第10話 ゆったりした部長にふりまわされっぱなし
「そういえば、部長。部室の鍵を持ってないのに、どうやって部室に入ったんですか?」
丸棒を背中に入れている部長が、首をかしげる。
「あら、むなくんが開けてくれとったんやろ。鍵が開いとったさかい、むなくんが気を利かせてくれはったんや思って、部室でちょい休んでたんやけども」
「ちょい休んでた割りには、がっつり寝てましたけどね」
「やあねぇ。こんまいことは、気にしなくてええのよぅ。むなくんの、いけずぅ」
部長がひと差し指でちょんちょんと指してきた。
「それにしても変ねぇ。鍵を開けたんがむなくんではおまへんとすると、だれが開けたんか」
「他に鍵を持っているのは、スペアキーを持っている高杉先生だけです。先生にも話を聞いてみましょうか」
「そやねぇ」
しばらくして一年生たちが部室へやってきた。二年生の女子も今日は数人が顔を出してくれた。
二年生は部長を見ると驚いて、慌てて頭を下げたり挨拶していた。
「なんでみんな、うちの顔を見ると、けったいな顔をしはるんかしら」
「部長が来てると思ってないからじゃないですか」
「あら、うちかて文研の一員なんよ。部室に顔くらいは出すわよ。ねえ、柚木はん」
「そうですね」
部長の背中から伸びている丸棒を見て、柚木さんが冷たく返事した。
「それなら、文研の一員らしい活動をすればいいんじゃないですか?」
「文研の一員らしい活動?」
部長の眉頭が、またぴくりと動いた。
「文研の主な活動は、読書と執筆です。とりあえず長編の小説でも読破してみましょうか」
「臨むとこよ。うちの本気を見してあげるさかい、聖書でも六法全書でも、好きなもんを持ってきておくんなまし」
今日は珍しく部長が起きている。えせ京都弁も絶好調だ。部長の本気が拝めるぞ。
逸る気持ちを抑えて、黒板の近くに置かれている本棚を物色する。
本棚には、部員たちが持ち寄った多くの小説が、ところかまわず入っている。
女子部員の好きな恋愛小説や占い系の本。俺の好きな三国志や戦国武将を主人公にした歴史小説。
そして文学の定番と言えるミステリー小説まで、たくさんの小説が、ジャンル分けされずに並べられていた。
本棚の一段目の「あなたなんて嫌い」という桜色の背表紙が目に付いた。
これは読みやすいし、女子のこのむ恋愛小説だから、読みはじめるのに最適な一冊だ。
「部長、この本はどうですか」
「あら、かいらしい本ねぇ。むなくんはやっぱりセンスええわあ」
「俺のことはどうでもいいですから、とりあえず読んでください」
「むなくんってば、今日はかりかりしてはるわ。反抗期かしら」
部長の戯言には耳を貸さないようにしよう。
「じゃあ柚木さん。俺たちも自分の作業に戻ろう」
「はい」
柚木さんの表情は暗いけど、気にしても仕方がない。俺も静かに本を読んでいよう。
机のフックにかけている鞄から、ハードカバーの小説「北条三代の夢」を取り出した。
戦国大名「北条氏康」の軌跡を描いた、歴史小説の傑作だ。
スピンを辿って本を開く。北条家が三国同盟を締結したところまで読み進めたんだ――。
「いたっ」
ボーリングの球にぶつかったような衝撃が、右の頬に伝わる。反射的に声が漏れてしまった。
静寂の中、部員たちの冷たい視線が集まる。振り返ると部長の旋毛が眼前に迫っていた。
「ちょ、部長っ。寝ないでくださいよっ!」
「いやんっ」
俺は慌てて部長の身体を押しのけた。
「本気を見せるって言ったばかりじゃないですかっ。言ってるそばから寝ないでくださいよ」
「そないなこと言うたって、この本、なんか、うすっぺらいんやもんっ」
「うすっぺらいって、二ページしか読んでないじゃないですか。どれだけ眠たいんですかっ」
「今日はもうええやろ。明日になったら本気出すからあ」
もうええやろって、あなたは聞き分けの悪い子どもですか。
部長が細い目を開いて、俺の読む本を覗いてきた。
「そっちの本の方が面白そやねぇ」
「これは挿し絵のない歴史小説ですから、部長では読めませんよ」
