6.日常と非日常の混在。
帰宅した如月を待っていたのは、まさに目を疑う状況だった。
良い歳をした人間が二人住まう、ということもあったので、マンションの間取りは2LDKであった。すなわち、二つの部屋があって、リビングがあり、それに併置されたキッチンもあるということだった。
玄関の前に立ち、ドアノブを回すと、あっさりと何の抵抗も無くドアが開いた。
……既視感がすごいな、これ。
平日の午前とはいえ、健全な学生なら学校で授業を受けている時間帯である。
この鍵が開いているということが意味するのが、一体何なのか。
締め忘れであってくれ! いや、むしろ強盗であってくれても構わない!
そう強く念じながら一応小さな声でただいま、とだけ呟きながら靴を脱いで部屋へあがる。そしてリビングへとつながるドアを開くと。
本来なら程よく整理されつつも生活感の感じられる小奇麗なリビングがあり。
その向こうには二つの個室へと続くドアが見られる。
はずだったが。
目の前の光景は、それが自分の家だとは信じられないほどの荒れ様だった。
フローリングの茶色が、見えない。
一体この家のどこにそれだけの物があったのだろう、如月はそこから足の踏み場を見つけることも出来ずにただ立ち尽くした。
立ち尽くして、見た。
その瓦礫の中央、一人正座をしながらこちらを無表情で見つめている少女を。
やばい。直感がそう告げている。
これはやばい。ファビリーズとかナイススティックとか悠長なことを言っている場合じゃない。
一筋の汗が右頬を伝っていく。
いつ爆発するか分からない爆弾―――いや、山中で出会ってしまったクマとの対峙であるかのように、如月は、由比から目をそらさずに、とにかくゆっくりと正座をする。まだ玄関側のフローリングであったからなのか、やけに床が冷たく感じられた。
由比は何も言わなかった。そして何の感情もその顔に映し出さない。ただ真正面からこちらを見据えている。
如月はその視線に言いようのない恐怖感と居心地の悪さを感じながらも、やはり視線は外さなかった。ここで引いたら、×られる。次の瞬間に何が起こるか分からない。確信があった。
そのまま静止した時間が続いた。何度も話す言葉を考えるが、喉がつっかえたかのように声にならなかった。いくら推敲してもしきれていないような不安が身を包んだ。
対峙する(正座の)男と女。
その静けさを破ったのは、意外にも由比の方からであった。
「おかえりなさい」
なんてことはない、普通のその一言の後、由比の左手付近に無造作に転がっていた電球がパリンと音を立てて破裂した。
怒ってらっしゃる。
そんな当たり前のことを再度確認させられる形となった。沈黙が破られたところで、ますます如月は何を言えばいいのか分からなくなってしまった。
「十二時間」
「え?」
「失踪していた時間」
相変わらず無表情、無機質な声色で由比は呟いた。
「携帯電話は?」
言葉の真意がよくわからずにいると、話題が突然変わった。
「えっと、あの、いろいろあって、途中で失くしちゃって……」
とにかく怒りの琴線に触れないよう、手さぐりをしながら下手で返事をする。そうですか、とだけ言うと由比はさらに続けた。
「携帯電話を紛失した後、私に連絡できなかった理由は?」
「それも、いろいろとあって、ちょっと……」
「どうして体に包帯を巻かれているのですか?」
「あのう……、いろいろありまして」
「どうして部屋がこうなっているのか、わかりますか?」
「ええ、その、あ、僕の不手際と言いますか、なんと言いますでしょうか……」
「十二時間。その間の私の気持ちはご理解頂けます?」
「そうですね、その、心配かけてしまったのかなと……」
だらだらと汗を流しながら歯切れの悪い回答をしていた僕に、その時、由比はふと力を抜いたように微笑んだ。
―――助かった。
僕は心の底で、一瞬そう思っていた。
「ごめんなさいは?」
ぱしん。
「……ごめんなさい」
「すみませんは?」
ぱしん。
「……すみません」
「もう二度としませんは?」
ぱしん。
「……もう二度としません」
許してくれるわけがなかった。
直後、猛禽類が如く飛びかかり間合いを詰め、正座している如月の腿に最高に美しいローキックを決め、その痛みと驚きに大きく態勢を崩したところに、上から何度も踏みつけた揚句に足技で暴行を受けた。
今? 今も絶賛暴行中である。
会話途中に入る擬音語は、なんと如月に対してマウントポジションを取っている由比のビンタの音である。信じられないだろうが、如月は、反抗しているわけでもないのに一命令につき一度、妹から張り手を食らっている、という状況なのであった。恐ろしい。
この妹に力勝負で勝とうなどという愚かしい考えも起きない。スペックが違いすぎる。何より、例えなんとかなる可能性があったとしても、ここで反抗すればそれが百倍になって返ってくる。如月は必死に耐えた。
