第20話 試験前の比奈子とあいり先生
五月の中旬。一学期の中間試験がいよいよ近づいてきた。
試験はそれほど怖くない。試験よりも試験勉強の方が億劫かもしれない。
試験日の一週間前から試験の終了日まで、部活動は禁止されている。
それなのに、試験を一週間後に控えた俺たちは、文研の部室にいる。
「だからね、ストックホルム症候群の説明が、ここの文章で書かれてるの」
「ええっ、そうなの? こんなの全然わかんないよーっ」
文研の部室の机を四つつなげたテーブルの向かいに、柚木さんと比奈子が座っている。
ふたりとも現代文の教科書とノートを広げて、柚木さんが比奈子に勉強を教えている。
「ストックホルム症候群っていうのは、犯罪の被害に遭っている人が、長い間監禁されてると、事件の犯人に共感を持っちゃうことなんだよ」
「なにそれ。監禁されてる人が、犯人に共感なんてするわけないじゃん。この文章おかしいんじゃないの?」
「うん。だから、そうなっちゃう説明がね、この後の文章に書いてあるの」
一年生の現代文の授業の内容は、犯罪心理学に関する論文なんだな。
ストックホルム症候群って、スマートフォンで調べないとわからないような題材だぞ。比奈子に理解できるのか?
「あーっ、もうやだ! こんなのもうやってらんないよー!」
俺の対面の席に座る比奈子が、教科書とシャーペンを放り出した。
「うちの部室で勉強を教えてって言い出したのはお前だろ。柚木さんがお前に合わせてくれてるんだから、ちゃんと勉強しろよ」
ぴしゃりと窘めたら、比奈子がぶすっと頬を膨らませて睨んできた。
「いちいち、うるさいなー。にいのくせに」
「言っておくけど、ひなのためにわざわざ部室の鍵を開けたんだからな。ちゃんと勉強しなかったら、今日の晩飯は抜きだぞ」
「晩飯抜きって、にいにそんなことをする権利なんてないでしょ。ちょっと勉強ができるからって、調子に乗らないでよ」
「ひ、ひなちゃんっ!」
柚木さんがしどろもどろになって、俺と比奈子を制止する。
「柚木さんは、ひなのためにわざわざ部室に来てくれてるんだからな。ちゃんと勉強して帰れよ」
「むうっ。いちいち、ことちゃんの名前を出さないでよ。ばかにいっ」
比奈子が柚木さんに振り向いて、にこりと笑った。
「この人は甲斐性なしだから、ことちゃんがいないと、なんにもできないんだよ。かっこ悪いよねえ」
「もう、ひなちゃんってばぁ」
柚木さんが返答に困ってつぶやいた。
となりの島のテーブルから、キーボードを忙しく叩く音が聞こえてくる。
となりのテーブルには、四台のノートパソコンが置かれている。
「ええっ。線ってどうやって引いたらいいの!?」
そのうちの一台を占有して、絶賛悪戦苦闘なのは高杉先生だ。
「えっと、これかな。きゃっ、文字の色が変わっちゃったっ!」
先生は前のめりになって、パソコンの液晶画面に食いついている。
それを比奈子が冷たい目で眺めて、
「っていうかさあ、現国の先生がそこにいるんだから、先生に教えてもらえばいいじゃん」
「うん。そうだよね」
柚木さんも思わず苦笑した。
「あいりちゃん。僕に勉強を教えてよー」
「へっ、なに?」
比奈子の声に先生が顔を上げる。余裕のない表情が、なんとも教員らしくない。
「あいりちゃんは現国の先生でしょ。僕にもわかるように、ちょーっとだけ、勉強のコツを教えてほしいんだけどぅ」
「だめよ。試験の前にコツなんて教えたら、問題を教えちゃうことになるでしょ。宗形くんと柚木さんに教えてもらいなさいっ」
「ええーっ、いいでしょー。あいりちゃーん。ちょーっとだけ、だからぁ」
「もう、逢理先生って呼んでって、何度も言ってるのにぃ」
比奈子が、得意の甘えん坊作戦で先生にまとわりつく。
「っていうか、あいりちゃん。さっきから何してんの?」
「これ? 試験の解答用紙をつくってるのよ。パソコンで印刷するから」
「へえ。そうなんだぁ」
「あっ、見ちゃだめっ!」
先生が、はっとノートパソコンの画面を両手で隠した。比奈子が「ちっ」と舌打ちした。
柚木さんが首をかしげる。
「職員室に逢理先生のパソコンがありますよね。どうして、文研のパソコンをつかってるんですか?」
「職員室だと、集中して作業できないのよ。ここの方が作業しやすくって」
「えっ、そうなんですか? 職員室の方が集中できそうですけど」
