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悪役は嫌だ、と公爵令嬢は言った

作者: Tone

 最後の方の文章が抜けていたので追加いたしました。申し訳ありません。2016.08.29

 ある午後の昼下がり。


 王宮の中庭、青く生い茂る大きな木の下。その木陰で幼い子供が二人──少女と少年が互いに本を広げて静かに読んでいる。その周りからは「あらあら」「まあまあ」「仲がよろしいのね」と大人たちが微笑ましそうに二人を見ていた。しかし、周りの大人たちをよそに二人の子供の表情は真剣そのもの。黙々と本を読んでいる。


 そして、重苦しい表情で少年が顔を上げた。「ねえ」と少女に声をかけると少女も引き締めた表情で顔を上げる。二人は同時に声を出した。


 それは少女と少年だけの約束。


 二人にとってはとても重要であり、互いに幸せになるための大事な約束。








 自室の窓の外は、夕焼けによってきれいな茜色に染まった空が徐々に暗くなりつつあった。

 大学での、その日最後の講義も終わり、各々思うままに過ごす夕暮れ時。ある者はさらなる勉学に励み、ある者はスポーツに励み、ある者はアルバイトに励み、ある者は友人と楽しく遊ぶ。なんてことはない日常。今日も一日平穏に終わる。アニス・ファイアブランド公爵令嬢は家にたどり着くまではそう思っていた。


 今日はきっと夜の星がきれいでしょうね、と若干現実逃避をしつつ、ちょっと自慢の長く伸ばした金髪をいじりながら、少し時間の経た紅茶に手を付けた。

 あ、おいしい。甘いものが欲しくなるわ。


 紅茶で一息ついて、高鳴る鼓動を抑えながらアニスは目の前にある現実を見る。この状況をどう解決するか、頭を働かせるが集中できず、どうもよい解決法が思いつかない。とはいえ、何もしないわけにはいかず、とりあえず在り来たりな一手を投じてみた。


「ねえ、いつまでも落ち込んでいても仕方ないでしょう、ウィル。きっと次があるわよ」


 目の前で項垂れている男性──ウィルフ・ブラックバーン第二王子をアニスは励ました。それでも目の前の王子さまは重い空気を漂わせ、アニスの一手は意味をなさなかった。


 さて、本当にどうしようかしら? とアニスは頭を少し悩ませる。このまま重い雰囲気でいるのも気まずいことこの上ない。だが、この雰囲気を打破する方法も思い浮かばない。何とかして励ましたいのだが、諸事情により内心ガッツポーズをしているアニスには良い案が思いつかなかった。今、下手に口を広げれば、うっかり彼を傷つけることを言いかねない。それはまずい。そのようなことを仕出かしてはアニスにとって、好ましくないことになってしまう。


 大事なのはこれからである。私に有利な良い方向に流れを持っていくためにも、きちんと状況を把握することが重要になってくる。


 まず、アニスとウィルフの仲は婚約破棄(仮)の仲である。まだ正式に決定してはないが、二週間ほど前にウィルフの方から「大事な人ができたから、婚約解消をしたい」と受け、その正式な手続きをしている最中であった。つまり、今の状況は婚約破棄されたアニスが婚約破棄したウィルフを励ましているという何とも不思議な状況に陥っている。


 そして、この状況を作り出した事の始まりはウィルフの「別れた」の一言である。家に帰りついて間もなく、訪れたウィルフの開口一番の言葉だった。一瞬、何を言っているのだろうと呆けてしまったが、放っておくわけにもいかずにアニスの部屋に招いてこの状況に落ち着く。


 現状わかっていることは、一、ウィルフは二週間前に婚約破棄を言い渡したこと、ニ、そのウィルフが「大事な人」と別れたこと。この二点のみだ。明らかに情報が足りない。何をすればいいかなんて、わかるはずがない。だが、黙っていても話が進むはずもない。


 アニスは俯くウィルフに恐る恐る問いかける。


「……それで、あなたはどうして私の家に来たのかしら?」


 私の問いにウィルフは少し顔を上げ、目を逸らした。


「前の婚約解消の話をなかったことに……」

「……わかりました。まだ正式に決定したことではないので、何の問題もありません」

「…………ありがとう。本当に申し訳ない」


 そう言って会話が途切れた。沈黙が場を支配する。予想以上に沈黙が辛い。暗くなりすぎて、こちらの気が滅入ってしまう。


「あの、先ほども言いましたが、落ち込んでいても仕方ないでしょう。また、必ず次がありますから、前を向いていきましょう」

「ああ、そうだな……」

「ウィルは引く手数多でしょう。落ち込む必要なんてどこにもないじゃない」

「そうだな……」

「……あの」

「ああ……」

「聞いてる?」

「……そうだな」


 ダメだ。会話が成り立っていない。話が頭に入らずに、私の言葉が右から左に流れているだけだ。


 面倒な。その一言に尽きる。


 どうして私はこんな面倒な男を……。この男とあんな約束を……。本当に悔やまれる。まあいい、今大事なのはそこじゃない。大事なことは、どうやってウィルフ・ブラックバーン第二王子をこの状態から脱却させるかである。


 第一に励ますことだが、既に失敗に帰している。励まし方が悪いと言われれば、それまでだ。私自身、励まし方のセンスがないと実感した。以前、同様のことがあった時も、励ますことに失敗し、時間に任せるしかなかった。


 あの時は何もできなかった。だが、今と昔は違う。公爵家の一人娘として恥じないように努力を怠らずにしてきたつもりだ。そして、その努力に見合う成長をした自負が私にもある。そして、何よりも私たちはあの時から年を重ねた。あの時とは違い、両親の許可なく飲酒ができる年齢へとなったのだ。


 ふふふ、と少し余裕のあるように笑みを浮かべ、アニスはふと思う。考え方を変えよう。時には柔軟な発想が必要だ。というか、考えるのが面倒になった。


「ベル」

「はい、お嬢様」


 部屋の隅で待機していたアニス専属侍女を呼ぶ。彼女の名前はベル・ブリストル。幼いころよりアニスに宛がわれた侍女で、アニスにとって姉のような存在であり、良き理解者である。そのベルを呼んで何をするのかというと、簡単だ。


