第62話 海の家で柚木さんとランチ
青い海豚の浮き輪が、俺の足もとで海を見つめている。その傍に、ハート型のサングラスが落ちていた。
「ひなちゃんは、ごはんを食べに行ったんですか?」
柚木さんが、海豚の浮き輪を拾った。ハート型のサングラスはテーブルに置いておく。
「お腹が空いたみたいだけど、もうちょっとお腹を空かせたいってさ」
「もうちょっと、お腹を?」
「その方が、おいしくごはんを食べられるでしょ」
「ああ、そういうことですね」
柚木さんが、俺の言葉に納得して苦笑した。
「それで部長と遊びに行ったんですか?」
「そうだね。部長もひなと遊びたいらしいから」
「そうなんですね」
海の興奮が少し冷めて、お腹が空いてきた。なんでもいいから空腹を満たしたい。
「柚木さん。お腹が空いたから、何か食べようよ。そこに海の家があるし」
「はいっ」
柚木さんの海水を含んだ前髪が、かすかに揺れた。
「その浮き輪、持とうか?」
「だいじょうぶですっ。軽いですから」
ログハウスのような海の家の前に、ビーチパラソルが並び立てられている。
その下に設置されたテーブルには、海水浴客が、かき氷や焼きそばを食べながら談笑している。
トロピカルジュースの橙色や水色の鮮やかな色彩が、南国の陽気な雰囲気を連想させる。
かき氷や生ビールののぼりを横目に入店する。
地面に直接テーブルや椅子を置いているだけの、簡素な店内だ。
テーブルやカウンターのまわりには、水着姿の男女がひしめき合っている。
「柚木さんは何が食べたい?」
柚木さんに振り返ると、彼女は俺の顔色を伺うように数秒間見つめて、
「先輩の食べたいものでいいです」
手を腰の後ろにまわして言った。
カウンターの上に貼られている紙のお品書きを見やる。
焼きそばにおこのみ焼き。フライドポテトや鶏の唐揚げなんかもあるのか。
かき氷やジュース類も侮れない。柚木さんは、どんなものが食べたいのだろうか。
一品をふたつ買うんじゃなくて、二品以上の食べ物を買って分け合えば、柚木さんのこのみから外れる確率が減るかな。
「じゃあ、焼きそばとたこ焼きを買ってシェアしようか。どっちも食べたいから」
「はいっ。わかりました。暑いですから飲み物も買いませんか?」
「いいね。柚木さんは何がいい?」
「ええと――」
柚木さんは、カウンターの脇に置かれている飲み物のお品書きを眺めて、
「先輩におまかせしますっ」
申し訳なさそうに苦笑した。
「わかったよ。じゃあ席を確保しておいてもらえるかい?」
「はい。あっ、お金は――」
「後でいいから。じゃあ、頼んだよ」
「はいっ」
柚木さんの白い背中を見送って、はっと思い知る。
一連のやりとりが、カップルみたいじゃないか。そんなことを思うと、胸が高鳴ってきた。
食べ物とジュースを持って、柚木さんの座る席へ向かう。
柚木さんは頬杖をついて海を眺めていたが、俺と目が合うと、手を引っ込めて姿勢を正した。
「ジュースは、オレンジジュースとメロンジュースを買ってみたよ。どっちがいい?」
「ありがとうございます。ええと、わたしは――」
俺がジュースをテーブルに置くと、柚木さんはジュースと俺を見比べて、
「先輩が好きな方を選んでくださいっ」
控えめに微笑んだ。
「じゃあ俺は、メロンジュースにしようかな。はい、これ」
「ありがとうございますっ」
透明のフードパックの蓋を開ける。
焼きそばのソースの香りが鼻腔をくすぐる。
割り箸を柚木さんに渡して、焼きそばをひと口で放り込む。ああ、うまいっ。
こしの残っている麺に、ソースの濃厚な味と芳醇な香りが絡み合い、絶妙なおいしさを引き出している。
たこ焼きにも食指を伸ばす。卓球のピンポン球くらいの大きさだけど、ゆっくり食べるのは面倒だ。
ふわふわした生地を、奥歯で挟み込む。あつあつの中身が口の中で溢れて悶絶する。
唾液で少し冷めて、やっと味を堪能できる。雑味のない小麦粉にソースがよく合う。
蛸の足がほどよい食感を生み出して、これ以上ない幸せな味わいを生み出してくれる。
屋台や海の家で食べる焼きそばやたこ焼きって、なんでこんなにおいしいんだろう。
料理人の腕がいいのかな。それともロケーションが良い影響を与えているのか。
「おいしいですか?」
柚木さんが、割っていない割り箸を持って微笑む。
「めちゃくちゃおいしいよ。けど、たこ焼きが熱いから、少し火傷したかも」
「一気に食べるからですよっ」
柚木さんに「うふふ」と笑われてしまった。
柚木さんも焼きそばを少しつまんで口に含める。
口をもごもごさせながら綻ぶ姿が、なんとも愛くるしい。
「ああ、おいしいですね」
「でしょ。たこ焼きもめっちゃおいしいよっ」
「ほんとですか!?」
焼きそばとたこ焼きを交互に食べる。
どちらも中くらいの量を選んだけど、ちょっと少なかったな。
「屋台や海の家で食べる焼きそばって、なんでこんなにおいしいんだろうね。いつも不思議に思うよ」
「あ、そうですよね。わたしもそう思います」
「でしょ。うちで食べる焼きそばとは、明らかに味が違うんだよね。焼きそばをつくってる人の腕がいいのか。それとも材料がいいからなのか。それともロケーションのせいか」
「ロケーションってなんですかっ」
柚木さんが口に手を抑えて笑う。
「また観覧車のときみたいに難しいことを考えてるんですか?」
「そうかな。難しいかどうかは、よくわかんないけど」
「先輩は、いろいろ考えるのが好きなんですね」
「そうなのかもね。あんまり意識したことはないけど」
焼きそばとたこ焼きを食べ終えて、メロンジュースで一息つく。
「ひなちゃんもよかったですね。部長や先輩方と溶け込めて」
「そうだね。あいつは輪の中に入るのがうまいからね」
「そうですよね。ひなちゃんの人見知りしないところって、本当にすごいと思います」
比奈子が人見知りをしないのは、怖いもの知らずだからなんだろうな。
「電車の中では、部長を睨みつけてたから、ちょっと心配してたんですけど、それも問題なさそうだし」
「睨みつけてた? えっ、そうなの?」
「はい」
俺は電車内で比奈子や柚木さんと離れた場所にいたから、比奈子がそんな様子だったことには気がつかなかった。
「部長は飄々としている方ですから、喧嘩にはならないと思ってたんですけどね」
「そうだね。部長は大人だから」
「はい。でもどうして、ひなちゃんは部長を嫌ってたんだろう。部長となんかあったのかな」
柚木さんが、親指と人差し指でストローをつまむ。
ストローでジュースを掻きまわす様子を眺めながら、比奈子が合宿に行くと言い出した夜の日を思い出す。
「でも、だいじょうぶですよね。ひなちゃんは部長と楽しく遊んでるんですから」
「そうだよ。ひなだってわがままなことはしないから、柚木さんは何も気にしなくていいんだよ」
「そうですね。わかりましたっ」
比奈子は文研の一員でもないのに無理矢理合宿に参加したんだから、場を乱すようなことはしないはずだ。
そうだ。きっとだいじょうぶ。