「だって、職員室にいると斉藤先生とか、斉藤先生とかが見張ってくるから、作業しづらいんだもんっ」
斉藤先生は、一年生の学年主任の先生だったな。
うざい、くさい、きもいの三拍子の揃った先生だというのは、聞いたことがある。
比奈子が先生のとなりの席に座った。
「斉藤うざいよねー。廊下でしゃべってるだけで説教してくるし。休み時間だっつうの」
「そう! 先生だって、お手洗いの時間がちょっと長かっただけで説教してくるのよっ。一歩間違えたらセクハラよ」
「うわっ、やだー。超きもいんだけど」
「他にも、髪は染めるなとか、ジャージの色が派手だとか、朝の登校時間が遅いとか、もう、ほんとにうるさいの! なんとかしてほしいわっ」
よっぽどストレスが溜まってるんですね。先生の勢いの強さに、比奈子も引いてるし。
「それなら、文研のパソコンをつかうしかないですね」
柚木さんが俺を見て言った。
先生も申し訳なさそうに苦笑して、
「ごめんなさいね。文研のパソコンは、みんなが執筆するためのパソコンなのに、先生が勝手につかっちゃって」
「いいんですよ。うちで執筆してる人なんていませんし、そもそも四台もいりませんから」
「宗形くんは話がわかるから、いつも助かるわ。斉藤先生に見習ってほしいくらい」
そんな話を斉藤先生に聞かれたら、大目玉を食らいますよ。
「でも、うちのパソコンはネットにつながってないから、不便じゃないですか? ネットで調べ物ができないですし」
「そうよね。だけど、ネットにつなげる方法なんて、先生は知らないわ。どうしたらいいの?」
「家庭のパソコンだと、プロバイダーに加入すれば、インターネットに接続できるんですよね。でも、学校とかの教育機関だと違う方法で接続するんじゃないですかね」
「へえ、そうなんだぁ」
先生がぽかんと口を開けている。柚木さんと比奈子も茫然と俺を見ている。
「先生の自宅にも、パソコンがあるって言ってましたよね」
「え、ええ。あるわよ」
「インターネットにつなげるのに、手続きとかしませんでしたか?」
「さあ。どうだったかしら。パソコンを買ったときにインターネットに接続できたから、手続きなんてしてないと思うけど。なんかする必要があるの?」
パソコンを買ったときに、販売店でインターネットに加入したんだな。店員から説明を受けているはずなんだけど。
柚木さんも難しそうな顔をしていたので、
「柚木さんは知ってる?」
「いえっ。わたしは、全然」
顎の前に出した右手を忙しく振った。
「インターネットにつなげるのって、難しいんですか?」
「どうなんだろう。俺も詳しくないから、よくわからない。パソコン部の人に聞いてみたら、詳しい方法を知ってるかもね」
パソコン部の知り合いなんていない。部室に行ったら、話くらいは聞いてくれるのだろうか。
「パソコン部の人たちって、なんか怖そうです。パソコンのことを知らないと、すっごくバカにされそうだし」
「そんなことはないでしょ。聞いたらきっと優しく教えてくれるよ」
「そうなんですかね。なんか、すっごく難しい数式なんかをいっぱい言われそうで、そんなことをされたら、もう」
それは、パソコンやコンピュータ関連の人たちに対する偏見なんじゃないかな。
「さてと、先生はそろそろ職員室へ戻ろうかな」
先生が右手で腰を叩きながら立ち上がる。比奈子が先生の手をつかんだ。
「ええーっ、あいりちゃん、もう帰っちゃうの?」
「うん。だって、あんまり遅いと、ほら。斉藤先生がうるさいし」
「いいじゃん。もっといっしょに遊ぼうよぅ」
「こらこら。比奈子さんは試験勉強をやらないといけないんでしょ。うちの試験は難しいから、がんばらないと赤点になっちゃうわよぉ」
「ううっ。赤点は嫌だぁ」
比奈子が脱力して机にもたれる。
「先生。編集したデータをUSBメモリに移してください。うちに帰ってからも編集を続けるんですよね」
「あ、そうだったわっ。あやうく今日の仕事が無駄になるところだったわ」
先生が、本棚の上に置かれている保管庫からUSBメモリを取り出した。
「USBメモリを借りるときは、用紙に名前を書くんだよね?」
「そうです。借りる日付もいっしょに記載してください」
「わかったわ」
先生は、保管庫で四つ折りにされているUSBメモリの貸出用紙を取り出して、机に広げた。




