第8話 比奈子の尋問
「で、どうだったの? ことちゃんとっ!」
自宅のダイニングテーブルの向かいから、制服姿の比奈子が身を乗り出してきた。
箸と茶碗を抱えながら、俺の言葉を待ち受けている。
「どうだったって、何がだよ」
「それを僕に聞くかなぁ」
静かに鶏の唐揚げをかじる俺を、比奈子が目をきらきらさせながら見てくる。
「だって、ことちゃんと部室でふたりっきりだったんでしょ。っていうことは絶対に何かあるじゃん!」
「部室でふたりっきりじゃないし、絶対に何かもない。早く食べないと唐揚げがなくなるぞ」
「なにそれー。つまんない」
比奈子が途端にやる気をなくして茶碗を持ち直した。
「にいとことちゃんが再会したんだから、もっとこう、あるでしょ。もわぁっとしたやつがっ!」
言いながら比奈子が両手を広げて、何かに抱きつくような仕草をする。
「小学生のときに仲のよかった女の子と運命的に再会して、女の子が自分を慕って同じ部活に入ってくれて。ああっ。なんか、すっごいロマンチックっ。少女漫画みたいぃ」
俺と柚木さんの気持ちを置いて、身勝手な妄想をするな。
これ以上話を続けさせると面倒なことになりそうだ。この辺りで話題を変えよう。
「お前の方はどうだったんだよ。空手部は」
「僕の方? 今日は部長を倒したよ」
「部長を倒したっ? あの大隈先輩を倒したのかっ!?」
「やっ、ちょっと、ご飯粒が飛んだっ!」
気づいたら俺は立ち上がって、テーブルの向こうにいる比奈子に思いっきり顔を近づけていた。
「すまん。あまりに驚いたものだから、我を失ってしまった」
「んもう、迷惑だからやめてよね。そういうの」
「それで、大隈先輩を倒したというのはマジなのか?」
「んー。倒したって言っても簡単な組み手だし、先輩は手を抜いてたからね。言うほどのものじゃないけど」
正式な試合で倒したわけじゃないのか。
それでも熊の異名を持つ先輩を倒せるのはすごいと思う。
「お前の身体のどこから先輩を倒す力が出るんだかなあ」
「今の時代でそういう発言すると、セクハラで訴えられるわよ」
「はいはい。すいませんでした」
夕食を食べ終えて二階の自分の部屋へ上がる。
机の端に置いているノートパソコンを引っ張り出して起動する。
デスクトップ画面に映っている深夜アニメのキャラクターを茫然と眺める。
高校の入学祝いでこのパソコンを買ってもらったけど、使い道が見出せずに音楽プレイヤーと化している。
インターネットに接続できれば、ネットゲームをやったり動画を視聴することができるけど、母さんが許してくれないんだよな。
後ろの扉から、こんこんとノックする音が聞こえた。
「にい、入るよ」
「ああ」
いつの間にかTシャツとパジャマに着替えていた比奈子が部屋に入ってきた。
腰まで届く長い髪をピンク色のタオルで拭いている。
「ねえねえ、ことちゃんと何か話さなかったの?」
「また柚木さんの話か。しつこいぞ」
「いいじゃん。言ったって減るものじゃないんだから。さっさと聞かせてよー」
比奈子がベッドに腰かけて足をばたばたさせる。
「気になってるって言われてもなあ。大した話は本当にしてないぞ」
「本当にぃ? 人の来ない放課後の部室で、いやらしいこととかしてたんじゃないのぉ?」
「いやらしいことなんて、するわけないだろ。お前はどうして、そういう話題に持っていこうとするんだ」
「どうしてって、にいとことちゃんの間にそれ以外の話題なんてあるの?」
俺の真後ろに来ていた比奈子が目をぱちくりさせる。真顔で不思議がるなよ。
「だってさぁ、ふたりともいい歳なんだよ? この歳でばったり再会したら、恋愛以外にすることなんてないじゃん」
「恋愛以外にもすることはあるだろ」
「えっ、そう? たとえば?」