 ウィルを励ます会もとい失恋パーティー──他人の失恋を肴に楽しくお酒を飲む会を開くのだ。


 ウィルを励ます?  そんな面倒くさいことはやってられるか。暗い雰囲気でグチグチと話すなんてまっぴらごめんだ。それなら、お酒でも飲んでグダグダに語り合った方がいい。それに嫌なことがあったのならば、酒の力で忘れてしまえばいい。至極簡単、万事解決。


 そして、私も限界。


「お酒とそれに合うものを用意してき──いえ、用意するから手伝ってちょうだい」


 そう言って、アニスは立ち上がる。そして、ウィルが「え?」と顔を上げた所にニッコリと笑顔を浮かべる。


「何回も言ってますが、ウジウジしすぎて話が進みません。なので、お酒でも飲んで、すべて吐き出しましょう。明日は休日ですし、気が済むまで愚痴にでもなんにでも付き合いますよ」


 ぽっかーんと呆けた表情を取るウィル。そのままアニスは続けた。


「少々準備をしてきますので、ここで大人しく待っていてくださいね」


 何かを言おうとしたウィルに背中を向けて、颯爽と部屋を出た。ベルもアニスに続き、部屋を出る。


「ガルト、婚約解消の件をお父様に伝えてきてください」


 部屋から出て即座に、外に待機していた厳つい騎士に言う。ガルト・セントーラス。それが彼の名前だ。ガルトもベルと同じく幼少期の頃から護衛として私に仕えている一人である。


「かしこまりました。お嬢様」


 返事をしたガルトが一向に動こうとしないことにアニスは首をかしげる。


「どうしたの?」

「お嬢様……チャンスですからね」


 ガルトがにやりと笑い、余計な一言を言った。


「ななな、ううううるっさ──」

「では、行って参ります」

「──ちょ、待ちなさいっ」


 アニスが動揺している間に、ガルトはそそくさと立ち去ってしまった。


 まままったくガルトは何を言っているのだか。ちゃチャンス? いったい何のチャンスだというのか? 今、ここで、やろうとしていることは失恋パーティーもといウィルの失恋を笑ってやる会なのだ。いや、確かにチャンスだ。彼女ができたと私の前で楽しそうに振る舞うウィルが鬱陶しかったのだから。思いっきり笑う機会を──


「──お嬢様」


 後ろからベルに声をかけられ、ビクッと体が跳ねた。


「何故、逃げるのですか?」

「ベルまで何を言っているのかしら?」

「冷静を装っても手足が震えていますよ」


 はあっとベルがため息をつき、アニスに目をやる。


「いいですか、お嬢様。今、ウィルフ様は非常に弱っています。彼女さんと別れてしまったことで傷ついているのです。ですから、そこに付けこむべきです。今ここで、お嬢様が優しく介抱して差し上げことで、ウィル様にお嬢様が一人の女性であると意識させるのです。お嬢様、不安にならずとも大丈夫です。男なんて、へこんでいる所に優しくしてあげればコロッといきますよ」


 一気に捲し立てられ、アニスは返答に困り、ベルから目を逸らした。


 どうしてこうも私の周りにはズカズカと物を言う者ばかりなのだろうか。こちらとしても、心の準備というものが必要なのだ。


「なのに、何故部屋から出られますか。せっかくの二人っきりですよ? チャンスの中のチャンスですよ?」

「・・・・・・ぅう」


 あの雰囲気で二人きりなんて、私には無理です──なんてベルに言えそうにもなかった。ただでさえウィルが独り身に戻ったことで、内心嬉しさでパニック状態であったのに、あの暗い雰囲気を打破して惚れさせるなんてことできるはずがない。そんな高等テクニックを持っているなら、既にウィルを落としている。


「はあ、ここでへたれても仕方ないですよ。ウジウジしすぎても事(、、、、、、、、、、)は進みませんよ(、、、、、、、)お嬢様(、、、)。思い切ってぶつかってください。必ずうまくいきますから。むしろ、今までうまくいっていないことがおかしいんですから」

「そんなのわからないじゃない」

「いいえ、わかります。お嬢様がウィルフ様に、好きです、と伝えれば、必ずうまくいきます。ですので、はっきりと、好きと言ってください」

「むむむ無理よっ。そそれで断られでもしたら──」

「だからといって、何もしないのですか? また、他の方にウィルフ様を取られますよ」

「そんなことは・・・・・・」

「二度取られてること、自覚してください」


 ぐうの音も出ないとはこのことなんだろうな、とアニスは思った。


「お嬢様! 悟った表情をしないでくださいっ」

「…………はい」


 気圧されて後ずさるアニス。ベルはそんなアニスを逃がすまいとがっちりと肩を掴んだ。


「お嬢様、お願いです。お願いしますから、あなた()に仕える私たちを安心させてください」

「はい、わかりました……」


 ここまでされてはアニスも頷くしかなかった。ただ、こちらにもタイミングというか、準備というか、いろいろと時間が必要なのだ。しかし、必死の形相で訴えるベルを見て、覚悟を決めないわけにもいかない。


「頑張る……頑張るわ、私」

「本当にでしょうか?」

「本当……よ?」

「本当の本当にですね?」


「しつこい、本当よっ」と言った所で、ベルがパッとアニスから離れた。そして、なんとも嬉しそうな表情でにやりと笑う。その笑みを見た瞬間、アニスに背筋に悪寒が走った。


「わかりました。では、私共々一丸となって只今より(、、、、)一層お嬢様に協力させていただきます」

「え、いや、今じゃなくても──」


 アニスの言葉を遮るように、パンパンとベルが手を鳴らした。すると、アニスの後ろに足音もなく侍女が二人現れた。「え、何──」と言いかけた瞬間、両腕を捕まれた。がっしりと組まれた腕は振り解こうにも解けない。左右を交互に振り向けば、侍女に笑顔を向けられた。


「え、え、え」


 戸惑うアニスに、ベルは言った。


「私はお酒と軽食の準備を致します。お嬢様はお召替えください。あなたたち任せましたよ」

「はい、お任せください。侍女長様」


 アニスの両脇の侍女たちが元気よく返事をした。「え、いやっちょっ──」と戸惑うアニスをお構いなしに侍女たちは引きずって行く。


「いやいや、何するの? ちょっと、え、え、ベルぅぅぅ」


 私はいったい何をされるのだろうか? お召替え? いやいや、ベルのあの笑みはそれで済むのだろうか? 済むはずがない?


