…」
青ざめた少女に笑って欲しくて、最期の冗談のつもりだったのだが逆に不安がらせただけだった。
「バカ…。そんなの笑えないですよ。あなたが側に居て笑ってくれないと、私は、この先どうやって笑ったらいいのかわからなくなるじゃないですか。」
血で汚れていない方の左手でユーリの頬を撫でる。
「最期に君の笑った顔が見たかったんだ…。さっき会ったばかりなのになんでだろ。」
「最期はまだまだ早いですよ。一緒にクエストを受けたことすらないのに、そんなのないですよ…」
「ああ、そうだな。まだ一緒に冒険…してなかったよな」
「はい。だからこんなところで死んじゃ…ダメれすからねっ…っ」
ユーリの言葉が後半は嗚咽混じりに吐き出される。かなり重体なのかもしれない。
「魔法の呪文はないですけど、応急処置をするので痛いですけど我慢してください。」
そう言って雫の滴る右目から火炎属性の武器を取り出して、俺の右手と右足を焼いて止血する。
「っ…」
その熱さを殆ど感じることさえ出来なくなるほどに感覚は麻痺し、再び意識が途切れようとしていた。
その時だった。
不意に叫び声が聞こえる。
「ユーリ!そっち!!」
「えっ?」
ズガァンッ。
何かが衝突したような激しい音が一面に響く。
俺の目の前には柔らかくてふんわりといい臭いのする何かに覆われている。
そして恐らく宙を舞っているのであろう浮遊感。
何がどうなった?
その答えはわずか数俊後に判明する。
柔らかい香りと感覚が離れると 頭から背中から地面に打ちつけられ、勢いのままホップしながら路地を滑り、壁に叩きつけられてようやく止まる。
「っガッ…」
止血したばかりの右の手足から血が滲み出す。
「ゆぅ…り…?」
霞む視界の中で彼女の姿を探し、掠れる喉を引き絞って少女を呼び求める。
首を右に目一杯振り切ったところでぼやけてはいるが白い塊を見つける。
霞んではいるがミルクティー色の髪が見えることによって、それが探していた少女だと認識し、俺は絶望した。
その白い塊だったものがだんだんと赤く染まり、
やがてその周辺は真紅の池ができた。
尋常じゃない量の血が溢れだしていることは、透明と赤が混じった何かが滲んでよく見えない目にも明らだった。
「っく…ゆ…ぅ…り…ゆぅ…り、っぐぇっ…」
血へど(パソコンで漢字変換)を吐きながら左手と左足を不器用に動かして這いずり、少女の元へと一歩、また一歩と進む。
歩けば二十に満たない歩数だが、一回の前進で半歩も進んではいないからか、意識が朦朧としているからなのか、彼女との間の距離は永遠に縮まることがないように錯覚する。
「ぅ…り…ゆぅりぃ…ユーリッッッッ!!」
俺の最期の叫びも虚しく残響し、彼女には届かない。
届かない。届かない。届かないのか…?
敵が来る!!敵が!敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵敵!!!!!
動け!動け!
クソッ!クソッ!クソがああああああああ!くそ…くっ…そぉっ…
動かない自分の体に苛立ち、悔し涙で滲む視界の先を睨みながら、前へ前へと手を伸ばす。
まだ、まだ残ってるんだ。
やりたいこと、やらなきゃならないことが。
こんなとこで、くたばるわけには…。
だが、這いずった軌跡が出来るほどに引きずった体から、再び漏れだす血がそれを許さなかった。
こんな…ところで…終わんのかよ…。
俺が調子に乗ってこんな本物の命をかけた一方的な殺人に対抗すべく戦闘に参加し、あまつさえあの子の足を引っ張ったから、あの子はあんな目に遭って、自分は右手脚を失い、その命も風前の灯である。
俺はなにやってるんだ。
彼女を守る?
