第120話 柚木さんはやっぱり可愛い
「小説を考えるのって、難しいですね」
俺のとなりで柚木さんが言った。
「小説を書く人や読む人によって、このみが異なりますから。だれでも楽しめる小説が書けたら、苦労しないんですけど」
「そうだね。万人受けする小説が書ければいいんだけど、そんな小説はとても書けないし」
だれもが楽しめる小説を書きたい。
だけど、そんな夢のような小説を、どうやったら書けるのだろうか。
「面白い小説が書きたいけど、今日も思いつかないね。どうしよう」
「わたしは、先輩が書きたいものを書けばいいと思いますけど」
柚木さんが眉をひそめて言った。
「先輩の書く小説、わたしは好きです。先輩の小説にはこだわりがありますし、安心して読み進めることもできますから」
きみは、いつもそうやって俺を認めてくれる。
「もっと面白い小説を書きたいと思うのは、すごいことだと思います。けど、無理して小説を書かなくてもいいんじゃないですか。先輩には、小説を楽しく書いてほしいですから」
夏休みに小説を書いていたときも、柚木さんは同じことを言ってくれた。
俺を気遣ってくれるこの配慮が、人為的な演技によって行われているのだろうか。
「先輩?」
気づくと柚木さんが、困惑しながら俺を見ていた。顔を少し赤らめて。
「先輩、どうかしたんですか。わたし、なんか変なことを言いましたかっ」
目をきょろきょろさせて、まごつく姿を取り繕わないのが、すごく可愛い。
胸が瞬間的に跳ね上がり、胸の中にある何かが部室へ飛び出してしまいそうだった。
「いや、別にっ。つい、ぼーっとしちゃって」
電子レンジに入れたおにぎりのように、顔面が急速に温められる。俺は、とっさにうつむいた。
俺の耳元で、くすくすと忍び笑いする声が聞こえた。
「先輩も、ぼーっとすることがあるんですね。知りませんでしたっ」
「それはそうさ。考えがうまくまとまらないことだって、たくさんあるんだから」
「わたしはまた、先輩が難しいことを考えてるのかなって、思ってましたっ」
柚木さんが、からかうように言う。けれど、嫌らしさはまったく感じられない。
「またって、それじゃ俺が偏屈で気難しい人みたいじゃないか。全然そんな感じじゃないのに」
「遊園地で観覧車の話をしてた先輩は、ちょっと偏屈で気難しい感じがしましたけどねっ!」
「それは気のせいだよ。柚木さんの身の回りで、観覧車について深く洞察する人が今までにいなかったから、俺の考えが珍しく思えただけさ」
「わかりましたっ。では、そういうことにしておきます!」
柚木さんが声に出して笑った。
「遊園地の話をひなちゃんにしたら、ひなちゃんも笑ってましたよっ」
「あいつのことだから、俺を老害だとか、ぼけがはじまったって言ってたんでしょ」
「はい。そんな感じのことを言ってましたっ」
今日の柚木さんは上機嫌だ。
昨日は体調が悪かったせいか、身体がかなり重そうだったけど、今日は声のトーンが高い。
「ひなに馬鹿にされるのは、いつものことだからね。別に気にしないけど」
「それだけ先輩のことが好きなんですよ。ひなちゃんと遊ぶと、先輩の話ばかりしますからっ」
恥ずかしいから、俺の話はしないでほしいんだけどな。
「昨日借りたパソコンの本は読んだ?」
「パソコンの本、ですか?」
柚木さんが目を何度か瞬く。
「あっ、はい。少しだけ読んでみました。とてもわかりやすい本だなあって思いますっ」
柚木さんの目が、きょろきょろと左右に動いていた。
「そっか。それはよかった」
「パソコンは、まだ苦手のままですけど」
「すぐに克服はできないでしょ。ゆっくり勉強していけばいいんじゃないかな」
「はい。パソコンって、苦手意識がどうしても消えないので、向き合うのがつらいんです」
その気持ちはすごくよくわかる。ジェットコースターとか、超苦手だし。
「苦手意識を克服するのは大変だよね。俺も同じだし」
「先輩でも苦手なものがあるんですかっ?」
「もちろんあるよっ。だって、ほら。高いところが苦手だし」
「あ、そうでしたねっ」
柚木さんが口に手を当てて笑う。
「ジェットコースターに乗ってたとき、顔が真っ青でしたっ」
「そりゃそうさ。頼りないレールにつながってるだけの乗り物で、高いところを超高速で移動させられるんだから。一歩間違えたら死んじゃうんだよっ」
「ですから、絶対に死にませんって!」
「きみはわかってないな。遊園地ができたばかりだったら、まだマシだけど、古い遊園地でジェットコースターが老朽化していて、あの乗り物やレールの充分な点検ができていなかったら、俺たちは――」
文研の部員たちが会話を止めて、俺に目を向けていることに気づいた。
部員たちの視線が鋭くて、いたたまれない。咳払いでごまかした。
「つまりだ。苦手意識を克服するのは、とても難しいということさ。苦手なものや苦手な理由は人それぞれだけど、克服するためには、それ相応の努力と覚悟が要る。だから、すぐに克服できなくていいんだよ」
「はい。なんだか、すごく説得力のある言葉でしたっ」
「ああ、そう。それなら、いいんだけど」
わずかに馬鹿にされている気がするけど、わかってくれたのなら、いいや。
部室の後ろの扉が音を立てて開く。柚木さんと文研の部員たちが振り返る。
「おはようさん」
部長だ。部室に来るなんて、何日ぶりだろう。
部長は鞄を肩に下げて、眠そうに目をしょぼしょぼさせている。
「部長。お久しぶりです」
「あら、むなくんに柚木はん。ふたりとも元気、ではなさそやね」
部長が柚木さんの向かいの席に座る。彼女のマスクをつけた顔を見て、表情をわずかにくもらせた。
「日曜日に体調が急に悪くなりまして、風邪を引いちゃいました」
「今月になって、急に寒くなってきたからな。薄着でおると危ないな。でもマスクをつけて、みんなに風邪をうつさないようにしてるのは、偉いな」
「はいっ。学校に行くんだったら、マスクをつけなさいって、お母さんがうるさいので」
「ほほ。親なんて、どこのうちもそないなもんよ。うちかて、口を開けば、勉強しろ、勉強しろしか言わんさかい、ほんと、嫌になるわ」
部長が「はあ」と嘆息した。