 頭の中がグルグルと混乱している中、ベルを見やると、引きずられていくアニスに深くお辞儀しているのが見えた。








「──ふぅ」


 侍女二人に連れていかれたアニスに深々とお辞儀をして見送ったベルは、やれやれと一息をついた。


 あのお二方は、どうしてこうも拗れているんですかねえ。理解できませんよ、全く。


 心の中で愚痴りながら、くるりと振り返る。そして、少しだけ開いているアニスの部屋のドアから、中を窺った。不自然にも少しだけ開いたドアは、もちろんわざとだ。ベルが閉めるふりをして、わざと少し開けたままにしておいたのだ。どうしてそんなことをしたのか──廊下での会話を部屋の中に筒抜けにするためである。さり気なく、というか、堂々とお嬢様がウィルフ様に好意がありますよと知らせるためである。不自然にドアが開いていれば、失意中のウィルフはともかくアニスは気づきそうであるが、全く気付かなかった。


 さすがはお嬢様。動揺すると途端に周りが見えなくなる欠点は把握済みですよっと。後々は克服してもらいたいですけどね。今回は感謝します。


 わざとらしい感謝の心を持ちながら、ベルは部屋の中をそおっと見た。部屋の中のウィルフの様子は、アニスが出て行った時と全く変わらない。ただ、うなだれるようにイスに腰掛けている。部屋の外のやり取りに気付いた様子の欠片すらない。そんなバカな、という思いを飲み込み、ウィルフの後ろに目を移す。そこに佇むのは、ウィルフ第二王子付きの侍女アリシア・R・ロイス。短めに揃えられた金髪に、張り付いた笑顔が特徴の彼女がこちらに微笑みながら、首を横に振った。それを見て、今度はベルがうなだれる。


 マジかぁ、あれでスルーですか……。


 大きなため息を付いたところで、「何をしているんだ、君は?」と背後から声を掛けられた。振り返ろうかと思ったが、なんとなしに癪に触れたので止めてドアを閉めた。


「いえ、ウィルフ様の鈍感さというか頑固さに呆れていただけです」

「それはアニス様も同じだろう」


「ほう、私の前でお嬢様を馬鹿にしますか?」と振り返りながら、背後の人物にガンを飛ばす。ただ背後に立っていた人物は、ベルの威圧を物ともしなかった。


「相変わらず過保護すぎるだろう。少しはウィルフ様たちを信じたらどうだ?」

「信じてますとも!」


 キッ、と睨んだが、目の前の男にため息を吐かれた。デリック・ヴァルチャー。それが彼の名前。ウィルフ様付きの騎士である。


「だったら、大人しくしていろよ」

「無理です。あのお二方は仕事関係は有能ですが、プライベートは完全に方向音痴の無能なんですよ。何もしなかったら、絶対変な方向に突っ走ります」

「お前がそれを言うのか?」

「私が言って、何が悪いんです」


 突っぱねるような態度でベルはデリックに応対する。これにも理由がある。デリックが何かとベルに突っかかってくるからだ。仕事でも私事でも何かと絡んでくる。やれ仕事を手伝おうかとか、やれ暇はないかとか、とにかくしつこいのである。だから、ベルは今回もいつものようにあしらうつもりだった。


「それはともかく、週末暇だろう。演劇『両手いっぱいの花束を』のチケットが運良く (、、、)手に入ったから一緒に行かないか? 見たがっていたろ?」

「…………お断りします」

「ついでに言うとS席だ」

「……お断り──」

「さらに予約必須の有名カフェ『M&F』に行く予定だ」

「………………」

「もし君が来ないなら、アリシアでも誘おうかな?」


  その言葉を聞いて、ベルは本日何度目になるかわからないため息をついた。そして、呆れた目でデリックを見て、言葉を漏らす。


「趣味が悪い」


 ぽつりと出た言葉にデリックが少し動揺した。ベルが発した言葉は、デリックの予定についてではない。むしろ、行き先の選択は素晴らしいだろう。演劇を観て、その余韻に浸りながらカフェで一息つく──なんて休日の過ごし方としては申し分ない。ただ、そこでベルや、ましてやアリシアを誘うとはセンスがない。


「誘うなら、もっと適当な貴族のご令嬢がいるでしょう。何故、私やアリシアを誘うんです? はっきり言って女性を選ぶセンスがなさすぎます。悪趣味極まりない」


「あー、うん」とデリックが言葉を濁す。


「まあ、なんだ……他の子は忙しくて都合がつかなかったんだよ。チケットも予約も無駄にするのはもったいないから、来てくれると助かるんだが……その」


 ベルは頭を悩ませる。ここまでされて気づかないほど、ベルは鈍感ではない。もし気づいていなかったら、ウィルフ様を笑えないだろう。しかし、どうしてこんなにもベルに好意を抱くのか理解出来なかった。アリシアまで出して、気を引こうとするデリックをベルは本当に理解出来なかった。


 どうして私だけが? ──そう思って、頭を振った。自身の黒歴史が頭をよぎり、不快感に襲われる。だからといって、デリックに当たるわけにもいかず、自分の奥底にグッと飲み込んだ。


 少しの沈黙。


 デリックがその沈黙に耐えられずにソワソワし出した。それを見てベルは考える。さすがにここまでされて断るのは、なんとなく罪悪感が湧いた。ただ、相手に勘違いをさせる訳にもいかない。適当に付き合って手酷く断ろう。そうすれば、デリックも諦めるだろう。そこで、自分の考えがひどく矛盾していることに気づいたが、とりあえずそのことは隅に置いておいた。


 今、重要なのはアニスお嬢様のことだ。こんなことに頭を悩ませるなんて無駄なことしている暇はない。


 そう。だから、これは仕方ないことだ。仕方のないことなのだ。


「仕方ありませんね。付き合ってあげますよ」

「本当か!」


 デリックに喜びの表情が浮かぶ。


「ただし、一つ条件があります」

「条件?」

「はい。今からいろいろ準備して、お嬢様を連れてきます。ですから、それまでにウィルフ様をもう少しシャキッとさせてください。それが条件です」

「了解した! 任せておけ!」


 条件を聞いたデリックが意気揚々とウィルフ様のいる部屋に突入したのをベルは見送る。これはお嬢様の為にも仕方のないこと。そう心の中で言いくるめ、ベルはさっそくお嬢様の準備に取りかかった。


