4.閑話休題、高校三年生(春)
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「ねぇ、ちょっと」
島崎朱莉は僕に話しかけてきた。
彼女は、長く、それでいて、手触りは最高に心地よさそうな、艶やかでさらさらとした髪を肩先で揺らしている。黄金色のその美しい髪を、揺らしている。
特徴的なその髪にまず目がいくのだが、いや、その健康的であるけれどもすらっとした、スカートから伸びる美脚にも思わず目がいってしまうのだが、何より、彫が深いというのか、深みのある、見つめていると吸い込まれてしまいそうな碧眼が特徴的な、美少女だった。そんな彼女と僕が、何故、知り合っているのか分からなかった。それでも僕は『僕』らしく、彼女と話を続ける。
島崎は僕の机に手をついて、一枚の広告を机上に広げた。
「もう受験生でしょ? そろそろ私たちも勉強しないといけないじゃない? 予備校とか通う気は無いの?」
「予備校かぁ。行かなきゃ行けないのかなぁ」
その広告は大手予備校の広告だった。興味の無い僕でも、聞いたことのある名前だった。
「だって、あなた、自分で勉強しないでしょ?」
「するよ。します」
「嘘ついちゃだめだよ。私知ってるんだから」
「何を?」
そう聞いた僕に、島崎は魅力的な笑顔を返した。
こちらもそれを見てしまった以上は何も言えなくなってしまう。
顔が若干熱くなるのを感じて、島崎からは目を逸らしながら話題を変えた。
「島崎は今回も学年一位か?」
そう言うと、島崎は先ほどの笑顔のまま首をかしげ、頭の上にハテナマークを浮かべた。
「と、言いますと?」
「いや、学校の勉強だよ」
「あぁ」
僕の返答につまらなさそうな顔をする島崎。
さっき僕に受験勉強の話を振ってきた人間の顔とは到底思えない。
しかし、そのつまらなさそうな表情は決して自らの成績に対する不信感から発するものではなく、むしろ信頼感由来の幻滅のせいであろうところが、彼女の凄まじいところである。
「私はどうでもいいのよ。勉強は。問題は、如月君、あなたなのよ!」
「えぇ……。それこそ、僕はどうでもいいし……」
「私が良くないわ」
投げやりな僕の言葉に、しかし、島崎はとても複雑そうな顔をした。
不思議なことに、彼女にその表情は全然似合っていなかった。
それを口にするとまた面倒な状況になる(そして、それは大概僕が一方的に困惑させられる)ということ僕は最近学習していた。我ながら、学習の焦点がずれているような気はしていたが。
放課後。クラスメイト達は生き急ぐかのように各々の役割を果たし、霧散していく。
島崎は僕の机の隅に手を置いていたが、いつの間にかそこに腰かけていた。
学校の規定より少し短めなスカートから除く白い曲線がより露わになって、用がある訳でもないのに無駄に鞄の中を漁ってみる。
そうして無駄な足掻きをしている間も、島崎はこちらをじっと見ている。いや、あくまでも僕の視線は鞄の中にある数学Ⅱの教科書の幾何学的な表紙を見つめているのであって、実際にそうであるかはわからなかった。ただ、視線を感じているよう気がするだけである。
「まだ、何か用? この広告は、有り難く貰っておくよ」
そう尋ねたところで、島崎は相変わらず無言だった。
居心地が悪い。
ただし、その無言は、決して不愉快ではなかった。
島崎はたまにこうやって押し黙ってしまう。
それが一体どのような思考から、または感情から、齎されているのかはよくわからなかった。
彼女の視線を感じる。
別に、こちらを見ていると決まったわけではないじゃないか。そう思い込む。
そうしていくらか心が軽くなって、僕は窓の外に目をやった。廊下から最長距離を弾き出すこの列は、そのデメリットとは天秤にかけるまでも無い、このような素晴らしい外界を手に入れることができる。
「部活、行かない?」
そうやってしばらく外を見ていると、不意に島崎は話し出した。
「今日はだいぶ僕のことを苛めたいらしいね。予備校といい」
そういって僕は苦笑する。顔をあげて島崎を見ると、彼女は口の端を歪めた。
「私が学校に来る楽しみだからね」
「他にもっとマシな楽しみを作るべきだ、島崎は」
「例えば?」
再度、苦笑する。
「お前、今からどこに何しにいこうとしてるのさ」
「弓道場に、弓道」
「それでいいじゃん。部活を楽しみに学校へ来る。良いね、良い青春だよ」
「分かってないなぁ」
何が、と聞いたところで、島崎はやっぱり、分かってないなぁ、と繰り返した。
「とにかくさ」
「うん」
「部活行きましょうよ」
島崎は先ほどの言葉を繰り返した。ああ、確かにそういう話だった。
どうやら彼女は弓道部に所属しているらしい。
そして、これまたどうやら、僕も弓道部に所属しているらしい。
「行かない」
どうも彼女は曖昧に濁らせたままでは終わらせてくれない。だから、明確に拒絶した。
「どうして?」
「……」
どうして、か。
別にそこに深い意味があるわけではなかった。
深くはないが、鋭利な意味はあった。
僕を苛む、意味である。
それを島崎に言ったところで、という話である。
「分かって、ないなぁ」
島崎は呟くようにしてその言葉を繰り返した。
「君はさ、私が困ってたら、助けてくれる?」
鳥の羽が宙を舞いながら優しく地へと舞い降りるかのように、ごく自然な流れで島崎は机から降りた。
僕の視線は相変わらず窓の外にあった。
「ああ、助けるよ」
「そう」
ありがとう―――。
何に、ありがとうなのだろう?
そう思ったところで、世界が白く霞む。
***