第6話 ゆったり? ぐだぐだ? 文研の空気
一週間の部活見学の期間が過ぎて、二十一名の新入生が文研に入部してくれた。
文研に入部する新入生は多い。
けれども、そのほとんどは幽霊部員だから、真面目に入部してくれた新入生は半分もいない。
彼らも文研のゆるい雰囲気に流されて、夏休みが終わった頃にはその半数が部室に顔を出さなくなってしまう。
だから今日の放課後の部室も、普段と変わらずに閑散としているのは、決しておかしいことではないんだ。
「先輩たち、来ないですね」
柚木さんが静かな部室を眺めて、ぽつりと言った。
「うちの部活はゆるい部活だから。毎日来る人は少ないからね」
「そうなんですね」
部室には四名の新入生がいて、読書したりノートパソコンを起動して執筆している。
昨日は新入部員の紹介があったから、普段顔を出さない先輩も部室へ来ていた。だけど、今日はだれも来ていない。
部長は昨日も来ていなかったけど。
「でも先輩は毎日部室に来てますよね」
「俺は副部長だからね。俺が来ないと部室の鍵も開けられないし」
「部室の鍵を先輩が持ってるんですか?」
「そうだよ。部室の鍵はマスターキーとスペアキーのふたつがあって、マスターキーは俺が持ってるんだ。スペアキーは顧問の高杉先生が持ってるんだけど、先生は忙しくて部室に毎日来られないからね」
「そうなんですか」
鞄からマスターキーを取り出す。
「この鍵は本来なら部長が持つべきなんだけどね」
「そうですよっ。それなのに、どうして先輩が、山科先輩の替わりに鍵を持ってるんですか」
「部長は忙しい人だし、貴重品の管理が苦手そうだったから、仕方なくって感じかな」
毎日眠そうにしているから、忙しそうには見えないんだけど。
「先輩に鍵を押し付けるなんて、酷いです」
「そんなに大したことじゃないから」
「そうですけど」
柚木さんが不満そうに口を少し尖らせる。
その仕草が可愛くて、心がぐっと奪われそうになる。
「柚木さんは小説を執筆したりする?」
「小説の執筆ですか? いいえ、したことないです」
小説が好きでも、自ら執筆する人は少ない。
自宅にパソコンがないと、そもそも執筆できないという理由も大きいけど。
「わたしはパソコンをもっていませんし、原稿用紙で書くのも大変ですから。先輩は執筆してるんですか?」
「執筆は少ししかやったことないね。高校の入学祝いでパソコンを買ってもらったけど、タイピングするのは遅いし、書きたい内容も思いつかないんだよね」
「パソコンって難しいですよね。ブラインドタッチとかできる人って、なんであんなに早くパソコンを操作できるんでしょう」
「毎日触っていれば、そのうちにできるようになるんじゃない? ほら、何事も慣れることが大事だし」
「わたしは、いくらがんばっても得意になれる気がしないですっ」
柚木さんが「うう」と小猫みたいに唸った。
「柚木さんはパソコンが苦手なの?」
「苦手というか、触ったことがないんですけど」
「それなら、部室のノートパソコンで練習すればいいんじゃないかな。ほら、ちょうど空いているパソコンがあるし、起動と停止の方法くらいだったら、俺でも教えられるから」
「練習、ですか」
文研には四台ものノートパソコンが常備されている。
文研が設立された時にパソコン部から譲り受けたものらしいけど、今の文研では明らかにオーバースペックだ。
柚木さんがとなりの島に並べられているノートパソコンを見やる。
まるで毛虫を発見して気持ち悪そうにしているみたいだけど。
「パソコンは、いいですっ。執筆はしませんから」
柚木さんはパソコンを触ったことがないんじゃなくて、パソコンがきっと苦手なんだな。
部室の扉が開いて、眼鏡をかけた女子生徒が顔を出した。
「すみません。部長か副部長はいらっしゃいませんか?」
眼鏡をかけたこの人は、図書委員だな。図書室の作業の手伝いの時間になったんだ。
「はい。俺が副部長ですけど」
席を立つと、図書委員の女子はほっとした感じで、
「あの、高杉先生からお話がいってると思うんですけど、その」
「はい。わかってます。すぐに図書室へ向かいます」
「お願いします」
文研では月に一度、図書委員の手伝いをする決まりになっている。今日がその日だった。
「じゃあみんな、図書室に移動するよ」
「はいっ」
俺が立ち上がって指示を出すと、新入生たちは爽やかに返事してくれた。
図書室は図書準備室を挟んだ向こうにある。
文研の部員たちがすぐに本を借りられるように、図書室の近くの教室を部室にしたらしい。
「先輩。図書委員のお手伝いって、何をするんですか?」
柚木さんがとなりを歩きながら尋ねる。
「本の整理やラベル貼りとか、図書委員の雑用だよ。図書館に行って本の運搬をすることもあるよ」
「図書委員と同じ仕事をするんですね」
「そうだね。うちの部員はこれで図書委員の仕事を覚えるから、次の年から図書委員になる人が多いんだ」
「あっ、そうですよね。では、先輩も図書委員なんですか?」
「いいや、俺は美化委員」
放課後の図書室は文研の部室のように静かだ。
図書室のこの静けさと古臭い紙の匂いが好きで、俺は本が好きになったんだ。
図書室のカウンターのそばに新入部員が整列してくれた。
「一年生は本の整理をお願いします。俺は図書準備室にいるので、各自の分担している作業が終わったら、俺に報告してから部室へ戻ってください」
柚木さんや他の一年生たちが持ち場へと離れていく。
俺は図書準備室のパソコンを使って、図書カードの製作を担当する。
図書準備室のノートパソコンの液晶ディスプレイを起こして起動ボタンを押す。
ディスプレイの黒い画面にパソコンの製作会社のロゴが表示されるのを確認して、となりに置かれているプリンターの起動ボタンを押す。
「さて、はじめるか」
ノートパソコンのデスクトップにごちゃごちゃと並べられているアイコンから、テンプレートファイルをクリックする。
起動したアプリケーションのメニューから印刷機能を呼び出して、指定の枚数を入力する。
印刷している合い間に、図書館から納入した本をチェックする。
納入リストには百冊くらいの本がリストアップされている。
納入リストと段ボールに詰め込まれている本をチェックする、かなり地味な作業だ。
「ええと、『孫氏の兵法に学ぶ効率的な学習方法』は……」
机に置き直した本と、リストの一番目に記載されている本のタイトルを見比べる。
次の本は「アンコールワットを巡る旅」か。この本は、どこに――。
「先輩っ」
図書準備室の出入り口で音がする。振り返ると、閉じられた扉の前に柚木さんが立っていた。
「柚木さん。作業はもう終わったのかい?」
「はい。手が空きましたので、手伝います」
図書準備室の扉の近くに掛けられている時計を見やる。四時二十分だった。
図書室に移動したのは、四時ちょうどくらいだった。
一年生の作業はこんなに早く終わらないはずなんだけど。
「ありがとう。納入リストのチェックが全然終わってないから、いっしょにチェックしようか」
「はいっ」
二枚目の納入リストを渡すと、柚木さんは両手で受け取ってくれた。