第1話 「ことは」との再会
小学校の三年生か四年生くらいの頃だったかな。妹のその友達は学校の帰りにうちへよく遊びに来ていた。
赤いリボンのよく似合う、おとなしい子だった。名前はなんと言ったかな。
引っ込み思案なのか、最初の頃は話をまったくしなかった。
狭い子ども部屋でいっしょにいるのが気まずそうだったから、そのたびに俺はリビングへ逃げていた。
そんな日常が二か月くらい続いて、夏休みの前の日くらいだったっけ。
その子がまた遊びに来たから、俺は読んでいた本の表紙を閉じて子ども部屋から出て行こうとした。
そうしたら、
「わたしも、好きですっ!」
細い身体のすべての力を込めて告白されたから驚いた。
その子が好きだと言ったのは、俺がそのときに読んでいた小説「学園七不思議」だった。
小説を読む子なんて他にいなかったから、思わぬ同志の出現に胸が熱くなったなあ。
「この本、読んだことあるのっ?」
「うんっ!」
「僕はこれで読むのが三回目なんだ。きみは?」
「わたしは二回読んだよっ」
彼女は顔を赤くして、学園七不思議のストーリーの精巧さと主人公の勇敢さを語ってくれた。
俺が嬉しくなってトリックの素晴らしさを語ると、彼女は「そうだよねっ!」と声を弾ませていた。
その日を境に俺も彼女たちと遊ぶようになった。
妹は俺を歓迎していたけど、俺が彼女と本の話ばかりするとやきもちを焼いて大変だったっけ。
「僕のことちゃんを取らないで!」って泣き叫ぶから、そのたびに母さんから叱られたんだ。
彼女の名前は「ことちゃん」だ。
ちゃん付けで呼ぶのは恥ずかしいから、本名の「ことは」と呼んでいたんだ。
ことはは家庭の都合で転校したから、それっきり行方はわからない。
彼女は今もどこかで本を読んでいるのかな。そうだったら嬉しいなあ――。
「むな、くんっ」
右の肩をとんとん叩かれて俺は我に返った。
「部活見学の子たちが、もうじき来るさかい、そろそろはじめてなあ」
となりの椅子に腰かけている部長は、校長先生の退屈な長話を聞かされているときみたいに頭をうつらうつらとさせている。
「今日から新入生の部活見学がはじまります。我々、文学研究会は小説、ライトノベル、古典などのジャンルを問わずに文学のすべてを研究し、その楽しさと奥深さを校内へ広めるために設立されました。文研の活動規模の拡大を目指し、新入部員を獲得します」
教室のひとつを借り受けている部室には、十名ほどの部員の姿が見える。
四つの机を向かい合わせにつなげたテーブルが並べられ、部員たちは硬い表情で俺に視線を送っている。
「新入生には丁寧な対応をお願いします。部活の説明は俺と部長、顧問の高杉先生で対応しますが、新入生から挨拶や質問をされた場合には無視せず、親切に応じてください」
「はい」
昨晩に寝ずに考えた冒頭の挨拶を、一度も噛まずに言うことができた。
「新入部員の確保は、部活見学の期間のがんばりにかかっています。文研で一丸となってがんばりましょう」
少ない部員たちの拍手が部室に響く。新入生が来るまではいつも通りの部活の時間だ。
「こないに畏まらなくても、よかったんや、ないか……しら」
寝ぼけ眼の部長が俺の肩に寄りかかる。
日本人形のように細くて長い髪が、左の頬をくすぐる。
「ちょっと硬かったですかね。昨日寝ずに考えたんですが」
「まあ、真面目、は……やからぁ」
部長がすべての体重を乗せてくる。
部長のふくよかな胸が俺の肘のあたりに当たってどきっとする。
部長は校内でも抜群のプロポーションを持つ人だし、京都弁のような独特のしゃべり方も魅力的だ。
そんな人にいつもくっつかれるのは、本音を言えば幸せだけど、部活がはじまっているのに居眠りさせてはいけない。
「部活がはじまったばかりですよ。起きてください」
「うにゃぁ」
部長の肩を持って姿勢を直すと、部長は野良猫みたいな声をあげた。
「あいりちゃんは、まだ来いひん、の?」
「職員会議があるみたいですから、高杉先生はまだ来ないですよ」
「そうなんやあ」
「ですから部長が起きてくれないと、俺が新入生に全部説明しないといけなくなるんです。わかりますよね」
「むなくんは、副部長や、から……い、じょ」
部長が背もたれに寄りかかって昏睡しそうになる。
俺はすかさずに本棚にかけていた丸棒を取り出して、部長の背中に入れ込んだ。
「棒は、あかん」
「ちゃんと起きてくれたら棒をとってあげます」
「むなくんの、えっちぃ」
部長は首の後ろをつかまれた猫のような体勢で、意味不明なことを口走った。
「さっきは、めずらしう、ぼうっとしい……やけど、なんか考え……」
部長は寝てばかりいるけど勘の鋭い人だ。俺が物思いに耽っているのを見抜いていたんだ。
「はい。過去の思い出について思い耽っていました」
「そうなんやあ」
「小学生のときに仲のいい友達がいたんですよ。その子の記憶を急に思い出しまして、部活がはじまるまで時間が少し空いていたので、知らぬ間に空想していました」
「むなくんにも、空想したい、過去が……あるんや、ねえ」
部長がまた俺の肩にすべての体重を乗せてくる。
「部長には思い出したい過去はありますか?」
「んんっ?」
「部長にもまた会いたい人や、行きたい場所があるんじゃないですか?」
「そ、ないん、わから……へん」
部長の細い顎が俺の肩に乗っかる。
寝息が頬に当たり、俺の欲情が容赦なく掻き立てられる。
俺の戸惑う気持ちを他所に部長は眠りこけてしまった。
部活がはじまって二十分が経過する。新入生はあらわれない。
教室の扉が開くたびに緊張が走る。
しかし姿を見せるのは、さっきお手洗いで退室していた部員だった。
部員の澄ました顔を見るたびに、ため息が漏れそうになった。
部員たちもいつもと変わらない部室の寂しい風景に興味を殺がれて、思い思いの活動をしていた。
部長の抱き枕になっているのは、そろそろしんどくなってきた。
「あのお」
鞄から本を取り出したとき、縁のない眼鏡をかけた男子部員が声をかけてきた。
「どうかした?」
口下手な彼は恥ずかしそうに顔を紅潮させて、教室の後ろの扉を指した。
「ぶ、部活、見学の人が、来たからっ」
その瞬間、手にしていた本を机に落としてしまった。
空いた扉の向こうに、ふたりの女子生徒が立っていた。
下ろし立ての制服に真っ白な上履き。
戸惑いと緊張を隠せない初々しい姿は、新入生だとひと目で判別することができる。
そのうちのひとり。右側で佇んでいる女の子のあどけない表情に、俺はかつてない衝撃を受けてしまった。
白い肌に少し丸みを帯びた赤い頬。
瞳は宝石のように煌いて、俺をまっすぐに見つめ返している。
ストレートの細い髪は、肩にかかる程度の長さでカットされている。スカートの裾が膝の近くで揺れていた。
似ている。小学生のときにうちによく遊びに来ていたあの子に。
いや、そんなはずはない。
あの子は小学生の頃に遠い場所へ引っ越してしまったんだ。
「ふぇっ?」
左の肩のそばで部長の気配を感じた。けど俺はその女子生徒から目を離すことができなかった。