「感謝しております由比様は?」
ぱしん。
「……感謝しております由比様」
「尊敬しております由比様は?」
ぱしん。
「……尊敬しております由比様」
「お美しいですね由比様は?」
ぱしん。
「……お美しいですね由比様」
その後『お仕置き』は数時間続いた。
前日のこともあって、僕の疲れはピークに達していた。そしてそれに反比例するかのように由比は艶々としていた。
お前は女王様なのか。
これで僕が所謂変態紳士とやらであれば、Win-Winの素晴らしく生産的で前向きな関係が結べたのだろうが、残念ながら僕は変態でもなければMでもなかった。例えMであったとしても、妹から仕置きを受けて喜ぶことはできなさそうであった。
「ところで」
「はい」
ソファ下のカーペットにうつ伏せになりながら本を読んでいた由比は、顔をこちらへとは向けずに返事をした。
「君はそろそろメンテナンスの時期じゃないか?」
その言葉を聞いた由比は一度如月に視線を遣って、再度、本に視線を落とした。その時にため息を忘れずに。
「兄さん……、私は今、とても気分がいいんです」
「信じられないね」
「それを害して欲しくないなぁ」
由比が『メンテナンス』と称した通院を嫌がっていることは、如月も薄々と感じてはいた。
「やだなぁー。あれセクハラだよ、ほとんど。兄さんは愛する妹がセクハラされているのを見ていて平気なんですか?」
「いや、だって、正当な医療行為だし。セクハラ言わない」
「あ、それとも、そういう性癖ですか? そういうタイプなんですか? 逆に興奮するんですか?」
「やめなさい!」
兄に変な性癖を印象付けるのはやめなさい。身を乗り出すな。
由比は本をばたんと閉じて今度は仰向けになりながら如月を眺めた。
「兄さんが勉強して私のメンテしてよ。それなら大丈夫なんですけど。むしろ大歓迎なんですけど」
「誤解を生む発言は控えたほうがいいな。今は些細な発言が恐ろしい炎上へと発展する時代なんだから」
「割と本気だったりするんですが……」
「というわけで、明日あたりちょっとドライブはどう?」
由比はむくりと上半身を起こした。
「前置きが無ければ大変魅力的なデートのお誘いなのになぁ」
由比は髪の乱れを直すように自分の頭を撫でながら、小さなため息を吐いた。
病院へ行くことをデートと称すことができる都合の良さには感服するところである。
思った通り通院を渋った由比であるが、そこは長年の付き合いによる功というものもあって、彼女の扱いには多少慣れているつもりだ。案の定、ドライブという単語にするだけで食い付きが変わった。単純すぎる。
こんなようでは社会に出たとき悪い人に騙されたりしないか大変心配ではあるが。
今はその思考を頭の隅に追いやる。由比は不満顔をしているが、明らかにドライブに興味を示している。あともうひと押しだ。多少目つきがギラついていて、肉食獣のそれを思わせるような気もするが、気のせいだろう。全て自分の思い通りに事が進んでいる筈なのだから。
「別に病院に行くだけがドライブじゃないと思うけど」
どうでもないという風を装い、だからどこへ行く、というのは敢えて伏せて、思わせぶりな言葉を投げかける。言っていることは当たり前のことなのだが、その意味を勝手に想像する由比の眼の色はすぐさま変わった。さらにギラついた気がする。
本当に単純な奴だ。
「買い物とか?」
「十分あり得るね」
スーパーで食材でも買っていかないと。
「食事とか?」
「無くも無いな」
あんまんを食べたい気分だ。コンビニにでも寄ろうかな。
「水族館とか? どっか遊びに行くとか?」
「可能性は捨てきれない」
嵯峨根医師の病院は洋風の小奇麗な小児病院で、待合室はおもちゃがたくさんあった。あれをテーマパークの一種として認識するのであれば。
「じゃあじゃあホテルとか?!」
「それはない」
絶対にない。
「……」
そして少し俯きながら小さく、それはそれは小さく舌打ちをする我が妹であった。
「そろそろ、その兄に異性としての感情を持っている体のボケは新鮮味に欠けるし、リアルではかなり引かれるタイプのものだから、止めたほうがいいよ」
それを見て、だから、普段は胸の内に秘めているダメ出しをこのときは不意に口に出してしまった。
すぐさま、言いすぎだったか、と反省し、由比の方に目をやると、口を一文字に結び大変複雑な表情をいていた。ショックを受けているわけではないようか……?
「ぼ、ボケ……」
否、彼女の苦渋に満ちた言葉尻から大分ショックを受けているだろうことが予測された。
「ま、まあ、とりあえず明日は開けておいてもらえる?」
「引かれる……」
その後、由比は僕にはよく分からない次元で酷い落ち込みを続けた。