第131話 比奈子のきつい尋問
お嬢様と仲良くしてあげてください、か。
有栖川の寂しげな姿が脳裏に浮かぶ。
夕陽の落ちた空に、紺と橙の鮮やかなグラデーションが描かれている。
エアブラシで描かれたような色の透明感に、つい見とれてしまう。
小間市駅から商店街へつづく道を歩く。
俺の脇を、白の軽自動車やセダンが通り過ぎていった。
宿命じみた何かを胸に秘めながら帰宅したのに、
「遅い!」
何も知らない比奈子に、夕食の並ぶダイニングで開口一番に叱咤されてしまった。
「遅くはないだろ。夕飯の時間までに帰ってきたんだから」
「帰ってきた時間のことを言ってるんじゃないの」
じゃあ、なんのことを言ってるんだ。俺には理解できないぞ。
今晩の夕食は、焼き鮭ともやしの野菜炒めという、手抜き――じゃなくて、定番だけど安くて健康的な献立だった。
味噌汁と大根の煮物もついている。
野菜炒めを取り皿にとっていただく。
キャベツやピーマンといっしょに炒められたもやしは、醤油と胡椒だけの薄い味付けしかされていない。
焼き鮭も塩味が少し強いだけの、いつも通りのものだ。
取り立てるほどの特徴はないけれど、長年かけて舌に馴染んだ味わいは、心に平穏をもたらせてくれる。
いつもだったら、このおかずに箸を伸ばしながら、茶碗を持ってご飯を掻き込んでるんだろうな。
それなのに、どうしてかな。今晩は箸が素直に伸びてくれない。
「じゃあ聞くけど、どこで何してたのよ」
比奈子が追及する気で満々な目で睨んでくる。
「どこで何していようが、俺の勝手だろ」
「勝手じゃないっ。今日どこに行ってたのか、僕に教えなさいよ」
怒る寸前の顔で言われると、非常に話しづらいんだが。
ご飯の残っている茶碗を置いて、味噌汁をすする。比奈子が「もうっ」と声を荒げた。
「朝から鏡の前で準備して、鼻の下を伸ばしながら出かけていくんだもん。絶対にいやらしいことしてるじゃんっ」
「いやらしいことなんてしてねえよっ」
「してる! にいの考えなんて、全部お見通しなんだからねっ」
有栖川のうちに行っただけだから、いやらしいことは断じてしていないのだ。
「ことちゃんにメールしても、知らないって言うしさ。にいが今日何をしてたのか、ずっと気になってたんだから。僕たちの知らないところで、変なことしないでよね」
俺が、いつどこでだれと遊びに行こうが勝手なのに、俺に自由はないんだな。
しかし、反論すれば火に油を注ぐだけなので、大根の煮物を無言で噛んでいるのに、
「で、あの紙袋はなに?」
比奈子が、俺の触れられたくないところを正確に突いてくる。
「あれは、ええと、もらったんだ」
「だれから?」
「だれから? だれからって、あれだよ。友達だよ」
言い訳がとっさに思いつかず、声が上ずってしまう。
いや、言い訳ってなんだよ。言い訳なんて、する必要ないじゃんか。
「なんか、思いっきり焦ってますけど」
「焦ってねえよ」
比奈子の不快感の丸出しな顔が、正面に屹立していた。
「正直に話してたら、そんなに上ずらないでしょ」
「そんなことはない。何があったのか説明しろと、急に言われたんだから、焦ったり上ずったりするだろ」
「説明する時間が必要なの? それなら、説明が終わるまで、待ってあげようか?」
こいつ、なんとしても今日のことを俺から聞き出すつもりだ。
「僕に説明する文章の整理はついた?」
「いや。そんなすぐに整理できるわけないだろ」
「できるでしょ。にい、それでも文研の副部長なの?」
う。ぐさりと胸に突き刺さるようなことを言いやがって。
こいつの相手をするのがだんだん面倒になってきた。
「いいから、早く飯を食えよ。飯が冷めちまうぞ」
「ああっ! 話を逸らそうとしてるっ。にい、ずるい!」
「うるさいっ! 食事の最中なんだから、おとなしく食べなさいっ」
「いいんだいいんだ。今日のこと、ことちゃんに言いつけてやるからっ」
くっ、比奈子め。なんて可愛くない妹だ。
兄のことを思って、そっとしておいてくれよ。
味噌汁を胃に流し込んで、逃げるように部屋へ引き上げる。
いや、逃げるように引き上げてなんかいない。夕食を終えたから、部屋に戻るという必然的な行動をとっただけだ。
勉強机の椅子を引いても落ち着かず、ベッドに寝転んでも焦る気持ちを静めることができない。
衣装ケースからパジャマを取り出して、一階の風呂場へ下りた。
「ひなのやつ、柚木さんに言いつけるって言ってたな」
身体を洗い流して湯船に浸かる。バスタブに身体を預けていると、今日の疲れが少しずつ消えていく気がする。
今日のことを柚木さんに知られたら、まずい気がする。
今のうちに比奈子に口止めすべきか?
いや、疚しいことなんて何もしていないのだから、堂々としていればいいのだ。
有栖川のうちは、すごかった。
東京ドーム二個分の広さを持つ庭園と、ヨーロッパの貴族が住んでいそうな豪邸。その屋敷に仕える、数十人の使用人たち。
有栖川は、プロの料理人がつくった絶品を毎日いただいて、午後の三時にはお母様と優雅なティータイムを過ごしている。
俺たち庶民のだれもが羨むセレブな生活だ。けど、実際にあんな生活を続けたら、ものすごく疲れるんじゃないか?
でも、有栖川はあそこにずっと住んでるのだから、あそこが心の落ち着く場所なのかもしれない。
「こんなことを考えたって、わかんねえよな」
セレブの考えなんて、庶民にはわからない。俺は身体を起こした。
そういえば、小説の原案がまだまとまっていないんだった。そろそろまとめて執筆したいな。
風呂から出て籠からバスタオルを取り出す。風呂上りに肌寒さを感じる季節になってきた。