第112話 有栖川って不器用?
六時間目の終業のチャイムが教室に鳴り響く。
日直の仕事は、学級日誌の感想欄に一日の感想を書いて、担任の先生へ提出することで完了する。
となりの席に座っている有栖川が、学級日誌を机に広げている。
右手に持ったシャーペンは、ほとんど動いていない。
「有栖川。だいじょうぶ?」
「だ、だじょうぶですわ。すぐに書き終わりますわ」
有栖川が早口で言った。
「俺が感想を書こうか? 適当に書いておくから」
それとなく気配りをしてみるけど、有栖川は凛々しい顔を崩さずに、
「余計な気遣いは必要ありませんわ。学級日誌は、わたくしが担当すると決めたのですから、責務を全ういたしますわ」
執事のような堅苦しい言葉で俺の提案を断った。
だけど、ホームルームが終わっても学級日誌は書き終わらない。
有栖川は感想の文面が気に入らないのか、二行くらい書いた感想を消して、書き直してまた消すことを繰り返している。
教室の壁掛け時計を見やる。十五時三十分を過ぎている。
柚木さんは、早ければ十五時四十分くらいに文研の部室へ来る。
「有栖川、ごめん。俺、そろそろ部室へ行くよ」
「え、ええ」
有栖川が不安げな様子で空返事をするが、
「待ってっ。宗形くん」
机のフックにかけていた鞄をとったときに、彼女に呼び止められた。
「なに?」
「あなた、文研の部室へ行くのよね」
「そうだけど。部室の鍵を持ってるのは俺と先生しかいないから」
有栖川がシャーペンを止める。何かを考えているのか、しばらくうつむいて、
「その、漫研の部室の鍵も、開けておいていただきたくて」
有栖川が鞄をとって、中を漁り出した。
「いいよ。漫研の部室はとなりだから、部室の鍵は俺が預かるよ」
「助かりますわっ!」
暗かった有栖川の表情が、ぱっと明るくなる。
胸の真ん中にある何かが、どきっと跳ね上がる。
有栖川が鞄の内ポケットからキーケースを取り出す。ブランドのロゴが入った、高級そうなキーケースだ。
「それでは、申し訳ありませんけれども、よろしくお願いしますわ」
「わかったよ。まかせといて」
有栖川の胡蝶蘭のように白い指先が、俺の右手を包み込む。
心がまた踊る。顔が熱くなった。
「じゃあ、俺は行くからっ」
「ええ」
逃げるように教室を飛び出した。
有栖川から渡されたキーケースを見やる。大企業のOLが持っていそうな、ブランドもののキーケースだ。
ファッションブランドなんてまったく詳しくないから、このキーケースのブランドも俺は知らない。
ダークブラウンのフォーマルな雰囲気とシンプルなデザインが、かなり大人っぽい。
廊下の階段を降りて二階へ移動する。文研と漫研の部室の前には、四、五人の部員たちが待っていた。
文研と漫研の一年生たちだ。
彼女たちは集まって談笑している。その中に四橋さんの姿もあった。
「ごめん、遅れちゃって。部室を開けるから」
「はいっ」
一年生たちが元気な声で返事する。
「有栖川さんは遅れて来るから、漫研は適当にはじめちゃってね」
「わかりましたっ」
文研の窓側の島の席へ座る。部室を見まわすが、柚木さんの姿がない。
「柚木さんは、今日は休み?」
廊下側の島の席に着く一年生へ声をかける。一年生たちが互いに顔を見合わせる。
「わかりません。同じクラスではないので」
「あたしも違いますっ」
柚木さんが来ないなんて、珍しい。忙しい日が続いてたから、風邪でも引いたのかな。
机にかけた鞄から、一冊のライトノベルを取り出す。
早乙女さんが執筆している小説「水と樹の精霊ちゃん」の第四巻だ。
夏休みに小説の指導をしてもらった義理を果たすつもりで、あの人のライトノベルを読みはじめたが、気づいたら四冊目に突入していた。
昨今のライトノベルっぽい、可愛い女の子がたくさん出てくるハーレム系の物語だけど、文章はあっさりしていて読みやすいし、世界観も意外としっかりしてるから、参考になる部分がたくさんある。
なんて、作者には口が裂けても言えないけど。
「こんにちはー」
部室の教壇側の扉が、ゆっくりと音を立てながら開かれる。
高杉先生の眠そうな顔が、戸口からにゅっとあらわれた。