「あら、うちじゃ読めへんなんて、失礼ねぇ。こう見えてもうち、活字は得意なんよ」
「二ページで読むのを諦めたばかりなのに、よく言えますね。親御さんが泣いてますよ」
「うちはハードルが高くなればなるほど、燃えるタイプなんよ。ちゅうことで――」
机を激しく叩く音が部室に響く。突然のできごとに心臓が跳ね上がりそうになった。
「柚木、さん?」
手にしていた本を机に叩きつけたのは、柚木さんだった。
柚木さんはじっとうつむいているが、その細い肩から並々ならないオーラが放たれている。
柚木さんが立ち上がり、とぼとぼと歩いて部長のとなりへ移動する。
固唾を呑む部員たちの視線を憚らずに、椅子を引いて、
「あらっ」
部長の身体を両手でつかんで、俺から引き離した。
「山科先輩のことは、わたしが看ていますので、先輩は心置きなく読書してください」
柚木さんが怒っているところは初めて見た。小学生の頃は、怒ったことなんて一度もなかったのに。
「やっぱりこの本、読んだ方がええんかしら」
部長が珍しく困惑して柚木さんに意見を求める。だけど、柚木さんは暗い表情で返事しない。
「そうですよ。部長のために厳選したんですから、ちゃんと読んでください」
「わかったわあ」
後輩に対しておろおろしている部長も初めて見たかもしれない。
部室の扉が開いて、高杉先生が姿をあらわした。
「あいり先生、こんにちは」
「はい。こんにちは」
今日の先生は、髪を後ろで括って、黒いジャージを着用していた。
上着の袖や裾に鮮やかなピンク色の生地がつかわれている、おしゃれで若々しいデザインのジャージだ。
「今日はスーツじゃないんですね」
「そうなの。来月のゴールデンウィークにバレーボールの大会があるから、その練習を他の先生たちとしてたの」
それは大変だ。先生って忙しいんだなあ。
「その大会は、学校の先生たちが出場する大会なんですか?」
「ううん。先生たちが出るのはママさんバレーよ。だから、近所のお母さん方と試合するの」
「ああ、先生とPTAの交流的な感じですか」
「う。バレーボールが好きな先生が、いるのよっ。だから、先生たちが一丸となって、がんばるのっ」
先生の裏返っている声を聞くと、学校の先生にはなりたくないなと思う。
部長に気づいて、先生が身体を仰け反らせた。
「あ、珍しい。山科さんが起きてる」
「あいりちゃん、ひさしぶりぃ」
「しかも、漫画じゃなくて、ちゃんと小説を読んでる。今日はどうしたの?」
「それがねぇ、本を読めって、むなくんと柚木はんがうるさ――」
「山科先輩っ」
柚木さんの鋭い声に反応するかのように、部長の丸まった背筋がぴんと伸びる。
「先生の受け答えはわたしがしますから、山科先輩は読書に集中してください」
「やんっ。柚木はん、きびしいっ」
おろおろしている部長を眺めている場合じゃない。部室の鍵の件を、先生に聞かなければいけないんだった。
「そういえば先生、部室の鍵を開けました?」
「えっ、鍵?」
「はい。俺が来たときに、部室の鍵が開いてましたので、先生が開けたのかと思ったんですけど」
「そ、そうねぇ」
先生が返答しかねて、目をきょろきょろさせて、
「ごめんなさいっ!」
両手をばちんと合わせて謝罪した。
「あの、職員室のパソコンの調子が悪くて、今朝に部室のパソコンをちょっと借りちゃったの。そのときに、鍵を閉め忘れちゃったのかも」
「そういうことだったんですね。原因と理由がわかってよかったです」
「ごめんなさい。あたし、そそっかしいところがあるから」
「部室のパソコンを使うのはかまわないですけど、鍵の閉め忘れだけは気をつけてください。盗難に遭ったら大変ですから」
「うん。わかったあ」
先生が細い身体を縮める。親に叱られた子どもみたいに素直だ。
「あいりちゃんが怒られてるぅ――」
「山科先輩っ!」
「きゃんっ!」
部長は集中力をなくすたびに柚木さんに呼び止められているし。
ふたりの姿がなんだか滑稽で、部室が自然と笑いに包まれた。