第21話 柚木さんと比奈子の放課後
昇降口まで降りて、一年の頃から穿き続けている革靴に履き替える。
昇降口のガラスの窓から見える空が、茜色に染まっている。
白い雲も夕日の色と重なって、桜の花のような淡い桃色になっていた。
「にい、おまたっ」
革靴に穿き替えた比奈子が、小さく手を振っている。柚木さんも続けて昇降口から出てきた。
「ひとりでなに黄昏れてんの?」
「空がきれいだったから、ついね」
「先輩、また空を眺めてたんですか?」
くすりと笑う柚木さんに比奈子が振り向く。
「えっ、なにそれ? またって」
「うん。前にもね、先輩が部室で空を眺めてたときがあったんだよ。その姿が、なんだか近所のおじいちゃんみたいだったからっ」
柚木さんが、くすくすと思い出し笑いをする。比奈子は呆れて、
「おじいちゃんみたいに空見てたって、なにそれ。老化がもうはじまっちゃったの? 超やばくない?」
「ほっとけ」
この空の美しさを、お前に教えてやろう。
「ほら、向こうの空を見てみろ。夕日が光っててきれいだろ?」
「そう? 昨日もあんな感じだったじゃん」
「わたしは、夕日を見るのは好きですよっ」
可愛げのない妹と違って、柚木さんは俺の趣味に同意してくれる。
「ええっ、ことちゃんまでそんなことを言ってたら、おばあちゃんになっちゃうよっ」
「おばあちゃんになるのは、まだ嫌かなぁ」
「でしょ。だからここは、にいの言い分を全力で否定しなきゃいけないんだよ」
比奈子と柚木さんが話しているのを眺めながら、校門を抜ける。
「ねえねえ、せっかくだからさ、駅前のカフェに寄っていこうよ!」
「いいねっ。行こ行こっ!」
これからカフェに行くのか? 一時間くらい滞在したら帰りが遅くなるぞ。
「帰りが遅くなったら、母さんに怒られるぞ」
「平気よ。そうしたら、全部にいのせいにするから」
「しれっと俺に責任をなすりつけるな」
柚木さんがつられて笑った。
車の交通量の多い並木通りを下っていく。
八階建てのデパートが並ぶ大きな交差点には、信号待ちをしている高校生たちがいる。うちの高校の生徒だ。
デパートに入って、エスカレーターで二階へ上がる。
岩袋の賑やかなデパートと違い、フロアはがらんとしている。
カフェのレジでカフェラテを注文して、窓際に設置されているカウンターの席につく。
「でね、そうしたら山田先輩が――」
比奈子は、柚木さんと横一列に並んでおしゃべりしている。
空手部にいる、ひ弱な先輩の世間話に夢中になっているようだ。
「ひなちゃんが強いから、先輩でも勝てないんだよ」
「でもあの人、正拳突きを軽く当てただけで泣いちゃったんだよ。いくらなんでも弱すぎないっ?」
「それは、ちょっと弱いかも」
ふたりは双子のように仲がいい。
お昼はいっしょにごはんを食べてるみたいだし、休みの日にも買い物に行ってるみたいだし。
昔と変わらずに仲がいいのは、とても――。
「先輩も、そう思いますよねっ」
ぼーっとしていたら、柚木さんから急に話題をふられた。
「えっと、何が?」
「逢理先生のことです。先生、可愛いですよね」
「あ、ああ。そうだね」
空手部の話をしてたんじゃなかったっけ? なんで高杉先生の可愛さについて聞いてるの?
「にい、さっきからぼけっとしすぎ。ほんとに老化しちゃったの?」
「してねえよ」
比奈子に突っ込みを入れると、ふたりが声を出して笑った。
「あいりちゃんって、木戸先生と本当に付き合ってるのかね」
「どうなんだろうね。先生は、付き合ってないって言ってたけど」
木戸先生は、高杉先生との仲を度々噂にされている若い先生だな。
三年生のどこかのクラスの担任の先生だった気がするけど、忘れたな。
「でも、ふたりでごはんを食べに行ったりするんでしょ。それだったら、もう付き合ってるようなもんじゃない?」
「うん。なんかね、逢理先生から聞いた話だと、ふたりでごはんを食べに行ってないんだって。生徒のだれかが、勝手に流した噂なんじゃないかって、言ってたけど」
「そうなの? なんだぁ」
比奈子がカウンターへ崩れる。
木戸先生が文研の部室へ来たことは、何度かあったな。
「にいは、なんか知らないの? 文研でずっといっしょなんでしょ」
「なんか知らないのって言われてもなあ。先生の恋バナなんて、聞いたこともないし」
「でも、なんかさあ、あるじゃん! 部活中に、あいりちゃんがスマホを熱心にいじってた、とか、急に部室を飛び出して、だれかと電話してた、とかさぁ」
「そんなことを言われてもな。先生のことを気にかけているわけじゃないし」
高杉先生は、生徒でもやらないような失敗を度々する人だから、どちらかというと、そちらの方が気にかかるんだけど。
「付き合ってるかどうかは知らないけど、俺が一年の頃に、木戸先生が部室へ来たことはあったよ」
比奈子と柚木さんのだらけた表情が一変する。
「えっ、なにそれ!?」
「やっぱり木戸先生と付き合ってるんですか!?」
比奈子はともかく、柚木さんに近づかれると緊張してしまう。
「部室へ来たって言っても、二、三回だよ。しかも職員会議の話だとか、マラソン大会の連絡なんかをしに来ただけっぽかったし」
「そんなの、わからないですよっ。うまく理由をつけて、逢理先生に会いに来たのかもしれないですしっ!」
「はっ、そっか。ことちゃん、頭いい!」
柚木さんの考えは否定できないけど、それは曲解なんじゃないかな。
「逢理先生と木戸先生って、やっぱり付き合ってるのかな」
「でも木戸先生って、久坂先生とも付き合ってるって、よく言われてるから。えっ、てことは、二股!?」
「逢理先生、二股かけられてるの!? うそっ」
久坂先生って、高杉先生といっしょにママさんバレーに出てた人じゃなかったっけ。
もう四十歳くらいの人だったから、二十代の木戸先生とは付き合わないだろ。
「木戸にまさかの二股疑惑が浮上するなんて、とんでもない発見ね」
「木戸先生って、かっこいい先生だなあって思ってたけど、他の先生と浮気してるんだね。そういうのは、わたしは嫌だな」
「うん。僕も」
何も悪くない木戸先生が誤解されているのは、なんだか可哀想だ。
「木戸先生が二股してるって、決まったわけじゃないんだから、嫌いになるのはちょっと可哀想じゃないかな」
「そうですけど」
「あの先生、生徒にも手を出してそうだからね。かっこいいけど、なんか信用できないんだよねぇ」
そうなのか? 凛々しくて生徒に優しい先生だったと思うけどな。
「ま、あいりちゃんを追求すれば、またなんか出てくるでしょ。明日に聞いてみよう」
「そうだねっ」
お前は明日も部室へ行くつもりなのか? 試験勉強の期間は早く家に帰りたいんだが。
テーブルへ置いていたカフェラテを口もとへ寄せた。
中の液体はぬるくて苦いものに変わっていた。




