第9話 マイペースな部長もある意味で最強
ゴールデンウィーク前の学校の放課後。
図書室の近くの廊下は人が少なくて、空気がどこかひんやりとしている。
まだ初夏でもないのに、だれかが扇風機をまわしているのだろうか。
「鍵。鍵っと」
肩にかけた鞄のチャックを開けて右手で中を漁る。
財布と筆記用具の感触の向こうに、金属の硬くて冷たい感触があった。
扉の鍵穴に鍵を差し込む。左に捻ると鍵が開くはずだけど、解錠する感触がない。
何度か鍵をまわしてみるが、鍵は空を切るばかりだった。
「鍵が開いてる?」
昨日は帰る前に部室の鍵をかけた。その後に何度も確認しているはずなのに。
扉を引いて部室を覗く。
開いている窓から微風が吹いて、白いカーテンがオーロラのように舞っている。
カーテンの隙間から差す放課後の陽が、部室の机を照らしている。
その一角にうずくまるひとつの人影があった。
だれかが眠っている?
うずくまって眠っているその人は、うちの学校のジャケットを着ている。
机に広がる細い髪は艶やかで、絹のような透明感に心が奪われそうになる。
ジャケットの袖からのぞく指は人形みたいに細くてきれいだ。
足音を立てないように部室へ入る。その人は身じろぎひとつしない。
おそるおそる近づいて、眠りこけるその人の横髪をそっと掻き上げてみた。
「部長?」
細くなりすぎないように整えられた眉。日本人としては少し高めな鼻。
何も気づかずに寝息を立てているこの人は山科部長で間違いない。
「部長、何してるんですか」
「ふにゃぁ?」
部長の女性らしい肩を揺する。部長が猫のような声を出した。
「あっ、むなくん」
「そろそろ部活がはじまりますよ。起きてください」
「ん……あと、五分……っ」
部長の少し上がっていた頭が机に引かれる。起きる気配はないな。
何度か肩を揺すってみるけど、安心しきった子どものような表情は幸せそのものだった。
「部長。部活がはじまるんですよ。起きてくださいよっ」
「んー。まだぁ」
「起きてくれないんだったら、強引に起こしますよ。いいですね」
「いやんっ」
部長の両脇を抱えて身体を持ち上げる。
部長の柔らかい身体が気持ちよくて、このままつかんでいたい気持ちになる。
「むなくんの、えっちぃ」
「変な声をあげないでくださいよ。だれかに見られたら、勘違いされるでしょ」
「それも、悪く……ないっ」
部長の居眠りを防止する丸棒は、本棚に立てかけられている。
左手を伸ばして棒をつかんだとき、だれかの気配を感じた。
「何してるんですか」
薄暗い部室の隅に立っていたのは柚木さんだった。柚木さんは無表情で目を細めている。
「やあ、柚木さん」
「わたし、邪魔ですか」
「いや、邪魔じゃないけど」
柚木さんの声が普段よりも低い。俺の鳩尾を静かに突き上げるような声だ。
「悪いけど、暗いから教室の明かりをつけてくれない?」
「あ、はいっ」
柚木さんが壁のスイッチを押してくれる。部室の静寂に強い光が差し込む。
「部長、柚木さんが来ましたよ。いい加減に起きてくださいっ」
「んんっ、にゃ」
部長の両脇をもう一度つかんで身体を強引に起こした。
「柚木さん、その棒をとって」
「はいっ」
柚木さんが本棚に立てかけてある丸棒を差し出してくれた。
棒の先端を部長の首の後ろへ差し込んで、ブラウスと背中の間に通す。
「はうっ」
「部長、おはようございます」
「むなくん、なかなか……やるわ、なっ」
部長が細い目を開けて、亀のような遅さで首を左右へ動かす。
柚木さんを捉えて、ぴたりと動きが止まった。
「ん、知らん子が、おる」
「この子は新入部員の柚木さんですよ」
「柚木はん?」
小首をかしげる部長に、柚木さんが頭を下げた。
「柚木ですっ。よろしくお願いします!」
「あらっ、ほほ。よろしゅうなあ」
部活見学の初日に、部長は柚木さんと会ってるはずなんだけどな。
「部活見学のときに柚木さんと会ってるんですけど、覚えていないですか?」
「んん? そないなことがあったかしら。よお覚えてへん――」
そう言いかけて、部長は右手をぽんと叩いた。
「部活見学におった子っ。うちに入部してくれたんねぇ」
「部長、本当に思い出してます?」
「思い出したわよ。おほほほっ」
一目でわかるような嘘っぽい笑い方ですけど、目を覚ましてくれたから許します。
柚木さんが正面の机の椅子を引っ張り出す。
「柚木はんは、本が好きなん?」
「はいっ。月に二十冊くらいは読みます」
「そないに読むん。すごいわあ」
「山科先輩は、月にどのくらい読まれるんですかっ?」
「そやねぇ」
部長の身体が急停止する。五秒くらいの間が空いて、
「百冊くらいかしら」
しれっと嘘をついたので、俺の右手が知らずに部長の脳天を引っぱたいていた。
「きゃん、痛いっ。なにしはるんっ」
「後輩の前で白々しい嘘をつかないでください。本なんて一冊も読んでないでしょう?」
「あら、かなんわあ。この子ったら。うちかて本くらい読むわよ」
「じゃあ、最近に読んだ小説のタイトルはなんですか?」
「小説のタイトル?」
部長の目頭がびくりと反応する。
いつになく真剣な眼で、俺と柚木さんを見据えて、
「我輩は犬である」
「猫でしょ」
間髪を入れずに訂正すると、部長は悪びれずに「あら、ほほ。ニアミスやねぇ」と言った。ニアミスではないです。
「しかも、それって個人的に読んでいる本じゃなくて、現国で勉強している題材なんじゃないですか?」
「そないなことはないわよ。先輩のうちを疑うなんて心外やわ」
「部長が真面目に読書してるんだったら、何も疑わないんですけどね」
俺の口からため息が漏れる。
この人は相変わらずというか、マイペースで実につかみどころがない人だ。
細目で寝てばかりいるから、何を考えてるのか全然わからないし。私生活に至ってはまったくの謎だ。
部長は丸棒を背中に入れたまま、首をうつらうつらと揺らしていた。
そのまま俺に寄りかかりそうだったので、
「部長っ」
「ほえっ?」
肩をがっしりと抑えると、部長が飛び起きた。
「どれだけ寝れば気が済むんですかっ」
「おほほほ。いやねぇ。寝る子は育つって言うでしょ?」
「部長は寝て育つ年齢じゃないでしょ」
「あら、女子に年齢を聞くんはセクハラよ。なんぼ、むなくんやて、そらあかんわ。ねえ、柚木はん」
「はあ」
机の向こうの柚木さんは、心の底から軽蔑するような視線を送っている。
表情は暗く、元気で若々しい明るさがそこにはない。
「柚木さん、元気ないみたいだけど、だいじょうぶ?」
「はい。わたしなら、だいじょうぶです」
柚木さんがぴしゃりと言い放つ。いつもは元気に受け答えしてくれるのに。
部長は俺と柚木さんを交互に見比べて、おほほと笑った。