第125話 イケメン執事の瀬場さん登場
刺激も特別なこともない日にちが過ぎていく。
そして、有栖川と約束した日曜日。
眠りから覚めて、真っ暗闇の扉が前後に開け放たれる。
カーテンで隠された室内は、朝暘で照らされている。今朝もよく晴れていそうだ。
枕元に置いている目覚まし時計を見やる。六時三十三分か。
有栖川と約束した時間は、昼の十二時三十分だ。
目覚まし時計のアラームの鳴動時間を十時に設定し、腰にくるまっている掛け布団を掛け直す。
有栖川は、なんで急に会おうと言い出したんだ? ふたりで遊ぶほど親しくないのに。
今日の予定はわからないことだらけだ。そのせいか、余計に緊張してしまう。
眠るのは、もう無理だ。
喉が渇いたから、一階へ降りて牛乳でも飲もう。
身体を起こしてぐっと伸びをする。
カーテンを勢いよく開けたら、強い日差しが光線のように目元に直撃した。
* * *
頭頂部の左側にできている寝癖を入念に直し、買ってから一度しか袖を通していないシャツを羽織る。
下半身には小ぎれいなベージュのパンツを用意する。
鏡の前でコーディネイトが間違っていないことを確認したから、問題は何もないはずだ。
今日は出かける用事があると比奈子に言ったら、あいつは疑いの目を容赦なく向けてきたけど、日曜日にたまに用事ができたっていいじゃないか。
そう言ったところで、あいつは全然納得していなかったけれど。
お昼前の人通りの少ない道を歩いて、小間市駅に到着した。
待ち合わせ時間の十分前に到着したぞ。
しかし、駅の改札や切符売り場のそばに有栖川の姿はない。
駅にいるのは、小学生くらいのうるさい男子たちの集団に、知らない学校の制服を着た女子高生。そして、スーツ姿のサラリーマンだけか。
まだ待ち合わせ時間になっていないから、あいつは来ていないのかな。
スマートフォンをズボンのポケットから取り出して時計を見やる。
待ち合わせ時間に近づいていく度に緊張が増していく。
しかし、約束の時間をすぎても有栖川はあらわれない。
さらに十分ほど待ってみるけど、有栖川の姿はどこにも見当たらない。
おかしいな。約束の日にちを間違えたか?
いや、有栖川は今週の日曜日に待ち合わせをしようと言っていた。
そうすると次に考えられるのが、有栖川の遅刻?
あの真面目で融通の利かなそうな有栖川が遅刻するとは思えないけど。そう考えると、遅刻の線も可能性は低い。
これ以上は考えても答えなんて見つからなそうだ。有栖川にさっさと連絡してしまおう。
スマートフォンのメーラを起動して、メールの本文を適当に打ち込む。
有栖川にメールを送信して返事を待つ。
メールの返信は意外と早かった。逸る気持ちを抑えて受信メールを開封すると、
『駅に迎えを待たせているのですが、連絡が行き届いていないのかもしれませんわ。申し訳ありません』
駅に迎えを待たせている? あいつのお母さん――いやお母様が迎えに来るのか?
駅を出て駅前のロータリーを見回す。巴山へ向かうバスやタクシーが停車している。
バスの停留所の向こうには、パープルの軽自動車や黒光りする高級外車が停車していた。
その高級外車の近くから、ダーク系のスーツに身を包んでいる男性が歩いてきた。
堕天使のような漆黒の髪を生やした男性だった。
男の派手なダンスユニットのメンバーがかけていそうなサングラスで、目元を隠している。
背はすらりと高い。百八十センチ以上は優にありそうだ。髪やスーツに反して肌は白く、少し病的な色合いだ。
暗くて闇の深そうな空気を辺りに放っている。
近寄りがたい堕天使が、こちらへ近づいてくる。すかさず目を逸らす。
それなのに、堕天使な人が俺の目の前で、ぴたりと停止したよ。身体を完全に俺へ向けてるし。
右手に持っているシルバーのガラケー――ガラパゴス・ケータイと俺を何度か見比べて、
「恐れ入りますが、宗形様でいらっしゃいますか?」
コントラバスのような渋い声で俺を誰何した。
「あ、はい。そうです」
「やはりそうでしたか。挨拶が遅れてしまいました。申し訳ございません」
黒スーツに身を包んだ男性が優雅な仕草でサングラスを取り外す。
目鼻立ちの整ったイケメンじゃないすか。
男性が、気を付けの姿勢から頭をまっすぐに下げる。
両足の踵をつけて、背筋がぴんと伸びた、姿勢のお手本のような一礼だ。
「私は瀬場と申します。有栖川家に仕える執事でございます」
し、執事!? リアルで執事の職に就いている人って、いるんですか!?
言われてみれば、瀬場さんはとても執事っぽい。
小ぎれいな背広に蝶ネクタイをつけて、よく磨かれた革靴は艶があってかっこいい。
瀬場さんが名刺を差し出してくれた。
「お嬢様が自宅でお待ちです。あちらの車にお乗りください」
「はあ」
イタリアで生産していそうな名刺の真ん中には、「瀬場優」と名前が明朝体で書かれている。左下の「国際執事協会」という文言が目につく。
有栖川家に執事が仕えているなんて、聞いたことがないが、
「わかりました。よろしくお願いします」
瀬場さんを信用してみることにしよう。
瀬場さんがにこりと、女性向けの漫画やアニメに出そうな美男子のように微笑んだ。
「宗形様は、お嬢様の同級生なんですね」
「あ、はい。そうです」
瀬場さんが高級外車のリアドアを開けてくれる。
「あの、つかぬことを聞くんですけど、有栖川のうちって金持ちなんですか?」
瀬場さんが運転席へ乗り込みながら、「はは」とまた微笑して、
「有栖川財団は日本でも有数の財閥でございますから」
日常生活で絶対に使わない単語をさらりと言いのけた。
財閥って、明治時代かなんかの話ですか。
「有栖川のうちが金持ちだという噂は聞いたことがあったんですけど、執事の方が働いているなんて知りませんでした」
「お嬢様は口のとても堅いお方でございますから。プロの執事も日本で少ないですからね」
車が音を立てずに出発する。本革のシートは手触りが滑らかだ。
うちの車のシートでは比べ物にならない。
小間市駅の見慣れた風景を窓越しに眺めていると、
「日本ではあまり知られていませんが、海外には執事の養成学校があるんですよ」
瀬場さんがハンドルを優雅に操作しながら言った。
「そうなんですか?」
「ええ。プロの執事を育てる教育機関です。日本にはありませんが、イギリスやオランダなど、英語圏の国々で主に執事の養成学校があるんです」
それは知らなかった。この雑学は明日から使えるぞ。
「では、瀬場さんは海外の執事の養成学校を卒業されたんですか?」
「はい。授業についていくのも大変でしたが、何よりも普段の会話で英語を使うので、英会話の習得が一番苦労しました」
執事さんも英語の勉強には苦労してるんだ。部長に聞かせたら喜びそうだな。
「英語、難しいですよね」
「宗形様も英語は苦手ですか?」
「ええ。英語のリスニングがすごい苦手で、何回聞いても理解できないんです」
しゃべり方が微妙にうつってしまった。
けれど、瀬場さんは気に留めずにまた微笑して、
「普段から英語に慣れ親しんでいれば、リスニングは簡単なんですけどね。宗形様のお気持ち、とてもよくわかります」
優しい言葉で同意してくれた。