「あいり先生、こんにちはっ」
「はい、こんにちはっ」
先生が部員たちに挨拶して、俺の右斜め前の席に座った。
「あれっ、柚木さんは来てないの?」
「はい。体調でも崩したんじゃないですかね」
「そっかぁ。この時期は風邪を引きやすいもんね」
「先生は一年生の現国の担当ですよね。柚木さんが学校を休んでたかどうか、わかるんじゃないですか?」
「えっ、あ、そ、そうねえ」
先生が、不意打ちを受けたゲームのキャラクターのように後ずさりする。
「そういえば柚木さんはいなかったわね。先生も心配してたのよぅ。おほほ。おほほ」
柚木さんが登校していなかったことに気づいてなかったんですね。
「だ、だいじょうぶよっ。明日になったら、来てくれるから」
先生が身を乗り出して、俺の読むライトノベルを覗き込んできた。
「宗形くんは何を読んでるの?」
「これは、早乙女さんの書いているラノベですよ。いろいろ教えてもらったので、お礼のつもりで買ってるんです」
「早乙女さん?」
先生が小学生のようにとぼける。
「早乙女さんですよ。忘れちゃったんですかっ」
「そんな人、いたっけ?」
「いましたよ。夏休みに先生が紹介してくれたじゃないですか。プロの小説家で、智子さんの従姉弟の」
「智子の? ああっ! その早乙女さんねっ」
先生が手を打って言う。
「早乙女さんって言うから、どの早乙女さんなのか、思い出せなかったわ」
あの早乙女さん以外にも他にいるんですかっ。
「夏休みにお世話になったから、ラノベを買ってるんだ。宗形くん、えらいわねえ」
「文化祭のときにもお世話になりましたから。このくらいはやろうかなと思いまして」
「そうねえ。どんなところでも人付き合いは大事だもんね。先生も読んでみようかしら」
「うちに三巻までありますけど、貸しましょうか?」
「先生に貸してくれるの? ほんとに?」
「はい。うちの本棚に眠ってるだけですから。よければ貸しますよ」
「じゃあ、せっかくだからお願いしようかしらっ」
先生が屈託のない笑顔で言った。
「そういえば、先生が小説を読んでいるところってあんまり見たことがないんですけど、どんな小説が好きなんですか?」
「えっ、あたしの好きな小説っ?」
先生がまた驚いて後ずさりする。いちいちリアクションが大きい人だ。
先生が額から大量の汗を流しそうな顔で、
「先生は、小説は、あんまり読まない、かなぁ」
小説を読んでいないことを素直に打ち明けた。
「そうなんですね。現国の先生ですから、小説をたくさん読まれてるんだと思っていましたけど」
「う。まったく読まないわけじゃ、ないんだけどね。ほら、四コマ漫画とかがあると、つい読んじゃうから、そっちに集中しちゃうのよ。おほほほ」
先生は四コマ漫画が好きなんだな。木戸先生に会ったら、こっそり教えておこう。
「四コマ漫画だと、アニメで放送してる、じょテニが面白いですよね」
「あっ、じょテニ知ってるの!? あれ、めちゃくちゃ面白いよねえ。穂乃果が大好き!」
じょテニは、高校の女子テニス部を舞台にした萌え系の四コマ漫画だ。
深夜アニメでありがちな漫画だけど、俺も何気に毎週観ている。
穂乃果は主人公でドジっ子の女の子だ。俺は穂乃果の相方の青空が好きだな。
「先生は穂乃果が好きなんですね。俺は青空がいいかな」
「青空ちゃんも可愛いのよね。真面目でツンデレっぽいところが最高!」
先生は意外と萌え系のアニメや漫画が好きなんですね。
この様子だと、恋人はしばらくできないんだろうなあ。
「宗形くんって、アニメとか観るのね。ストイックに小説ばっかり読んでるんだと思ってた」
「そんなにストイックじゃありませんよ。ストイックな読書家は、ラノベなんて読みませんから」
「それもそうよね」
「俺も漫画やアニメは好きですからね。面白ければ、なんでも観ますよ」
普通の人よりも小説をたくさん読んでいるけど、小説に強いこだわりがあるわけじゃない。
ジャンルや媒体に縛られるより、いろんな作品を柔軟に吟味した方がいいと俺は思う。
「そうなんだあ。宗形くんって意外とアニメが好きなのねえ」
俺を眺めて、先生がしみじみとつぶやいた。