比奈子が俺の肩に顎を乗せる。シャンプーと化粧水の華やかな香りが、俺の鼻を刺激する。
まっすぐに問い返されると、次の言葉が思いつかなくなるんだが。
「やんっ」
俺は比奈子を追い払った。
「あると言ったらあるんだっ。あんまりしつこいと、柚木さんに言いつけるからな」
「なによー。にいのケチっ!」
「はいはい。ケチで結構ですよー」
比奈子が「べー」と舌を出す。その悪態を眺めて、柚木さんが絵の話をしていたことを思い出した。
「そういえば絵の話になって、絵で喧嘩した話をしたよ」
「絵で喧嘩した話?」
「ああ。俺は覚えてないんだけど、柚木さんが遊びに来たときに、絵で俺とひなが喧嘩してたって言ってたんだよ」
「そんなことあったっけ?」
比奈子がベッドに寝っ転がって思案する。
「小さいときは毎日のように喧嘩してたから、全然覚えてないなあ」
喧嘩してたというか、お前のわがままに振り回されていただけなんだけどな。
「僕とにいが喧嘩すると、ことちゃんはひとりでおろおろしてたから、記憶に残ってるのかなあ」
「柚木さんはひとりっ子だから、兄妹喧嘩が珍しかったのか」
なんとなく感じていた違和感がとれて、少しすっきりした。
比奈子がうつ伏せで俺の枕を抱えながら、「ふふ」と笑って、
「でもさあ、にいって柚木さんって呼んでるんだね」
また意味深なことを言った。
「女子を苗字で呼ぶのは普通だろ。何もおかしくないじゃんか」
「そう? この間から、すっごい違和感ありまくりなんだけど」
「そうか? クラスの女子だって苗字で呼ぶだろ。他の男子だって苗字で呼んでるぞ」
小学生のときは柚木さんを名前で呼んでいた。今はそんなことをできるはずもない。
比奈子が含み笑いを浮かべながら、また後ろから引っ付いてきた。
あまり育っていない胸が俺の鎖骨に当たる。
「クラスの女子じゃなくって、ことちゃんの話をしてるんでしょ。話を逸らさないでよ」
「話を逸らしていない。後ろから息を吹きかけるなっ」
「だって、にいがいつまでもはぐらかすから、我慢できなくなっちゃったんだもん。昔みたいにさ、『ことは』って呼べばいいじゃん」
なっ!
「そんなことできるわけないだろ! からかうのもいい加減にしろっ」
「ああっ! にいの顔が赤くなったっ。めっちゃ意識してるっ!」
比奈子がベッドの上で声を立てて笑い転げる。くっ、バカにしやがって。
「し、仕方ないだろ。六年も会っていなかったんだから。意識するなという方が無理な話だっ」
再会した柚木さんは見違えるように色っぽくなった。
今日だって柚木さんと話すときになるべく意識しないように心がけていた。
けれど、大人の女性として成長した彼女がそばにいて、思いが熱くなっていくのを感じずにはいられない。
兄の威厳を示すために、びしっと比奈子に申し開きしておきたい。
だが、顔から感じる熱気が気になって言葉が思いつかない。
団扇はどこかにないだろうか。
「じゃ、まんざらでもないってことね。ちょっと安心した」
比奈子が身体を起こして俺を見上げる。
「柚木さんだって、俺のことを名前で呼ばないからな。だからだよ」
「ふうん。そうなんだぁ」
「まんざらとか、そういう間柄じゃない。俺は文研の副部長で、柚木さんは後輩だ。それ以上でも、それ以下でもない。柚木さんだって、そう思っているはずさ」
「そうかなぁ。僕にはそう見えないけどなぁ」
比奈子がいたずらっ子のような目で見入る。
「今はそれでいいわ。はじまったばかりなんだから焦る必要ないし」
比奈子が飛び起きて、すたすたと歩いていく。
「じゃ、にい。おやすみぃ」
「ああ、おやすみ」
比奈子は、昔から大人ぶる悪い癖があるから困る。柚木さんに妙なちょっかいを出さなければいいが。
ノートパソコンを起動していたことを思い出して、目を落とすと液晶画面にスクリーンセーバーがかかっていた。