 ついでに、デリックチョロいと思ったのは内緒である。


 まあ、私も甘いんでしょうが……。








 元々、アニスとウィルフの婚約自体は貴族社会にありがちな親同士が決めた政略結婚である。とはいえ、政治的な思惑が強いわけでなく、単なる王家や公爵家存続のための婚約であり、王家や公爵家の人間が生涯伴侶も持たずに独り寂しくいるのもアレだよね的な感じで決まった婚約だ。そのために、婚約の拘束自体はさほど強くはない。なので、互いに好きな人ができたのならば、そちらを優先してもいことになっている。ただアニスのファイアブランド公爵側からは言いにくいことではあるが……。


 ともかく、このアニスのファイアブランド家とウィルフのブラックバーン家の政略結婚は本当に保険の意味合いでしかない。それに加え、アニスとウィルフの両親は共に政略結婚自体は気にする必要はない、愛する人が出来たのなら教えなさいと両者に伝えており、両親らは根っからの恋愛結婚押しである。そして、そのように言い続けられたアニスとウィルフは、当然恋愛結婚に意識が向き、政略結婚は避けようとする。尚且つ、いけなかったことが、二人が幼い頃から本を読むことが好きだったことである。


 二人一セットのようにして過ごしてきた幼少期。二人が何をして過ごしたかというと、もちろん読書である。二人で仲良く一緒に絵本なり、児童書なりを読み、様々な物語に触れてきた。それは決して怒られることではなく、誉められることだ。ただ、今回のアニスとウィルフの拗れに関しては、ここが最大級の原因であった。


 二人が読んできた様々な物語。特別な物語は何もない。よくありふれた物語の数々。


 勇者が魔王を倒し、世界を救う物語。悪いドラゴンに攫われたお姫様を救う物語。悪い魔女を退治する物語。怖いお化けが出てくる物語。


 何も特別なことのない誰もが読んだことのあるような物語。もちろんこれらの物語が悪い訳ではない。ただ、このように本を読んでいけば、言わずもがな次々に新しい物語を読んでいく。そして、当然、短い物語から長い物語へ、さらに単純な物語から複雑な物語へとレベルアップしていく。


 たくさんの物語を読んでいく内に、アニスたちは出会ってしまった。


 政略結婚を題材にした物語に。


 望まぬ政略結婚を押しつけられたお姫様を王子様が救う物語。政略結婚相手に邪魔される身分違いの恋を少女が成就させる物語。


 このような物語は二人にとって、今まで読んだ物語と違い、大きな衝撃を与えた。二人はこの種の物語にのめり込んだ。感情移入とか、そういう次元の話ではなかった。アニスたちの置かれた状況がそのまま物語に現れたのだ。加えて、最後の結末まで明確に書かれた状態でだ。しかも、物語の登場人物も心なしか容姿がアニスたちに似ていた。互いにきれいな金髪にきりりとした目。悪役と言われればそうかもしれないと思える二人の要旨。そこまで一致してしまえば、二人にとって、もうそれは預言書でしかなかった。二人のこれからを明確に描いた悪魔の書としか言いようがなく、そうとしか思えなかった。


 無論、二人はたかが物語だと思おうとした。しかし、物語を読み込めば読み込むほど、呪いの書のように捕らわれてしまい、たかが物語だと言えなくなってしまった。むしろ、物語の通りになってしまいそうで身動きが取れなくなっていた。


 言ってしまえば、この時二人は互いのことを意識していたのだろう。だが、好きだとか愛しているという気持ちを理解するには二人はまだ幼すぎた。自身の気持ちがどのような物だとわかっていなかった。ただし、互いに相手を不幸に陥れることはしたくないと考えていた。


 アニスはウィルフが好きな人をいじめるなんてしたくなかった。

 ウィルフは自分の我が儘でアニスを縛り付けるなんてしたくなかった。


 お互いに相手を不幸にすることは願わず、幸せな明るい未来が訪れるように願った。


 これにより、二人は一つの結論に辿り着いた。


 政略結婚なんてぶち壊してしまえばいいと。互いに別の愛する人を見つけて結婚すればいいと。


 こうして二人は互いに愛する人を別に見つけて幸せになるという誓いを打ち立てたのである。








 そして、時が過ぎ、思いも寄らぬ誤算──いや、誰もが予測出来たであろう誤算とも言えない誤算にアニスはぶつかってしまった。


 それは十八歳の夏、青春真っ盛りの夏。


 アニス自身がウィルフのことを好きであると自覚してしまったのである。


 きっかけは、ウィルフに初めての彼女が出来たこと。それを聞いた時は、アニスは自分も負けていられないと初めは思っていた。私も素敵な彼氏を作ろうと意気込んだはずだった。だけど、ウィルフの報告以降、心にぽっかりと穴が開いたように寂寥感を感じてしまった。今まで、ずっと一緒に過ごしてきたから、ウィルフと別々に過ごすようになって寂しく感じているのかもと、アニスは何となく考えていたが、彼女と楽しそうに過ごすウィルフを見て、アニスの心がチクリと痛んだ。彼氏を作ろうと意気込んでいたことも結局やる気が起きず、悶々とした日々を過ごしていた中、気分転換に読書しようとした時に気づいてしまった。


 あれ? これは恋愛小説によくある負け組幼なじみの心情ではないかと。

 よくある長年友達として付き合ってきたけど、その友達が彼氏彼女作って初めて好きだったと気がつくパターンでないかと。


「…………嘘やん」


 と、貴族のお嬢様らしからぬ言葉をアニスが発して、パニックになってしまったのは仕方ない。次の日に熱を出して寝込み、鼻水ダラダラで涙を流したことは記憶の奥底に厳重に封印している。


 以降、アニスの苦悩の日々が始まった。ウィルフを好きだと自覚してからは彼氏を作れるはずもなく、物語の悪役よろしく彼女持ちのウィルフにちょっかいを掛けれるはずもなく、結局何もできない日々を過ごすことになる。


