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第162話 柚木さんに読んでほしい

 あかつきのころ、書きつづけた小説が完成した。


 昨夜から、ほぼ休まずに書きつづけたから、身体が泥人形のように重い。


 ノートパソコンに倒れ込むように突っ伏す。ディスプレイに籠った熱が頬を温める。


 このまま睡魔にいざなわれたら、昼まで寝過ごしてしまいそうだ。


 身体に鞭を打ちくれて、カーテンをそっと開けた。


 三日月しかなかった夜空の彼方が、黄金色に輝いていた。


 こんな時間まで夜更かしをしたのは、何年ぶりだろうか。


 昨日から執筆に明け暮れて、なんとも言えない達成感がこみ上げていた。


 怪我の功名じゃないけども、これで少しは文研らしい活動の記録を残せたのかな。


 五時過ぎに布団に入って、結局、昼過ぎまで起床することはできなかった。


 体調不良を理由に学校を休んで、眠気の収まったころに推敲すいこうをはじめた。


 昨日はひたすら執筆していたから、文章のあらにまったく気づかなかった。


 誤字やわかりづらい文章を、夜の就寝する時間までつづけた。



  * * *



 そして、柚木さんにメールを送った。


『この間から書きつづけていた小説が書き終わったので、柚木さんに読んでほしいです。今日の放課後、文研の部室に来てください』


 柚木さんが来るかどうかは、わからない。いや、来ない可能性が高い。


 それでも、俺は賭けるしかない。


 放課後に部室へ行き、ノートパソコンをすぐに起動する。


 クラウドに保存しておいた小説のファイルをノートパソコンにコピーし、すぐに読めるようにしておく。


 これで準備は万端だ。


 空いている時間に小説を見直し、残っていた誤字をちょこちょこ直した。


 部室の鍵を開けて、三十分が経つ。柚木さんは、あらわれない。


 部室の扉と壁掛け時計を交互に眺めて、俺の口からため息が漏れた。


「やっぱり、だめだったか」


 こうなることは過分に予測できていた。


 時間を少し開けて、彼女の好きな小説で釣ろうという浅はかな考えで臨んだところで、彼女の気持ちを変えることなんて、できるはずがなかったのだ。


 ふられたんだ、俺は。


 視界が急に暗くなった気がする。文研の、いや俺の明るそうだった前途は、完全に閉ざされてしまったな。


 ノートパソコンにコピーした小説のファイルを見やる。


 デスクトップにフォルダごとコピーしたそれは、無常にたたずんでいる。


「がんばって小説を書いてみたけど、結局、意味はなかったんだな」


 このファイルは、放課後の終わる時間になったら消そう。


 それまで一応待って、柚木さんが来なかったら家に帰ろう。


 だれもいない部室が、とてつもなく広く感じる。


 午後の四時半が過ぎて、陽がだいぶ落ちてきている。今日の夕焼けは――。


 がたっと背後から音がして、俺は慌ててふりかえった。


 部室の扉が少し開いている。扉のガラスに黒い姿が映し出されている。


「柚木さん?」


 声をかけてみる。影は制止したままだった。


 柚木さんが来てくれたのか!? 心臓の鼓動が瞬間的に早くなった。


「先輩が、来いって言うから、仕方なく、来ただけですからっ」


 柚木さんのか細い声が聞こえる。


「メール、見てくれたんだね。嬉しいよ」


 机の前まで歩み寄る。部室の扉がゆっくりと開かれた。


 戸口に立つ柚木さんは、今にも消えてしまいそうだった。朝露のように。


「そこにいたら、小説が読めないから、中に入って」


 なるべく声を立てないように言う。


 柚木さんはうつむいたまま、しばらくじっとしていたが、とぼとぼとこちらへ歩いてきてくれた。


「柚木さんに読んでほしい小説は、これなんだ」


 柚木さんがパソコンの画面を見やる。


「このファイル、ですか」


「うん。そうだよ」


「前に書いていた、執事が主人公の小説ですか」


「いや、それは、つまらないから、やめちゃったんだ」


 書く小説を変えた理由を説明するのは、恥ずかしい。たまらずに頭を掻く。


「そうだったんですか」


 柚木さんがマウスを操作して、小説のファイルを開く。長い沈黙がまた部室を支配する。


 柚木さんは沈んだ表情のまま、静かに小説を読んでいる。


 デスクトップにあるファイルを開いたりするときだけ、かちゃかちゃっ、というマウスをクリックする音が部室に響いた。


 俺の本心を余すことなく小説に紡いだ。


 彼女が入部するときから、ずっと恋愛対象だと意識していたこと。しかし、恥ずかしくて、気持ちを切り出せなかったこと。


 自信がなかったから、ずっと曖昧にしていたことを、小説の主人公を通して伝える。


 実にまわりくどい方法だ。けれど、話すのでは、きっと伝わらないから、この小説にすべてを託すしかないんだ。


 長い沈黙が悠久までつづくのだと思った。柚木さんが、突然、


「ごめんなさい」


 そう、つぶやいた。


 それは、つまり、俺を恋愛対象と扱えないことを意味するものだった。


「そう、か」


 悔いはない。成功するとは、はなから考えていなかったのだから。


 だけど、なんだろうな。全身が砕け散りそうな感覚にふたたび陥っている自分がここにいる――。


「あっ、ち、ちがうんですっ!」


 今度は、慌てふためくような言い方だった。


「ちがう?」


「その、そういう意味でのごめんなさいではなくて、先輩に謝りたかったので」


 柚木さんは、かなり赤面していた。頬から耳たぶまで真っ赤だった。


「小説を読ませていただいて、やっと先輩の気持ちに気づきました。わたし、先輩のこと、まったくわかっていなかったんです。先輩が悩んでいるのに、全然気づいてあげられなくて、自分の気持ちを押し付けてばかりいました」


 少し早口だけど、柚木さんが俺に謝罪してくれる。


「わたし、きっと、余裕がなかったんです。焦って、その、嫌われるのが怖くて。うまくいかないのが、先輩のせいだって決めつけていました。こんなの、おかしいですよね」


「おかしくないよ。俺の態度が曖昧だったのが原因なんだから。今まで迷惑をかけて、ごめん」


 恥ずかしいけど、素直な言葉がするりと出た。


 柚木さんは、ずっとうつむいていた。身体を小さくしている姿は、赤子のようだ。


 だけど、部室の張りつめていた空気が穏やかになっていくことを俺は感じていた。


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