ハッ。笑わせるな。
一度ならず何度も助けられて…。
ランキングトップなんてただのクソゲーの評価でしかなくて、こんな戦いには自分を傲らせるただのお荷物でしかなくて…。
及ぶはずもなかったんだ。
今までずっと本物の世界で戦ってきた彼女らに、たかがゲームのシステムに守られて強くなった自分なんかが。
はは。
ハハハハハハハハハハ。
もう、いいや。
考えるのも疲れた。
頭は重いし、体中痛いし、今まで培ってきたプライドもズタズタで俺の中には何も残ってねぇ。
ごめんな。ユーリ。俺に会わなければ、君は仲間とこの戦場を駆け抜け、足手まといを抱えることなく明日も明後日も、ずーっと未来でも笑っていられただろうに。
そもそも俺がいなけりゃ、こんな残虐な殺しが行われることもなかったんだ。
俺が本当にログアウトできないかどうか試すことさえしなければ、こんなことには。
「せ…っ…なさん。」
少し籠っているが、確かに聞こえた。
「セツナ…さん」
俺の名前を呼ぶ少女の声が。
「今、助け…ます…から…っんあっ…」
這いずり手を伸ばそうとする少女が響く痛みに喘ぐ。
もう、もういいんだユーリ。
俺は…君に合わせる顔が無い。
だから…
「ぁぐ…ぅぐぐぎ…げぅ…」
伝えたくとも喉が潰れて声が出ない。
少女が生きていることに感じた僅かな安堵にさえホッと息をつくことが出来なかった。
「すぐ、すぐに…そちらに……」
「ダメ…!早く逃げて!!ユーリ!!」
響する仲間の一人の悲鳴が開かない瞼をこじ開ける。
叫んだその人も戦っていて、こちらに手を貸すわけにはいかなかったのだろう。
「ごぼっ…」
ユーリの声は俺の視界を無理に持ち上げさせるには十分だった。
「あ…ああ…っ…」
俺の目の前にいるソイツは翼を生やした馬、古来より語り継がれる幻獣のうちの一匹。
ペガスス、固有名【エクスプロードペガシス】爆発翼馬。
そのモンスターの両前脚から生えた、渦巻く火炎のような鮮やかな見映えの極太の槍の右側がユーリの脇腹を貫き、その体を空中に持ち上げていた。
そして…。
ズガァンッ!!ドゴゴゴゴ!!!!!
射抜いたその槍の先から無数の爆発が繰り返される。
そしてその黒くこげた塊は体ごとスピンするペガシスにより振り落とされる。
ぼとりと鈍い音が響く。
しん…しんだ…ゆーりが…しん…し…死…死死………死死……ん死死死死死んだ殺した俺が殺したユーリが死ぬ死んだ死ぬ死ぬ死んだのか殺された誰に俺にだ死ぬ死んだ死ぬのは俺だけで死ぬ死んだ殺した俺が殺したユーリを…
俺が殺した…ユーリを殺した…俺がぁっ!!!??
「ぁっ…ううっ…げぁっ…ぐああああああああああああ!!」
濁った声が奥から涌き出る。
己の無力に対する怒りと共に。
片足が屈曲し、勝手に立ち上がる。
壁にもたれ掛かってなんとか立っているということに自らの意思はない。
溢れる数多の感情が己の中の何かを突き動かしているかのようだった。
俺は今までの自分に誇りを持っていた。
だがそれは少女にとってはなんでもないことで、あっさりと俺のプライドを意図せずに打ち砕いた。
俺にはもう何もなかった。
だが少女の態度を思い出す。
彼女はあんな強さを持ちながらへりくだっている。
プライドを持つというより怯えている。そんなイメージを持たせる少女に俺は過保護にさえなっていたのかもしれない。
それだけ少女の強さは態度には表れない。
おのずと自らの愚かさに気付かされる。
なんと自分は間抜けだったのだろう。
ユーリは、ユーリは俺を守ろうとしてくれた。
だが、俺は口ではそれを受容しながら中身は女の子から守られることを恥としていた。
信じなかった罰なのだ。
彼女を、互いに守りあう存在として信じなかったからこんなことになってしまった。
今更ながら後悔するがそれよりも…。
「まだ…まだ死ねない。死ぬわけには…いかねぇ…今度は…次は俺が助ける番なんだああああああああああ!!!!」
叫びは誰にも届かない。
聴覚を失った自分の耳にさえ聞こえてはいなかった。
そして、最期に黒い塊とその右腕に鈍く光る鋼の腕を瞳の中に捉えると、その視界は暗転し俺は回る真っ黒い渦の中に囚われた。
薄れ行く景色の中で、その右目の縁が眩しかったが、それに気を回せるほど脳は機能してはいなかった。
その右目に装着された機械。
ディバージョンインカーネイトアイが強く輝いた。
そしてその色はどす黒いオーラを撒き散らしていた。