 ウィルフが一人目の彼女と別れた後、もちろんアニスはアプローチを仕掛けようとした。アニスの持つ知識を総動員して。しかし、アニスの恋愛知識は偏っていた。本好きのアニスは物語を参考に考えてしまった結果、アイツら馬鹿じゃねーのという結論に至った。所詮は空想の産物であり、現実でやったらドン引きされる代物でしかなかった──ただ痴女じゃんとアニスは思った訳である。


 実を言うと、アプローチとして充分な方法もあったのだが、自身の気持ちに気づいてから、何もできなかったアニスにはハードルが高かった。


 要するに、アニスはヘタレになってしまっていた。


 どうして、ヘタレになるまでの過程を初めから事細かに思い出していたかというと理由がある。今までのアニスは、自身はヘタレではなく、普通であると使用人等によるアニスヘタレ説を否定してきた。


 だが、今日は違う。今なら声を高らかにして断言できるだろう。


 私、アニス・ファイアブランドはヘタレであると。


 ヘタレには大胆なアプローチはできない。ヘタレにはヘタレなりのヘタレな──ではなく、優しいアプローチの仕方があるのだ。使用人たちはそこら辺をしっかり理解してほしい。


 だから──


「──無理だって! こんな格好でウィルの前に行くのは無理だって! マジで無理だから!!」

「お嬢様、言葉使いが雑になってますよ。それに、先ほどお嬢様は頑張ると言ったではないですか。女に二言はないでしょう。さぁ、早く行きますよ」

「あれは嘘です! 嘘なんです! だから、こんな痴女みたいな変態みたいな格好で行けないって! 絶対に嫌われるっ、引かれる!」

「嘘はいけません。ですが、大丈夫です。殿方は意外と痴女や変態を好まれます」

「そんなの嘘よっ。絶対嘘っ。行きたくない、絶対行きたくない!」

「既に準備は終わっています。残りはお嬢様だけなんですよ」

「でもっ──」


 ──こんな姿でウィルの前に出られるわけがないでしょう!


 現在のアニスの姿──それはネグリジェ。普通のネグリジェならば問題はなかった。普通のならばだ。だが、これは普通とは尽く違う。異様に裾が短いのだ。普通のネグリジェならば足をすっぽりと覆ってもいいはずなのに、今着ているネグリジェの裾は膝上で止まっている。さらに肩も大きく曝け出している。


 露出が多くないか、と思うのは仕方がないことだろう。というか、ネグリジェの裾が膝上とはどういうことだろうか? 座ったら見えてしまうではないか! これでどうやって人前に出ろと言うのか? 完全に痴女ではないか!


 声を荒げて言ってやりたいが、ここはひとまず落ち着こう。叫んだだけでは、問題の解決にはならないのだから。聞く耳を持たないものに、声を荒げても意味がない。まずは現状をしっかりと把握し、そして、解決策を模索するべきなのだ。


 慌てるべきではない。落ち着いて問題を処理するべきだ。


 さて、自分自身の現状を見てみるとしよう。


 一つ、肩を曝け出している──まだ許容できる問題だ。大胆に見せているが、私だってウィルを落としたいと考えている。恥ずかしいが、これくらいは許容しよう。

 一つ、裾が膝上までしかない──これは、許容範囲を超えた大きな問題だ。こんなのはただの痴女だ。ベルは問題ないというが、そんなわけあるか。一介の女性としての地位が痴女に転落するのだ。問題ありまくりである。だが、一つ考えよう。このまま無理やり連れていかれても、部屋の中ではタオルケットと膝に掛けておけばいいのではないだろうか。そうすれば、見えるなんて事態を避けることができる。部屋の中ならば、ベルたちも手出しできないだろう。いい考えだ、これで行こう。


 そして、最後の一つ。何とこのネグリジェ、布地が──


「透けてるんですけどおおぉぉお」アニスは声を最大限に荒げて、叫んだ。肩が見えているとか、裾が短いとか、そんな些細な問題の解決策など放り投げた。冷静に解決策を講じることなど、どうでもよくなって発狂するレベルの問題だった。


 何と現実は非情なことか。


 これでは、ただの露出狂の変態だ。何故、自ら犯罪者になる道を歩まねばならぬのか。


「いーやーだーっ」


 アニスはまるで子供のように駄々をごねて、その場に座り込み、必死の抵抗を見せる。


「はあ、お嬢様……」落胆の表情を隠そうともしないベル。「失礼します」と言って、抵抗するアニスを軽々しく肩に担いだ。


「あ、ちょっ、ずるい!」とアニスは手足をバタバタさせるが、ベルはピクリともしない。


「ずるくないですよ。元々、私は力持ち(、、、)なんですから」


 人一人担いでいる事を感じさせない足取りで、ベルはウィルフの待つ部屋へと足を進めていく。


 まずいまずいまずい。このままでは本当にド変態の称号を得てしまう。アニスは必死に考えた。しかし、腕っぷしで敵うはずもないベル相手にどうすれば良いかもわからない。


 もう泣いてもいいだろうか? 


 本気で泣きたい。そう思ってアニスは、ズズッと鼻をすすった。それを知ってか知らずかベルが救いの一言を言った。


「それに、大丈夫ですよ、お嬢様。私もその姿でウィルフ様の前に出ろと言うような鬼畜ではありません。あの子たちに任せたとはいえ、さすがにやりすぎですからね」


 その言葉にアニスの表情がパッと明るくなる。そうだろうそうだろう、さすがにまずいだろう。この格好はさすがに公爵令嬢として駄目だろう。さすがはベル。自慢の私付きの侍女である。ちゃんとやって良いことと悪いことの線引きができている。


「そうでしょう。これは間違っているわよね。そう思うわよね、ベル」

「ええ、そう思います。ですので、ちゃんとお召ものを用意していますよ」


 ベルの肯定に表情が緩むと同時に、ほっと息をつく。これで最悪の事態は避けることができた。

 最も、この格好の諸悪の根源となった人物の言葉であるが、ベルはアニスにとってマイナスになることはしない。そのことに掛けては、アニスはベルに絶対の信頼を置いている。


 ただ、アニスの信頼とは裏腹に、ベルが何かを企むかのようにニタリと口元が弧を描いていた。


 当然、上機嫌になっていたアニスはベルのその様子に気が付くはずがなかった。







 人類は幾度となく、醜い争いを起こしてきた。金、地位、名声といった己の欲望のために。または、恨み、誇り、野心と言った己の内なる想いのために。人々は他者を傷つけ、蹴落とし、争ってきた。


