第149話 柚木さんから避けられている
「柚木さんにお会いして、お気持ちを確かめるしかありませんわね」
その日の昼休み。穏やかな教室で有栖川が言った。
昼休みの教室は生徒が少ないから、静かで居心地がいい。
教室のすみから注がれる、如月と艸加の意味ありげな視線が気になるけど。
「そうだよね。やっぱり、それしかない」
「わたくしたちで話していても、結論を導き出すことはできないのですから、宗形くんから彼女を説得するしかありませんわ」
有栖川の強い言葉に、唇をかみしめる。
有栖川が首をかしげた。
「何か、問題でもおありですの?」
「うん。実は、前に彼女に電話したんだけど、電話に出てくれないんだ」
「そうだったのですか」
「その後にメールも送ってみたんだけど、返信がないんだ。だから困ってるんだ」
「それは難儀ですわね」
有栖川が机に視線を戻して考え込む。
「なんで応答してくれないんだろう」
「それは、わたくしにもわかりませんわ」
「彼女にひどいことをしていないつもりだったんだけど。嫌われちゃったのかな」
「そんなことはありませんわ。きっと、他に理由があるのだと思いますわ」
嫌っていないのに、俺を避ける理由があるのだろうか。
「そのときはタイミングが合わなくて、電話やメールの返信を忘れておられるとか」
「それは有り得るね。だけど、何度も電話とかメールをしたら、返事を催促しているようで、嫌な気がしない?」
「そうですわね。わたくしは、電話やメールをまめにする性格ではありませんから、何度も電話されたりすると、気まずくなって逆に避けたくなりますわ」
有栖川は電話やメールをまめにしないタイプなのか。言われてみれば、そんな気がする。
「柚木さんは、どのような性格なのですか?」
「どのような? 電話やメールをまめにするかどうかってこと?」
「ええ」
「どうだろう。俺も電話やメールをまめにするタイプじゃないから、柚木さんと頻繁に電話やメールをしてるわけじゃないし。でも、あの子は、普通に電話やメールをするタイプなんじゃないかな」
比奈子なんかは、柚木さんと毎日のようにメールして、休みの日にもタイミングが合えば、よく会っていると言っていた。
それを踏まえると、俺に返事をしてくれないのは、やはり嫌われたのか、それとも気まずいからなのか、どちらかしかないように思える。
「月曜日から立て続けに部活を休んじゃったから、気まずいだけなのかもしれないね」
「そうかもしれませんわね。どのような理由があったにせよ、一身上の理由で部活を休んでしまったことに変わりはないのですから」
有栖川って、やっぱり堅いやつだ。一身上の理由なんて言葉をつかう人は、今まで見たことがない。
「それでしたら、後輩を優しくフォローして差し上げなければいけませんわね」
「そうだね。しかし、困ったな。電話に出てくれないし、メールも返してくれないから、フォローのしようがないよ」
「そうでしたわね」
有栖川が小さい顎に手を当てる。気品のあふれる仕草で。
「それでしたら、直接にお会いになられるか、返事が来るまで待つしかありませんわ」
「待つのは嫌だから、まずは直接に会って話がしたいな。でも、部室にはきっと来てくれないから、一年一組の教室に行くしかないのかな」
「それしかありませんわ。彼女が帰宅する前に急いで向かえば、お会いすることはできるのではないですか?」
放課後に一年一組の教室に行って、柚木さんを説得するのか。
かなり大胆な作戦だ。たくさんの一年生に見られるから、できるかぎり実行したくはないけれど。
しかし、他にこれといった方法はない。わがままなことを言っていられる状況じゃないよな。
帰りのホームルームが終わって、俺は席を立った。
有栖川が、寂しげに眺めている気がした。
チャイムが鳴っているうちに、一年生の教室がある廊下へ行った方がよいかもしれない。
三階の廊下には、帰宅する生徒たちの顔がすでにあった。
彼らとすれ違いながら階段を駆け上がる。
四階の廊下もたくさんの生徒であふれ返っている。
一年生の着る新品だった制服のあちこちに、しわや砂埃がついている。
水場のそばでうろうろしていると、ツインテールの髪を揺らしながら歩いてくる女子生徒が四組の教室から歩いてきた。
比奈子だ。あいつは背が小さいのに、廊下を歩いているだけでひと際目立つな。
妹に見とれている場合じゃない。水を飲むふりをして、比奈子が通りすぎるのを待った。
比奈子は俺に気づかずに、四階の廊下を下りていった。これから部活に行くんだな。
一年生たちの訝しい視線を浴びながら、廊下で時間をもてあます。
柚木さんは、あらわれない。
もう帰っちゃったのかな。それなら、階段ですれ違ってもいいはずだけど。
それとも俺が見過ごしたのか。
いや、そんなはずはない。彼女は、きっとあらわれる。ここで気長に待っていれば――。
「先輩っ」
いた! かつてない衝撃に身体がすくみあがる。
「や、やあ」
まずい。声がふるえてる。気をしっかり保たないと。
柚木さんは、目を大きく見開いていた。左の肩にかけた鞄の紐に手を当てて、廊下の真ん中で立ち尽くしている。
「今日も部活をやるけど、柚木さんは帰るの?」
柚木さんは、答えない。少しうつむいて、口を堅く閉ざしていた。
今日も部室には来てくれないのか。どうして。
「体調がよくないの? それなら、仕方ないんだけど」
思いつく言葉をかけてみるけど、それでも柚木さんは口を開いてくれなかった。
どうして、いつもみたいに笑ってくれないんだ。
わからない。彼女に嫌われることをした覚えがない。
彼女を優先的に気遣ってきたはずなのに。
柚木さんが頭をさらに下げて、俺に近づいてきた。
いや、俺に近づきたいんじゃない。邪魔な先輩の脇を通り抜けようとして――。
「待ってっ」
「いやっ」
彼女の腕をつかんだら、ものすごい力で振り払われた。彼女が毛嫌いする村田と同じ扱いだ。
かつてないほどの気まずい空気に、背筋から冷や汗が流れる。
帰宅する生徒たちが、迷惑そうな顔をしながら、俺と柚木さんの脇を通り抜けていった。
俺は事実の大半を悟った。
柚木さんが眦を上げる。
その様子は、何日か前から喧嘩している親や兄弟に向けているものと変わらなかった。
「今さら、なにしに来たんですか。先輩にはきれいな彼女がいるんですから、その人と仲良くしていればいいじゃないですか」
俺の、きれいな彼女?
「だれ、それ」
「とぼけないでください。漫研の副部長ですよね。あの人。たしか、有栖川先輩っていう」
有栖川が、俺の彼女?
きみは、いったい何を言ってるんだ。
「球技大会のとき、楽しそうにおしゃべりしてましたよね。球技大会の後にもいっしょに帰宅してたみたいですし」
それは事実だ。しかし、だからといって、それだけで俺と有栖川が付き合ってることにはならない。
「それで、俺と有栖川が付き合ってるっていうの? え、なにそれ」
柚木さんの怒りは、尋常ではなかった。虎をも射殺しそうなその視線は、俺の身体の一点を貫いて、背後の廊下に縫い付けようとしていた。
「わたし、今日も用事がありますから」
柚木さんが肩にかけた鞄をかけ直す。
冷然と向けられた背中は、突然の決別を俺に突き付けているようだった。
まわりの生徒たちが、訝しい目で俺を見ているような気がする。しかし、そんなことに胸を痛める余裕はなかった。