第16話 柚木さんの気持ちが気になる
帰りの電車は、岩袋の商店街に匹敵するくらいの乗客で埋め尽くされている。
満員電車の空気は、むせ返るように暑苦しい。
俺と柚木さんの座る席の前で、四十代のおばさんたちが、子どもと小学校の話題でげらげらと笑っていた。
電車に乗ってから、柚木さんとひと言も話していない。しゃべらないと、少し気まずい。
左の肩に、柚木さんの感触が伝わる。俺の心臓が飛び跳ねて、そのまま外へ飛び出しそうになる。
柚木さんは目を瞑って、俺に寄りかかっていた。
柚木さんも疲れてるんだな。
柚木さんの瞼から伸びる細長い睫毛。目もとの薄いメイクが、俺の心を惑わせる。
柚木さんの愛くるしい寝顔を、ずっと見ていたい。バレたら大変だけど。
最寄り駅に着くまで、俺も寝よう。
柚木さんに振動をあたえないように、俺はゆっくりと姿勢を直した。
* * *
帰りが遅くなることを伝えていたせいか、帰宅しても親から何も言われなかった。
二階へ上がり、部屋のベッドに飛び込む。
敷布団の柔らかい感触を全身に感じて、緊張の糸がようやく切れた。
「にい、入るよ」
後ろの扉の開く音がする。比奈子が部屋に入ってきたんだな。
「にいっ、今日はどうだった――って、めっちゃお疲れ?」
「悪いが、お前をかまってやる力はないぞ」
指先ひとつを動かすことすら億劫に感じる。こんなに疲れたのは、いつ以来だ。
「ことちゃんと、くたくたになるまで楽しんできたみたいね。よしよし」
俺は、顔だけを動かして比奈子の方を向いた。
「お前、用事があるなんて嘘だったんだろ。柚木さんも困ってたぞ」
「なんのこと? 僕知らなーいっ」
勉強机の椅子に座っていた比奈子が、椅子をくるくるとまわす。
「にいがついてたんだから、いいじゃん。で、どこでごはん食べてたのよ。恩人の僕に、包み隠さずに教えなさいっ」
「知るか。勝手に帰ったやつなんて、恩人でもなんでもない」
首を戻してそっぽ向くが、比奈子が後ろからまとわりついてきた。
比奈子の小さな顎が俺の首筋に当たる。
「いいじゃーん。ねえ、早く教えてよぅ」
「教えない。俺はもう寝るからな」
「ふふん。全部吐くまで、寝かせてあげないもん」
比奈子の細い指の感触が、俺の腹を襲う。比奈子がいきなり腹をくすぐって――。
「ば、ばかっ、やめろ!」
俺は比奈子の手をとって起きるしかなかった。
「ほんとに疲れてるんだから、やめろって。明日になったら話してやるから」
「何言ってるのよ。あんたはまだまだ若いんだから、ちょっとくらい無理したって、だいじょうぶでしょ」
「それ、母さんのよく言うやつだろ。真似してる、ばれたら怒られるぞ」
「にいがだらしないから悪いんでしょ。で、でっ、まずは、どこでごはんを食べてたのっ?」
比奈子がとなりに座って身体を寄せてくる。
「どこも何も、俺たちみたいな貧乏学生は、ラストくらいにしか行けないだろ?」
「岩袋のラストに行ったのね。まあ、いいんじゃない。で、ふたりでごはんを分け合っちゃったりしてっ、ふたりで、あーんとか、べたなことをやっちゃったの!?」
「するわけないだろ。柚木さんは大事な後輩なんだぞ。普通にごはんを食べて帰ってきただけだ」
お前は、さっきから何を考えてるんだ。
「でも、ふたりでごはんを食べてきたんだから、大きな進歩じゃん。よかったねっ」
「よかったねって、お前なあ」
「迷惑そうな顔してるけど、ことちゃんのこと、気になってるんでしょ。うりうりっ」
比奈子がひとさし指で俺の頬をつついてくる。微妙に痛いからやめてくれ。
「気になってるとか、そういうのは知らない。俺は、文研の先輩として、柚木さんに頼ってほしいと思っているだけだ」
「そのわりには、顔がまっ赤だけど」
「うるさいっ」
左手で叩こうとしたら、比奈子にひょいとかわされてしまった。
「んもう、僕に頼んでくれたら、なんでもしてあげるのに。ばかだねぇ」
比奈子が小悪魔らしさ全開の顔つきで嘲る。
「今日のデート、ことちゃんだって嫌がってなかったでしょ。にいがもっとぐいぐい行けば、ことちゃんと付き合えるんだよ。だから、もっとがんばりなって」
柚木さんは、たしかに嫌がっていなかったけど――いや、待て待てっ。
「いやだから、付き合うとか、そういうのはお互いに考えていないんだから、もっと行くも何もないだろ」
「ええーっ、なにその考え。超つまんなーい」
比奈子が向こうの椅子へ戻った。椅子をまたぐるぐると水平にまわして、首を何度かひねって、
「じゃあ聞くけど、ことちゃんが他の人と付き合ってもいいの?」
俺の胸の真ん中に、鋭く尖った刃を刺し込んでくる。
「ことちゃんが他の人と手をつないで、岩袋でデートしててもいいの? そんなの見たら、僕はショックだけどなあ」
それは、俺もショックだ。考えたくもない。
「女子の考えはころころ変わるからね。気をつけた方がいいよ。ことちゃんも、今は思い出補正がたっぷりかかってるから、他の男子よりもにいを優先してくれるけど、そんなの時間が経ったらなくなっちゃうんだよ。それまでに手を打たなかったら、ことちゃんの気持ちはどこかに行っちゃうよ」
そうなのか? 思い出の力が有限だったなんて、学校で習っていないぞ。
「ことちゃんは可愛いから、クラスでもてると思うよ。もしかしたら、クラスで気になってる人がいるかもしれないし。その人がマジになったら、にいはきっと勝てないよ。にいはそういうの弱そうだから」
比奈子の鋭い指摘の数々に、俺はぐうの音も出ない。
柚木さんが他の人と付き合っているのは、嫌だ。
柚木さんに彼氏ができたら、俺のことなんて相手にもしてくれないんだろうな。
そんなことを思うと、胸に突然開いた傷がどんどん広がって苦しかった。
「僕が言いたかったのは、そういうこと。にいは呑気だから、早めに警告を出してあげたんだからね。じゃ、話はもう終わり。おやすみっ」
比奈子がそっぽを向いて、部屋から出ていった。突然に訪れた静寂に、俺は言葉が出ない。
比奈子は、俺たちの関係をそこまで深く考えていたんだな。
ベッドに倒れ込む。天井を見上げると、柚木さんの寝顔が思い浮かんだ。
――女子の考えはころころ変わるからね。気をつけた方がいいよ。
柚木さんの考えは、俺にはわからない。先輩として見ているのか。それとも異性として見ているのか。
先輩としか見られていないんだったら、ショックだ。
ショックなのか? 俺はただの先輩で、彼女は後輩。それだけの間柄じゃないのか?
一度考え出すと、自分の気持ちがわからなくなってきた。枕を抱きながら、二、三回、無駄に寝返りを打った。