第105話 文研の次の部長
狐塚先輩が、少年誌の主人公みたいな顔で教頭先生を見やる。
「一度決めたもんは、何があっても貫かねえと示しがつかねえ。この勝負は、俺が勝手に持ち出したもんだ。だから、少なくとも俺にはペナルティを課さねえと、筋が通らねえよ」
すごい言葉だ。狐塚先輩の壮烈な思いに、俺は息すらできない。
「狐塚くんっ。此度の勝負の責任者である私が許すと言ったのだから、それでいいではないか。それなのに、なぜきみは、私の言うことに従わないのかねっ」
「そいつは、あんたや俺たちに都合のいい、身勝手な発想だぜ。勝負に負けた方に罰を与えると、学校中に言いふらしたんだから、ちゃんと執行しねえと、学校の他のやつらは許さねえよ」
「それはそうだが、漫研の部長を途中で辞めたら、内申点に少なからず傷がつくんだぞ。きみは、それでもいいのかね」
「はんっ。内申なんざ、はなっから眼中にねえよっ」
狐塚先輩が、肩にかけているブレザーの襟をつかみ、部室の天井へと大きく振り上げた!
「漫画家に必要なのは、内申なんかじゃねえ。漫画にかける情熱と、読者を楽しませる心意気よっ!」
狐塚先輩の歌舞伎役者のような台詞が、見事に決まった。
この人は勝負に負けてもストイックだ。そしてプロの漫画家だ。
「とは言ったが、俺以外の顧問と副部長には、どうか情けをかけてやってくれ。今回の勝負は、俺の独断ではじまったもんだから、あいつらには関係ねえ。それなのに、俺の下らねえ賭けに付き合わせるのは忍びねえ」
約束をしっかり守るのと同時に、部員たちへの配慮を忘れない。
狐塚先輩、あなたは最高にかっこいいです。
「わかった。では、きみの心意気を私が責任を持って酌もう」
「よろしく頼んます」
教頭先生が神妙な面持ちで引き下がった。
「あんたはほんまに、酔狂な子やなあ」
部長が呆れてつぶやく。
「へん。これが俺の生き様よ。お前にも口出しさせねえよ」
「そら、あんたが決めるもんやから、うちに口出しなんて、でけへんよ」
「それにな、これは言いたくなかったんだが、連載と部活の掛け持ちがきついから、ここいらが潮時だと思ってたんだよ」
狐塚先輩が、また目を怒らせる。
「文化祭で描いた、つまんねえ漫画を見たときに思ったぜ。この体たらくで、よくお前に勝負を挑んだなってな」
狐塚先輩が発表したあの漫画は、学校を席巻するほど人気だったのに。天才の考えることは理解不能だ。
「あんた、連載まだ続けんの? 受験せんの?」
「あほか! 大学なんて、行ったって意味ねえだろうがっ。高校を卒業したらプロ一本だぜ。連載は絶対に辞めねえよ」
「大学に行ってれば、漫画で失敗しても、他の就職口があるんになあ」
「お前は、ほんとにあそこを受けんのか? 明宝っつったっけ? 超難関のくそ大学」
部員たちにどよめきが走る。
高杉先生が「うそっ」と口に手を当てている。教頭先生まで絶句してるし。
「うちは受けるよ。明文の文学部に入って、文学のこと、もっと勉強するんよ。プロのあんたに勝つためにな」
「けっ。今でも即プロデビューできるっつうのに、嫌味ったらしい。頭いいやつは、これだから嫌いだぜっ」
「あんたは将来のために、もうちょい勉強した方がええやろうな」
「やかましいっ!」
狐塚先輩の苦しい悲鳴に、思わず笑みがこぼれた。
* * *
狐塚先輩や教頭先生のいなくなった部室を、部長はぼんやりと眺めていた。
黒絹のような髪が、夕陽に照らされて輝いている。
「先輩っ」
柚木さんに促されて、俺は部長に言った。
「部長。俺たちも、そろそろ帰りましょう」
部長が身をひるがえす。眠たそうな目を向ける様子に、大きな違和感はない。
手を伸ばす場所に部長はいる。それなのに、手をいくら伸ばしても、部長をつかめる気がしなかった。
部長が首を少し傾けて、にこりと笑った。両腕を伸ばして、俺の肩に優しく手を乗せた。
「そういうことやさかい、むなくん。あと、よろしゅう」
「はい」
「来年は、あんたが部長よ。みんなを引っ張ってってな」
偉大な部長から指名してもらえるのは、嬉しい。この上なく。
でも俺は、部長のようにすごい小説が書けるわけではないし、明文を受験できるほど頭がいいわけでもない。
それなのに、部長の後任なんて務まらないですよ。
「すみませんが、俺には無理です」
部長のぼんやりとした表情に影が差す。
「部長は、俺の実力を買い被ってるんです。今回の勝負で、それがよくわかりました」
「そないなことは――」
「だって、今回の勝負で客を集めていたのは、部長と狐塚先輩だけじゃないですか。俺の小説は、ほとんど見向きもされなかった」
悲しいけど、これが現実だ。俺は部長の足もとにも及ばない。
「部長の期待に応えられるような、部員たちを引き付ける力は、俺にはないです。だから、俺では無理です」
柚木さんが、悲痛な面持ちで俺を眺めていた。
部長が天井を見上げる。首をまた少しかしげて、小さく息を吐いて、
「むなくんは、自分のこと、過小評価しすぎてると思うんやけどなあ」
世を憂う三国志の賢者のように嘆いた。
「前にも言うたけどな。うちは、むなくんの書いた小説が好きなんよ。そら、あんたを買い被ってるとか、贔屓したはるわけではおまへん。あんたの書いた小説に可能性を感じるからなんよ」
そんなことはないです。あなたは俺を買い被ってるんです。
「うちや、さおたんに勝てへんのは、当たり前よ。うちや、さおたんの方が、小説や漫画をぎょうさん書いてるんやさかい。でも、あんただって、今日までぎょうさん、きばってきたではおまへんの」
部長の京都弁のような口調が、優しく包み込んでくれる。
「漫研に勝とったんだってな。あんたや柚木はんが、きばってくれたお陰や。あんたらが、ええ小説をぎょうさん書いてくれたから、漫研に勝つことができたんよ」
「そう、なんでしょうか」
「そうや。うちが言うんやから、間違おらん」
部長がにこりと微笑む。また俺の肩を軽く叩いて、
「小説は、書けばうまくなる。あんたなら、うちやさおたんにすぐに追いつくさかい、自分を卑下せいで、もっと自信を持ってな。あんたなら、ええ小説家になれるよ」
部長らしい穏やかな言葉で激励してくれた。
部長の言う通りだ。今すぐに部長と肩を並べなくていい。これからがんばって、部長に近づいていけばいいんだ。
俺は顔を上げた。
「そういうことやさかい、むなくん。文研のこと、よろしゅう」
「はいっ」
部長の安心し切った顔に、茜色の夕日が差した。