 血で血を洗う争い。延々と終りの見えない不毛な争い。それが人類の求めているものだと言わんばかりに。気の遠くなるような昔、それこそ有史以来、人は休むことなく争い続けている。争いがなかった時代はないと、歴史学者が言う通りにどんな時代であれ世界のどこかでは争いは発生している。今、現在、アニスのいるシドレイ帝国は平和の一言を言えるような状態であるが、シドレイ帝国の隣の隣の国など不穏な空気を出しているし、もっと離れた所は絶賛ぐっだぐだの紛争中である。このシドレイ帝国でも、内部に不安がないわけではない。火種はどこにでも転がっている。このように、平和と争いはどんな時代でも隣り合わせ。純粋な平和など存在しない。


 何故、人は争うのか?


 それは、アニスが争い溢れる人類史を学ぶ上で当然浮かんできた疑問だった。特に生き物として一番重要である命を金ましてや名誉、誇りのために捨てるなど理解しがたいものだった。そんな物のために命を捨てるくらいなら、必死に生きて幸せを掴むべきだと何度思ったことか。


 生きてこそ、命に価値が与えられる。死などに与えられる命の価値など存在しない。


 そう思っていた──時期が私にもありました。


 なんと愚かしい価値観に捕らわれていたのだろう。名誉や誇りは時として命よりも重い。例え、死んでしまうことになろうが引けない時があるのだ。そのことにもっと早く気づくべきだった。


 例え、ベルに負けると分かっていたとしても、挑むべきだったのだ。全身全霊の力を持って。まあ、五秒もかからずに伸されるのは分かっているのだが、今この場においての後悔は減少できるだろうと、本当に後悔している。


「一つ聞きたいことがあるのだが…………何でそのような格好になっているんだ?」


 初めの頃よりも正気を取り戻し、テーブルを挟んで座っているウィルフの一言に、アニスは答えることができなかった。


 そんなことは私が聞きたい……。どうして私はこんな格好をしているのだろうか。


 ただ、一応最悪の事態は回避できていた。今のアニスの格好はスケスケなネグリジェではない。ネグリジェの上に一枚だけ大人しめのローブを羽織っている。このローブはベルが用意したものだ。


 しっかりと隠してこそ、お嬢様の現在のお召し物が威力を発揮するのです、と意味の分からない持論をベルに語られてしまった。意味が分からない。確かにネグリジェは隠れている。だが、その上に一枚羽織っているだけというのは、さらに変態度が増している気がする。


 認めたくないが、今の私は露出狂のソレと同じではないか? いや、同じである。


 ああ、何ということだろうか。今、私は性犯罪者としてウィルフの前に存在している。そんなことはあってはならないことなのに。もう、部屋の窓を割って飛び出したいくらいだ。だが、まだウィルフに私の格好はバレていない。ウィルフからしたら、単に突然ローブを羽織ってきている女に見えているだけなのだ。


 まだ、このピンチを乗り切れる可能性はある。


 もうこの際、ウィルフの失恋どうのこうのはどうでもいい。さっさとウィルフを酔い潰して寝かせればいいのだ。そうすれば、私の醜態なんて見られない。


「さっきから俯いて、どうしたんだ。アニス」


 アニスを覗き込むようにウィルフが顔を近づけた。不意に近づいたウィルフの顔にドキリと胸が高鳴る。それを誤魔化すように酒瓶を片手に立ち上がった。


「さあ、今日は飲みましょう! とことん飲んで、嫌なことを忘れましょう!!」

「あ……ああ」


 ウィルフが若干引いているが、今はお構いなしだ。テーブルに並ぶ数々の酒の肴。なぜか、アルコール度数の強いものばかりが目立つお酒たち。明らかにベルたちの思惑が透けて見えるが、そんなことには目を向けない。向けた所で意味はない。今大事なのは現状打破だ。


「ウィル、私とあなたでどちらが強いか勝負しましょう」


 必ず、このピンチを乗り切って見せる。そのためにアニスは一番強いお酒を掲げ、一歩を踏み出した。







「────────────────ぅ、ううん」


 まるで鉄の棒で頭を殴られたかのような鈍い頭痛にアニスはベッドの上で目を覚ました。ゆっくりと目を開け、頭痛の響く頭を片手で押さえながら体を起こすと、部屋の明かりは消え暗闇が広がっていた。ただ部屋には月の光がほんのりと差し込み、部屋の惨状は見て取ることができた。無造作に食い散らかされた肴に、床にまで散乱している酒瓶。たった二人でどんだけ飲んでいるんだと言いたくなるような部屋の惨状に目を覆いたい気持ちになった。


 何でこんなバカみたいに飲んだのだろうと考え──バッと急いで辺りを見回し、慌てて自身の格好を確認した。アニス自身の格好は最初の時と変わりないローブ姿、そしてウィルフは椅子に座った状態で眠りこけている。一先ずは大丈夫なのかと少しホッとするものの、ある事に気づき冷汗が流れる。


 ──記憶がない。


 アニス自身がいつ寝たのか、ウィルフと何を話したのか、どのように飲み会が進んだのか。というか、当初の目的のピンチを乗り切ったのかどうかさえ覚えていない。服装はきちんと整って乱れはないから、大丈夫なはずだ自身に言い聞かせるが、いまいち自信がなかった。調子に乗って変なことしていないと言い切れない自分に嘆きたくなるが、今はグッと堪える。今やるべきことは、慌てたり、落ち込んだりすることではない。


 落ち着け自分、落ち着け自分と深呼吸をする。状況を確認しろ。それが一番大事なのだ。


 まずはどの程度記憶がないのか。どの程度──お酒を持って、ウィルフに迫り、飲ませて、自分も飲んで、どうしたんだろうか? あれ、思ったよりも早くない。記憶途切れるの。あれっ、あれっ? あと、何を話したんだっけ? そう、あれだっ! あれ、あれってなんだ? 何を話したんだ? あ、そう言えば、何か嬉しくなるようなことを聞いた気がする。だけど、思い出せない………………とりあえず、記憶のことは置いておこう。


 まあ、記憶がなくとも、この通り服装も乱さずにきちんとベッドの上で寝ていたのだ。それにウィルフも椅子でぐーすかと呑気に寝ている。これで何かがあったはずがない。


 ふと、ウィルフの方を見る。ウィルフは椅子に背を預け、頭を上に向けて寝ていた。あれは明日首が痛くなるなと思いつつ、気持ちよさそうに寝ているウィルフを見て無性に腹が立つ。ただ寝ているウィルフに腹を立てるなど完全な八つ当たりであることは理解しているが、それでも腹が立った。


 どうして、私の方がもやもやしているのかっ!


