第115話 比奈子にごきげんよう
帰宅してからも、有栖川から受けた衝撃が離れなかった。
お嬢様で真面目で、天然で頑固。そして、少し隙のある女子。
あいつは、俺のイメージをはるかに超える、いろんな意味で規格外の女子だった。
クラスの男子をうちに誘うか? 部室の鍵を預かってもらったくらいで。
俺が下心を持って接近してきたら、あいつはどうするつもりなんだろうな。
「さっきから、なにぼーっとしてんの?」
自宅の正面の席で、比奈子が不審がる。白米のよそわれた茶碗を左手に持ちながら。
今日の晩飯は、冷凍餃子に野菜炒め。南瓜の煮物に味噌汁だ。
南瓜の煮物を、最低でも一切れは食べないと母さんから怒られるから、食べたくないけど取り皿へ乗せる。
南瓜の煮物を箸で切りながら、比奈子を見やる。
比奈子は、わざとらしく目を細めていた。
「ごきげんよう」
ぼそりとつぶやくと、比奈子が嫌悪で顔を歪めた。
「なに、その遊び。超きもいんだけど」
その言葉を聞きたかったんだよ。
「普通は、そういう反応になるよな」
「え、なんなの? 急に」
「いや、なんでもない」
「なんでもあるでしょ。ごきげんようって、なによ」
比奈子が顔を少し突き出してきた。
「うちのクラスにそういう口調で話す女子がいるんだよ」
「そうなの? にいに対して、ごきげんようって?」
「そうだよ。どこぞのお嬢様みたいだろ」
「お嬢様っていうか、貴婦人的な? どんだけ育ちがいいのよ」
お前も、俺とおんなじことを考えるんだな。
「詳しいことは知らないけど、いいとこ育ちのお嬢様なのは間違いないらしいぜ。その子と今日は日直だったんだけど、学級日誌を出すのは遅れちゃうし、ちょっと大変だったんだよ」
「だから、帰りが遅かったんだ」
比奈子が餃子を醤油皿へ乗せる。口を大きく開けて、餃子を頬張った。
「よくわかんないけど、その女子と道草でも食ってたんじゃないでしょうね」
「そんなことをするわけないだろ。学級日誌を出して、まっすぐに帰ってきたんだよ」
「あっそ。なら、いいんだけど」
小間市の駅までいっしょに帰って、そのときに有栖川のうちへ誘われただなんて、口が裂けても言えない。
「そういえば、ひな。柚木さんのことを知らないか?」
「ことちゃん? 今日は学校を休んでたね」
「今日、部室に来なかったから、ちょっと気になってるんだ。風邪でも引いたのかな」
「ことちゃんだって、たまにはそういう日があるでしょ。明日は学校へ来てくれるから、にいは心配しなくてもだいじょうぶよ」
比奈子が俺を見て、むふふと笑った。
「心配だったらさ、だいじょうぶ? って、メールしてあげれば」
「は? なんだよ、それ」
「ことちゃんもきっとさ、ひとりで寂しがってると思うんだよね。だから、ほら。早くっ」
何が、早く、だ。さっきは心配するなって言ってたじゃないか。
「俺が心配しなくても、だいじょうぶなんだろ。だったらメールなんて、しなくていいじゃないか」
「そうだけどさあ。一言くらいメールで送ってあげてもいいじゃん。ことちゃんのことが心配なんでしょ」
「そうだけど、体調を崩してるのにメールなんて送られたら迷惑だろ。余計に気を遣わせることになる」
「ことちゃんは、迷惑じゃないと思うけどなあ」
比奈子が箸を完全に止める。
俺をじっと見つめて、どっきりに仕掛けられた芸人を見るかのような顔をする。
「それなら、お前が柚木さんにメールしてあげればいいだろ。俺に変なことを吹き込むな」
「僕はとっくにメールしたよ。お昼にいつもいっしょにごはんを食べてるから、お昼にメールしてあげたもーん」
そういえば、比奈子は柚木さんといつも昼食を摂ってるんだったな。
「だから、にいも、早くっ」
「わかったから、早く飯を食えって。今日は八時から見たいテレビがあるんだろ」
「やだ。にいがことちゃんにメールするまで、ごはん食べたいもんっ」
やだって、お前は聞き分けの悪い小学生かっ。
ごねる比奈子を母さんと説得して、茶碗に残るご飯を掻き込む。
夕食を食べ終えて二階へあがった。
部屋のテーブルに置いているノートパソコンのディスプレイを起こして、電源ボタンを押す。
側面のライトが青く光り、キーボードの下からファンのまわる音が聞こえてきた。
部長のように、小説をたくさん書けるようになりたい。
だけど文化祭が終わったら、執筆への情熱が鎮火してしまった。
そもそも執筆する習慣がないから、目的を失うと気持ちが執筆に向かなくなっちゃうんだよな。
これではいけないのは、わかっているんだけれども。
パソコンから手を離して、机に置いた部長の小説を手に取る。
A4の用紙には、上下のページに分かれて文章が印刷されている。
部長はどんな気持ちで、この小説を執筆していたのだろうか。
――部長は素晴らしいお方でした。そんな部長の跡をわたくしめが継ぐだなんて、畏れ多くて心が震えますわ。
有栖川も、俺と同じところでつまずいている。
あいつが、どんな気持ちで部長代理を引き受けたのか、話を聞いてみたいな。
パソコンの前に戻って、テーブルに置いたスマートフォンを何気なく操作する。
スマートフォンのメーラの受信メールの一覧に、柚木さんから送られたメールが混ざっている。
夏休みや文化祭の前後で、小説のやり取りをしたメールだ。
一覧を改めて眺めると、柚木さんとたくさんのメールのやり取りをしていたことに気づく。
彼女は真面目だから、俺がメールを送ると必ず返信してくれる。
これだけたくさんのメールを送り合っているのだから、たまにメールを送ったって、嫌われたりしないよな。
部活の後輩として、彼女に気を配ってみよう。
スマートフォンの「メールの新規作成」をクリックして、メールの編集画面を立ち上げる。
送信するメールの文面を考えながら、掛け布団をかけて寝転ぶ柚木さんの姿を想像した。




