第114話 そして有栖川は変わった女子だ
職員室にいる担任の先生へ学級日誌を提出して、明日の日直を免れることができた。
提出があまりに遅いので、十分くらい説教をされてしまったけれど。
「申し訳ありません」
放課後の光が消えつつある昇降口で、有栖川がぽつりと言った。
「なんで有栖川が謝るの?」
「だって、わたくしが学級日誌を書く当番でしたのに、わたくしの作業が遅いせいで、宗形くんも怒られたのですから」
さっき説教されたことを気にしているのか。俺はなんとも思っていないのに。
「気にしなくていいよ。あのくらい、俺はなんとも思っていないから」
「で、でもっ、宗形くんは何も悪いことをしていないのですから、嫌ではないですか」
「もちろん嫌だけど、先生から怒られることをいちいち気にしてても、しょうがないんじゃない? 三年間も学校にいれば、一回や二回はこういう日があるんだから」
有栖川は返事をしてくれない。
暗い顔でうつむいている。せっかくの美貌が台無しだ。
女子が落ち込んでいるときは、どんな言葉をかければいいのだろうか。
「当番は黒板消しと学級日誌で分けたけど、俺も日直だったんだからさ。連帯責任でしょ。だから俺が百パーセント悪くないっていうことはないよ」
「そんなことはないですわ。連帯責任だなんて」
「それに、有栖川が学級日誌を書くのに苦戦していたことに早く気づいてあげられたら、提出が遅れることもなかったんだから、俺にもやっぱり責任はあるよ」
言葉をかなり考えてみたけれど、有栖川はそれでも納得してくれない。
「見回りの先生が来るから、とりあえず学校を出よう。見つかったら、また説教されるよ」
「え、ええ。そうですわね」
下駄箱からローファーを取り出して、上履きと履き替える。
有栖川が俺を茫然と見つめて、自分の下駄箱から革靴を取り出した。
リボンがついている、ヒールのような形状の革靴だ。
赤みのある靴の表面は、砂埃が付着していない。新品同然の輝きが、美しい艶を生み出していた。
「な、なんですの」
有栖川が余裕のない表紙で言う。
「ごめん。きれいな靴だなと思って」
「そ、そうですかっ」
有栖川が恥ずかしそうに赤面する。
「この靴は、誕生日にお母様から買っていただきましたの。大事にしたいので、毎日手入れをしていますの」
それはすごい。しかも、さっき「お母様」って言ってた?
「そうなんだ。有栖川は物を大事にしてるんだね」
「そんなことは、ありませんわっ」
「それにくらべて俺は、ほら。こんな感じさ」
右足を少し上げて、つま先を有栖川に見せる。
買ってから手入れなんて一度もしていないローファーのつま先は、傷と砂埃で艶を失っている。
有栖川は少し困った顔をして、
「少し、痛んでますわね」
俺を気遣ってくれる。微妙にすべってしまった。
有栖川と並んで昇降口を出る。
いっしょに下校すると付き合ってるみたいで、胸が少しだけどきどきする。
「宗形くんは靴の手入れをしないのですか?」
「しないね。やろうと思ったことすらないし」
「そうなのですか。よい靴ですのに、もったいないですわ」
「靴の手入れなんて、みんなしないからね。有栖川はえらいと思うよ」
「そんなことはありませんわ」
有栖川が上品に言う。
「それに靴の手入れって、どうやればいいのか、わかんないからね」
「わたくしも、くわしい方法は存じ上げませんけれど、大事に扱えば物は長く使えるって、お母様がおっしゃっていましたから、やはり手入れをした方がいいと思いますわ」
やっぱりお母様って言ってるな。有栖川って、噂通りのお嬢様なのかな。
ものすごい豪邸に住んでいて、白髪の渋い執事に靴を毎日磨いてもらってたりして。そんなことはないか。
「わかったよ。帰ったら調べてみるよ」
「ええ」
校門を通り過ぎて、片道一車線の長い坂道を歩く。
車の交通量の多い県道は、今日もセダンやワゴン車が行き来している。
駅へ向かって坂道を降りていると、漫研の部室の鍵を返していないことに気づいた。
「有栖川。そういえば、部室の鍵を返していなかったから、返すよ」
「部室の鍵?」
有栖川が立ち止まって首をかしげる。放課後に渡された高級そうなキーケースを見せると、「まあっ」と声を上げた。
「そうですわ。部室の鍵を宗形くんに渡したままでしたわ」
「危なかったよ。俺も返すの忘れてたから」
「そうですわね。わたくしも学級日誌のことで頭がいっぱいでしたから、部室の鍵をすっかり忘れていましたわ」
学級日誌のことをまだ引きずっていたのか。
「じゃあ、はい、これ」
「ええ。今日は助かりましたわ」
有栖川がキーケースを受け取る。大事そうに鞄へしまった。
「このお礼は、いつかお返しして差し上げますわ」
「え、いいよ。お返しだなんて、そんな」
思わず遠慮したけれど、有栖川は駅の近くの交差点の前で、決然と顔を上げて、
「いいえ。それでは、わたくしの気が済みませんわ。有栖川家の者として、しっかりとお礼をさせていただきますわ」
江戸時代の武家に嫁いだ娘のような堅苦しさで言った。
有栖川って、やっぱり変な女子だ。
「わかったから、早く帰ろう。有栖川は電車で帰るの?」
「ええ。ですけど、今日は帰りが遅いので、お迎えを呼んでいますの」
お迎え、ですか。
「へえ。そうなんだ」
「駅で待たせているので、ロータリーのどこかに車を停めてると思うんですけど」
有栖川が額に右手を当てて駅のロータリーを眺める。
「あっ!」と明るく声を立てて、
「これから、おうちに来ませんか? うちの車でご案内しますわっ」
とんでもない提案をし出したから、腹の臓物が喉から出てきそうになった。
「えっ、マジで?」
「嫌ですか?」
「嫌というか、クラスの男子が女子のうちに行かないと思うんだけど」
恋人として付き合っているわけでもないのに、うちになんて行ってもいいのか?
有栖川は俺に断られることが予想外だったのか、学校を出るときみたいにしょんぼりして、
「そ、そうですわね。こんな時間に誘われても、迷惑ですものね」
俺の考えとかなりずれた理由で納得する。
「そうだよ。もう夕飯を食べる時間なんだから、有栖川のうちにお邪魔したら悪いよ」
「わかりましたわ。それでは日を改めまして、また申し込みいたしますわ」
日を改めて誘う気なんですか。
有栖川のうちは気になるし、何より女子から誘われて有頂天になりたいくらいだけど、ただのクラスメイトがうちにあがってもいいのかなあ。
道幅の広い交差点の信号が青に変わる。
信号待ちをしていた車や歩行者たちが一斉に動き出す。
「俺は歩いて帰るから。この辺で」
「ええ。ごきげんよう」
有栖川が丁寧にお辞儀をする。
中世ヨーロッパの貴婦人のように身をひるがえして、交差点の横断歩道を歩いていった。