 最初はウィルフの方がウジウジと悩んでいたはずなのに、気が付けば私の方がこうも悩んでいる。あーもうっ、とウィルフを起こさないよう声には出さずに憤慨する。しかし憤慨した瞬間、頭がずきりと痛んで蹲る。


 ため息をついた。頭痛のおかげで、ウィルフへの怒りが空しくなってしまった。冷静になったということで良しとしよう。


 そろりとベッドから降り、ウィルフの寝ている所に近づく。アニスが近づいても気づく様子もなく、ウィルフはぐっすりと眠っている。ちょんちょんと頬を突くが、起きる気配は微塵もない。


 あれだけ落ち込んでいたのに簡単なものよねぇ。


 眠るウィルフを見て、そう思った。もっと悩むものかと思っていた。悩みすぎて徹夜でもするのではないかと予想していた。それがこの爆睡である。なんだろうなー、と腑に落ちない感じがするがそうは言ってもしょうがない。


 頑張る……かぁ。


 爆睡中のウィルフを見ながら、アニスは今日の決意を思い出す。こちらが動かなくても気づいてくれないかなとそんなあり得るはずのない願望丸出しにしながら、悩む。


 どうやってアプローチしたらいいかも、告白すればいいかも、結局のところわからないのだ。幼いころからウィルフと近くに居すぎたために、今更どうしたらいいか考えもつかない。普段のように接する中で告白するのも何か違う気がするし、改めて恋する乙女よろしくモジモジしながら告白するのも違う気がする。どうせアニス自身から動いたらドギマギして変な空気になること間違いないとアニスも思っている。だからと言って、どうにでもなれと動く度胸はアニスにはなかった。


 でも、ウィルフが寝ている今なら。起きているウィルフではなく寝ているウィルフになら。


 少しは大胆にいけるのではないだろうか。


 いってもいいのではなかろうか。


 そう考えて、胸の鼓動が早くなった。そして、そんなことを考えてしまったアニスは頭を抱え込んだ。


 何を考えているんだ私は。寝込みを襲うなど、それこそ変質者と大差ないだろうに。


 でも────これはチャンスでは?


 いや、でも。いや──練習くらいは良くないか。そう、練習。告白するにもアプローチするにも、きっと練習が必要だ。


 そうだ、練習をしよう。


 では、何を練習するのか。告白か、接し方か。とはいえ、ウィルフは眠っているのだ。寝ている人物に話しかけたり、告白の練習をしても意味がない上に起きてしまったら、どうしようもない。


 アニスはウィルフの顔をまじまじと見つめ、どうしたものか考える。


 その時、ウィルフが「っん」を声を漏らし、身を捩った。その動作にアニスはビクッと驚き、反射的に後ずさる。横を向いたウィルフの顔を見て、アニスの頭に一つのことが思い浮かぶ。


 ──キス、か?


 と思った瞬間、顔が熱くなるのを感じた。アホか私は、と自身にツッコミを入れていた。それでは本当に変態だ。


 でも、頑張ると言ったのは私自身だし。ウィルフが気が付かなければ問題はないのでは。


 いや、問題しかないわ! 絶対に私が後々まで引きずって動揺するに決まっているじゃない!


 さらに激しく自身にツッコミを入れる。しかし、そのツッコミとは裏腹にアニスはウィルフに近づいていた。近づくにつれてアニスはウィルフを起こさないよう息をひそめる。だが、鼓動がさらに早くなり、アニスにとってはうるさくなっていた。きっと顔なんて今までないくらい赤くなっているだろう。


 そろりそろりと近づいて、じっと見つめていたウィルフの顔が大きくなっていく。そして、ウィルフの寝息がかかる距離までに迫った。本当に良いの、と疑問が頭によぎる。


 覚悟を決めろ、とアニスは心の中で叫んで疑問を追い払った。


 アニスはほんの少しだけ唇を尖らせた。もう頭の中はてんやわんやでキスの仕方などわかりはしない。もうここまで来たら勢いだ、とアニスは意気込む。


 そして、アニスの唇がウィルフの唇に迫り────







「見送りはいらないって」

「そういうわけにはいかないでしょ」

「じゃあ、見送りはここでいい。いや、本当に昨日はすまん。おかげで結構、気が楽になった」

「そう。それはよかった」

「んじゃ、またな」

「ええ、また」


 次の日、家のエントランスにてアニスはくだけた言葉で少しやり取りを交わし、ウィルフを笑顔で見送っていた。ウィルフも最後に笑顔で礼を言い、玄関から去っていった。


 お互いに顔を蒼白に染めながら。


 まあ、当たり前であった。あれだけ飲んで二日酔いになるのはわかりきっていた。だからこそ、互いに公爵令嬢や王子としての最低限の言葉遣いにも気が回らず、くだけた言葉で話していた。とはいえ、アニスもウィルフも二人の間柄でそんな言葉遣いがどうのこうのという些細なことを気にはしないが。彼女らの周りがどうのこうのと言うので仕方なく言葉遣いをそれっぽく整えていたに過ぎない。


 ウィルフが玄関から出て、アニスはほっと息をつく。本当に疲れた夜だった。そして、隣にいるベルに声をかけた。


「ベル……吐きそう」

「でしょうね」


 そっけなく答えるベルに助けてと懇願した。実を言うと朝から頭痛い、吐き気がひどいで立っているだけでも辛い。ウィルフが帰るまでは耐えていたのだが、もう限界に近かった。一歩でも動くと公爵令嬢あるまじき惨事を引き起こしそうだった。


