第116話 ひさしぶりの柚木さんと図書室へ
十月の高い空を重苦しい雨雲が覆い尽くしている。透明の雫が校庭のグラウンドへ降り注いでいた。
廊下の窓から見上げる空は暗い。
ロールプレイングゲームだと、空の真ん中に異次元の扉が突然に出現して、魔界を統べる悪魔が現れそうな雰囲気だ。
「下らないことを考えてる場合じゃないか」
肩にかけている鞄から部室の鍵を取り出して、鍵穴に差し込む。
雨の日の部室は暗くて、空気がどんよりしている。陰鬱な空気が部室の机や床に圧し掛かっていた。
蛍光灯の人工的な光が、暗い部室を照らし出す。部室の片隅に、四台のノートパソコンが並べられている。
銀色のボディの角は表面の塗料が剥げて、プラスチックの白い素材が剥き出しになっていた。
一台のノートパソコンの席に座り、ノートパソコンを立ち上げる。
昨日は執筆が全然できなかったから、今日こそ小説を執筆したい。
でも、どんな小説を書けばいいのか。
文化祭で三国志と推理小説を書いたから、ファンタジー小説でも思い切って書いてみようか。
剣と魔法の世界で、主人公は伝説の勇者の血を引く男で、敵は魔王率いる魔王軍。
勇者は魔王軍と戦いながら、三種の神器を探して旅をする――これでは、内容がありきたりだ。
主人公は勇者じゃなくて魔道師にしようか。
世界を救うために最強の魔法を探す旅に出るとか――さっきの設定が少し変わっただけだな。
部室の扉が静かに音を立てる。開いた扉から、柚木さんが姿をあらわした。
柚木さんの顔の下半分が、薄いピンク色のマスクで覆われている。
「先輩、こんにちは」
柚木さんの目元が優しく微笑む。
「昨日はメールしてくださいまして、ありがとうございました」
「いや。そんな。風邪はまだ治ってないのかい?」
「はい。熱は下がったんですけど、喉がまだ痛いんです」
柚木さんの声は普段より小さいし、少しかすれている気がする。
「そうなんだ。それなら、無理しない方がいいんじゃない?」
「だいじょうぶです。病院に行ってお薬をもらいましたので、じっとしていれば問題ないですっ」
柚木さんが鞄を机に置いて、俺のとなりの席に座る。
ノートパソコンの液晶画面を覗き込む。
「先輩は何をしてるんですか?」
「小説を書きたくてパソコンを起動させたんだけど、小説の内容が思いつかないんだよ」
「そうだったんですか」
一年生や二年生の部員たちが部室へ入ってくる。
部室にいるのは、俺と柚木さんを含めて六人だ。
文化祭の前は十人くらいいたけど、部室が寂しくなっちゃったなあ。
三年生が実質的に引退しちゃったのが、大きく影響してるんだけども。
「小説の内容が思いつかないのでしたら、二次創作で書いてみたらどうですか?」
柚木さんがパソコンの画面を見ながら言う。
「二次創作?」
「はい。先輩の好きな小説や漫画のキャラや世界観を使って、小説を書くんです。キャラや設定を新しく考えなくていいので、簡単に小説が書けると思うんです」
二次創作か。それは考えていなかった。
「それはいいかもしれないね。題材があった方が書きやすいし」
「はいっ! くみちゃんが先輩に勧められて、二次創作で漫画を描いてるんです。自分の好きなキャラがたくさん描けて、楽しいって言ってましたっ」
くみちゃんというのは、漫研の四橋さんのことだったな。
「四橋さんは、漫画が描けるようになったんだね。それはよかった」
「今は二次創作ばっかり描いてますけど、そのうちにオリジナルの漫画も描いてみたいって、言ってましたっ」
「そっか。四橋さんに負けないように、俺もがんばらないとね」
「はいっ。がんばってください!」
柚木さんが爽やかに応援してくれる。
「柚木さんも、執筆してくれるかい?」
「わたしも、ですか」
柚木さんがノートパソコンを見つめる。
「パソコンで執筆するのが嫌だったら、ノートや原稿用紙を使って執筆すればいいんじゃないかな。小説の執筆って、本来はペンと紙で行うものなんだから、パソコンに執着しなくてもいいと思うんだけど」
「そう、ですよね」
パソコンを使用しないで済む代案を考えてみたけど、柚木さんの愁眉が開かない。
「先輩」
「なに?」
「先輩は、どうやってパソコンに詳しくなったんですか?」
俺はパソコンに詳しくなんてない。
柚木さんや文研の部員たちより、パソコンの扱いに慣れているだけだ。
「詳しくはないけど、柚木さんにアドバイスできることはあるかな。わからないことを知ってる人から教えてもらったり、参考書を図書館で借りたりしたかな」
「参考書、ですか」
「学校の図書室にもパソコンの参考書はあるよ。パソコンの電源のつけ方から、表計算ソフトやインターネットなんかの参考書もあったから、借りてみればいいんじゃないかな」
「そうですね」
「図書室に行ってみる?」
図書室を指すと、柚木さんが目をぱちくりさせた。
「あ、はい」
「熱が下がったばっかりだから、今日はやめとく?」
「いえ。体調はだいじょうぶなんですけど、先輩のお邪魔になりますから」
俺のことを気にしてたのか。今日はどうせ執筆できないから、気にしなくていいのに。
「俺のことは気にしなくていいよ。今日もどうせ執筆できないから」
「はい。では、お願いしてもいいですか?」
柚木さんといっしょに部室を後にする。
図書館の奥。歴史や経済の参考書が並ぶ本棚の後ろに、コンピュータ関連の書籍がずらりと並べられている。
「どうですか」
柚木さんのか細い声が、となりから聞こえる。
本棚の背表紙には、「TCP/IP」や「JSON」といったアルファベットが目立つ。
コンピュータの専門的な技術なんだろうけど、俺や柚木さんには必要のない知識だ。
「この辺の本は、コンピュータ技術の参考書だね。俺でもわかんないよ」
「先輩でも、わからないことがあるんですね」
「もちろんだよ。俺が知ってるのはパソコンの簡単な使い方だけだから。パソコン部の人たちは、もっと詳しいんだろうけどね」
「そうですよね。でも、パソコン部の人たちって、なんか話しかけづらいから嫌ですっ」
その気持ちはわかるかもしれない。パソコン部の加賀谷先輩も、かなり癖の強い人だったし。
柚木さんに合いそうな入門書を探す。
本棚を隈なく探して、「よくわかるパソコン入門」という背表紙が目についた。
本を手に取って、頁をぱらぱらとめくる。
パソコンの電源のつけ方からはじまり、タイピングの仕方やインターネットへ接続する方法が写真付きで掲載されている。
「この本なら、いいんじゃないかな」
参考書を柚木さんへ渡す。柚木さんが参考書を開く。
「はい。ありがとうございます」
「うちにはパソコンがあるんだっけ?」
「はい。お父さんのパソコンがありますので。夏休みも、お父さんのパソコンを借りて執筆してましたから」
「そうなんだ。それなら、お父さんのパソコンで練習できるね」
「はいっ」
柚木さんの目元が穏やかになった。