第156話 いっしょに落ち込んでくれる人
「にい」
思いがけない声がかかって、心臓が胸から飛び出しそうになった。
力なく振り返ると、校舎の陰に比奈子の姿があった。となりには四橋さんもいる。
比奈子は、しょんぼりと肩を落としていた。普段の快活さと覇気は見る影もない。
四橋さんは俺と比奈子を見比べて、少しそわそわしていた。
「さっきから、そこで見てたのか」
比奈子が浅くうなずく。いたずらをして怒られている子どものように。
告白する姿を覗き見されて、いつもなら怒りの感情が沸いてくるはずだった。
しかし、今は怒りがまったく沸いてこない。覗き見されていたことなんて、もはやどうでもよかった。
比奈子がとぼとぼと歩み寄ってくる。強い風が一回でも吹いたら、校庭の彼方まで吹き飛ばされてしまいそうだ。
「にい、ごめん。僕、僕……」
弱弱しい比奈子の口元が、うじうじと小さく動いた。
つぶらな瞳から一筋の雫が流れ落ちる。静かな表情がくしゃっとつぶれて、涙がとめどなく流れはじめて――。
「ひなっ」
俺の足がまた急に力を得ていた。泣き崩れる比奈子の身体を全身で受け止める。
「にい、ごめんなさい。ごめんなさいっ」
「お前のせいじゃない。お前は、何も悪くないっ」
比奈子は、俺の胸の中で何度も懺悔していた。四橋さんもつられて涙を流す。
俺はどうすることもできず、わんわんと泣く比奈子の肩を抱きしめるしかなかった。
* * *
四橋さんを教室へ帰して、俺は比奈子と二時過ぎまで近くのベンチでたたずんでいた。
好きだった子にふられて、午後の授業なんて受ける気になれない。
比奈子も泣き止みはしたけれど、大泣きしたせいで目もとが赤く腫れあがっていたから、午後の授業を受けられる状態ではなかった。
比奈子の鼻をすする音を聞きながら、昼下がりの空を呆然と見上げる。
だれも通らない学校の裏庭にあるのは、静寂だけ。ゆるやかな空気の流れが、傷ついた心をそっと癒してくれる。
今日は何もする気が起きないから、ここでじっとしていたい。
だけど三時を過ぎれば、生徒たちが校舎から出てくる。それは微妙に気まずいな。
「ひな。ここにいたら、先生とかに見られるかもしれないから、とりあえず学校を出ようぜ」
比奈子は両手をにぎりしめたままだったが、
「なんで、にいは平気なの」
少しの間を置いて、そう訊ねてきた。
「平気って、何がだよ」
「ことちゃんのことっ。ことちゃんにふられたのに、なんでそんな冷静でいられるの!?」
俺は平気じゃないし、大して冷静でもないんだけどな。
でも、比奈子に不審がられているから、今の気持ちの整理をしなければ。
俺は右手で頭を掻いた。
「別に平気じゃないし、めちゃへこんでるんだけどな。でも、そうだな。言われてみれば、気持ちはわりと冷静かもしれない」
比奈子が真剣な面持ちで俺を見上げている。
「ふられた直後は、立ちくらみが起きそうな感じだったけど、今はそうでもない。それは、たぶん、お前のお陰なんだと思う」
「僕の、お陰?」
「ああ。お前がさっき、俺の分まで泣いてくれたから、なんというか、悲しさに耐えることができたんだ。ああ、だめだったんだなって、現実を静かに受け入れられたんだと思う」
自分の心境がよくわからないから、思いつく限りのことをしゃべってみる。
こんな理論のかけらもない意見で、比奈子が納得するとは思えないが。
「なによ、それっ。意味わかんない」
比奈子がへそを曲げるように言った。
「仕方ないだろ。好きな人にふられたことなんてないんだし、俺だって、今の気持ちがよくわからないんだから」
諦めるように言い返すと、比奈子は途端に悲しげに、
「そうだよね。にいにとっても、ことちゃんは大事な人だったんだもんね。そんな人にふられて、気持ちの整理なんてできないよね」
俺の言葉を静かに受け入れてくれた。
「すまないな。頼りない兄貴で」
「ううん。僕の方こそ、変なこと言って、ごめん」
立ち上がって、ぐっと伸びをする。今日は暖かいから、夜まで外にいてもだいじょうぶそうだ。
「じゃ、とりあえず学校の外に出ようぜ。ここにいたら、先生とかに見つかりそうだから」
「うん。あ、かばん」
「かばんなんて、一日くらい学校に置いていってもいいだろ。財布とスマホはポケットに入ってるんだろ?」
「うん」
重い足を引きずって、学校の裏門に向かう。比奈子が静かについてくる。
「学校、さぼるんだ」
「ああ。こんな気持ちで、授業なんて受けられないだろ」
「うん。そうだけど」
そうだけど、なんだよ?
「僕はともかく、真面目なにいが学校をさぼるのって、なんか変だなって、思って」
比奈子が少し呆れるように苦笑した。
「そうか? 俺は真面目じゃないし、授業なんて、毎日さぼりたいって思ってるんだけどな」
「そうなの? そういう風には全然見えないけど」
「それは如月や艸加にもよく言われるよ」
俺はまったく真面目じゃないのに、どうして他人からそう思われるのだろうか。
部長にも、事あるごとに真面目だと呆れられていた気がする。
「なんだろう。なんとなく真面目に見えるのかな」
落ち葉を踏みしめながら、学校の裏道を歩く。
「俺は自分から羽目を外すタイプじゃないし、学校の授業も一応さぼらずに受けているから、なんとなく真面目に見えるのかもしれない」
「ふうん」
「内心では、学校の授業なんてかったるいし、羽目を外せないのだって、変なことをして問題が起きたら怖いと思ってるだけだから、やはり本質的には真面目じゃないと思うぞ、俺は」
なんで、俺が真面目かどうかを真剣に語っているのだろうか。腕組みして考えてしまう。
比奈子が俺のとなりまで歩み寄って、
「そういう、どうでもいいことをいちいち考えるから、真面目だって思われるんじゃないの?」
俺の意見に真面目に反論する。
「そうなのか?」
「そうでしょ。他の人だって、そう言ってるでしょ?」
「そうだな。部長には、よく言われてるかもしれない」
「ほら、やっぱり」
比奈子が「えっへん」と胸を張った。
「じゃあ、俺のくだらない話にいちいち付き合ってるお前も、実は真面目なのかもな」
「はあ? なにそれ。にいといっしょにしないでほしいんですけどっ」
「嫌なのか? いっしょじゃあ」
「嫌に決まってるでしょ。なにそのシスコン体質。きもいから、いい加減に卒業してほしいんだけど」
比奈子がいつものように悪口を言う。そして、くすりと笑った。