「お薬を用意いたしますので、少々我慢してください」


 そう言って、ベルがアニスの前で背を見せて屈んだ。「背負いますから乗ってください」とベルにはお見通しだったみたいで、アニスはベルの言葉に甘えて力なく背負われた。


「吐かないでくださいね。後始末が大変ですから」

「はい……」


 そのままベルに背負われて部屋に戻り、ベッドに寝かされた。見送りに行った短い時間で、アニスの部屋のごみはきれいに片づけられていた。仕事が早いな、と侍女たちに感心しながらも、今にも死にそうな感じで横たわる。


「では、お薬を持ってきますから大人しくしていてください。お水はここに置いてますから、お飲みください」

「…………はい」


 弱々しく返事をするアニス。ベルは薬を取りに部屋を出ようとしたが、何か思いついたかのようにアニスに振り向いた。


「一つ、言いたかったことがあります」

「え、なに?」


 今、言うほど重要なことなのだろうかと首をかしげるアニスにベルが爆弾を落とした。


「どうして、おでこ(、、、)なのですか?」

「ぶほっ」


 アニスは吹いた。公爵令嬢あるまじき反応をしてしまった。でも吹いた瞬間、吐かなかったのは自分でも褒めてあげたいと思いつつ、なぜそのことをベルが知っているのかとアニスはパニックになった。


「え、いや、なんで」

「何でではありません。どうしてあそこまでいっておいて、おでこに移ったのですか? そのままいけばよかったものを……」


 ベルの言葉にアニスの頭が混乱した。


 そう、結局アニスは最後の最後でヘタレてしまっていた。あと少しという所でアニスの心は「あ、無理」と折れて、横にすすっと移動しておでこに軽くキスをしただけだった。それはきっと反省すべき点だろう。もっと心を鍛えないと、という課題ができたのだから。だが、問題はそこじゃない。


 問題は、どうして私がウィルフの唇にキスをしたのではなくおでこにしたのをベルが知っているのか、だ。


「は? いや、でも…………見てたの?」

「もちろんです。全て見ておりました」


 アニスは絶叫した。あの夜の恥ずかしい場面を見られていたのだ。しかも全部。もう居た堪れないとかの次元ではなく、恥ずかしすぎて首を括りたくなる。アニスは手で真っ赤になった顔を覆った。少しでも現実から目を逸らしたかった。


 そこにもう一つ、ベルが爆弾を叩き込んだ。


「あと、お嬢様はウィルフ様に醜態を晒していないと思っているかもしれませんが、ちゃんと晒していますからね」

「…………えっ?」


 アニスの空気が止まった。ベルが続ける。


「こんな二日酔いになるまで呑んだ人間が、服装の乱れもなくきれいにベッドの上で寝れるはずがございません」

「……え」

「では、なぜベッドの上にきれいに寝れたのか──それはウィルフ様がお嬢様をきれいに整えてベッドへ寝かしつけたからですよ」


 ベルの説明にアニスの頭が追い付かなかった。


「しかし、ウィルフ様もあれ(、、)を見て手を出さないなんて……」


 そして、段々とベルの説明に頭が追い付いてくる。


「え、ちょ──」

「では、お嬢様。すぐに薬をお持ちしますので静かにお待ちください」


 そう言ってベルが笑顔で部屋を出ようとする。ベルが部屋を出る直前にやっと頭が追い付いた。


「ちょっと待って、ベルっ!」

「それでは」

「ちょっと待って。ちょっと待っててば、ベルぅぅう!」


 無慈悲にもガチャリと部屋の扉が閉まった。


「え、え、そんな……そん──」


 そして、朝早くからファイアブランド家にアニスの超弩級の絶叫が響き渡った。







 アニスの部屋から出て、コツコツと足早に廊下を歩いていく。


 後ろの方でアニスの絶叫が聞こえるが、そんなものは気にしない。朝になり働き始めている侍女たちでさえ、「まあ、そうなりますよね」といった感じで、アニスの絶叫を気にしていなかった。むしろ、アニスとウィルフがあとどれくらいで公式に交際を始めるかで賭けまで行っている始末。交際は決定事項として、交際までの期間を当てる賭けが侍女内で流行っている。そして昨晩の出来事から、ここ一ヶ月で交際を始める派が活気づいて、一年半はかかる派はどんよりムードを出している。


 もし、このことをお嬢様に言ったら卒倒するだろうなぁ、と思いながら、他の侍女たちに軽く指示を出し、薬の置いている部屋へ向かう。侍女の様子からわかるように、昨晩の出来事はすでに屋敷の侍女たちには伝わっている。恐るべき侍女通信網、伝達速度が速い。ただ、発信源がベル自身であることは、そっと心の内に閉じておく。


 話は切り替え、とりあえず昨晩のアニスはとても頑張った方だろう。欲を言えば、そのままいってしまえばよかったもののとは思うが。それよりも問題はウィルフの方である。


 まさか、お嬢様のあの姿を見ても動じないとは……。いや、動揺してはいたのか? 真面目というか、お堅いというか。周りの公認であるのだから、一つや二つの間違いを犯してもかまわないのに。とはいえ、二人の間柄が進展したのは間違いない。今朝、ウィルフ様、自分のおでこをものすごく気にしていたし……。いくらなんでも、気がついているだろう。


 逆にアニスはウィルフの変化に気づいていない。二日酔いもあり、自身のことで精一杯だったのだろう。気づいたら気づいたで大惨事になっていそうだが。


 このこともお嬢様に伝えておくか? いや、後にしておこう。今、話してベッドの上で吐かれても困るし……。


 フフン、とベルは鼻を鳴らす。何やかんやで、アニスとウィルフの仲が進展したことは嬉しいことなのだ。少しは心の荷が下りたというものだ。


 これからはもっと仲を深めてもらわないと。


 そう思って、ベルは二日酔いの薬のを用意し、上機嫌で踵を返した。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 結ばれずに終わった事。 [一言] デリック、最悪な誘い方ですね。冷める女性、多いですよ。笑 ウィルフは二度も好きな人ができたという事は、アニスは二度失恋した という事でもあるのだから、根暗…
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