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3.愛でたい薔薇の棘は抜いてしまおう。

 違和感が蓄積し、疑惑になったのは、アルバイトの仕上げを行う少し前であった。

 このアルバイトは、その仕事元はこの国の政府からのものであって、しかしながら、公のものではない。公であり、公でない。対象の引き渡しは警察で行う取り決めに成ってはいるが、それは「話のついている」ところに限られており、無論、そうでないところへ引き渡せば、話は拗れに拗れて無駄な時間を浪費することになるだろう。

 違和感と言うには、あまりにも根拠が乏しい。直感、と言い換えても良いかもしれない。何気ない会話とか、その所作の節々から、如月は燻る嫌な予感を否定出来なくなっていた。

 深夜の片側2車線道路。赤信号に捕まって、信号待ち。人影も、走っている車も無い。こんな時間なら、点滅にでもしておけばいいのに、と腹の中で悪態をつく。

 参った。それが如月の本音だった。

 確証が無い以上はこちらから動くことは出来ない。あるいは、確証を得られれば言うまでもない。

 探ろう。そう思い、またもや赤信号に捕まった。嫌にタイミングの悪い夜だ。軽く舌打ちをする。その瞬間であった。

 音は無かった。痛みはあった。

「どうして心臓を狙わないのですか」

「これが仕事だから、よ」

 無機質だが、芯のある美しい声だった。なるほど。これが彼女の本質か。こんな女性とお近づきなりたいもんだ。

 刃物が突き刺さっている左足の事は意識から外して、アクセルとブレーキを両足で踏みながらハンドルを右へ目一杯回す。運動方程式に従った計算式通りの遠心力が車体に、そして体にかかった。

 助手席の女を放り出すためではない。むしろ、それは如月自身が車内から逃げ出すための方策だった。

 そのままドアを開けて外へと身を転がす。シートベルトをしていないのが幸いだった。このアルバイト中はある程度の裁量が与えられる。今回ばかりはその裁量に感謝した。

 まず左足を見た。腿あたりに、鈍く光る刃物が刺さっている。見たことで事象が確定して、痛みが襲ってきた。良い狙いどころだ。上手く重要な筋を切っている。

 すぐさまこれを抜くべきだは無いと判断した。そして視線を車内から優雅に現れた女性へと向ける。

「僕が言うのも何ですが、変わったお仕事ですね」

 パンツスーツスタイルの女性は、その目に自信を宿しながら口の端を歪めた。

「お互い、就職先を間違ったようね」

「生憎ですが、僕は正社員じゃありません。まだやり直す余地くらいはありそうです」

 そういうと女性は少し驚いたような表情をした。

「それは意外ね。もうリクルートされていたように聞いていたし、私もそうだろうと思っていたのだけれど」

「僕なんかどこにでもいる平凡な大学生ですからね」

「あら……、それは謙遜なのかしら」

 女性は首を傾げた。

「それとも、『本当』にそう思い込んでいるのかな」

 女性の言葉に引っかかった。僕と彼女の会話はどこかズレていて、噛み合っていない。そんな気がしてならなかったが、それは向こうのやり方である可能性も否定できなかった。深く考えすぎても、相手のペースに飲まれかねない。

 その上、どうやらこの女性、相当の手練れのようだ。戦闘能力に秀でているわけでない如月にも、それは何となしに理解できた。少なくとも、自分では敵わないかもしれない、それくらいの差が、最初の一撃で見て取れた。

 絶対値で上回られている以上、その他の数値で敵を超えなければ、待つのは敗北のみである。その一瞬の隙を突きたかったが、どうやら冷静さでも向こうが勝っているようであった。

「まあ、どちらでも構わないわ。そちらの方がむしろ都合が良い」

「それは一体どんな都合なんですか?」

「今、君が知らなくても良い都合よ」

 そう言い終わるが早いか、保たれていたおよそ十歩の距離が一瞬にして詰められた。

 右足を引いて構える余裕も無く女性の左腕が僕の胸あたりを狙い突き出される。手には新しいペーパーイナイフのようなものが握られていた。

 上半身を捩じり紙一重でそれを躱す。必然的に向かって右方向へ重心がかかった女性の体に左拳で打撃を狙うが、それが相手の体に届く前に足払いを食らう。

 深夜とはいえ街中の道路だ。誰か人が通りかかっても良いものだろうに、全くついていない。バランスを崩した体が冷たいアスファルトの熱を吸収する。熱力学の法則は何時だって絶対だ。

 そんなことをコンマ一秒ほどで考えて、即座に体を右へ転がした。右を選んだのはほとんど勘のようなものだったが、二分の一の確率を上手く潜り抜けた。女性の反動を活かした、左手からのナイフの突きが耳元を掠め、金属とアスファルトの交わう嫌な音色が鼓膜を揺らした。

 そのままなんとか立ち上がる。さあ、どう反撃しようか。

「……あれ」

 そう考えた刹那、右脇腹に鋭い痛みを感じた。視線を遣ると、普通なら考えられない部位に、違和感のある長細い鋭利な影が一つ。

 思わず後退する。痛みからでは無かった。単純に恐怖を感じていた。

 女性はこちらの背を向けたまま立っていた。

「何故、何時、そこに刺さったんだろう、そんな顔をしているわね?」

 彼女が見えていない筈の如月の表情を見事に言い当てた。そして、見えないはずの女性の表情が、如月にも何故か判った。

 美しく、強く、そして冷徹な微笑みだ。

「……化け物じみてますね」

 そう言うと、女性はくすっと声に出して笑った。

「それはあなたの方でしょう」

「僕の方?」

「あなたを殺しはしないわよ、『如月』君」

 それはもう一方的と表現するしかなかった。

 彼女がこちらを振り向く瞬間さえ確認することが出来なかった。気が付いたときには、真正面に彼女が立っていて、そのまま殴り飛ばされていた。

 地面に体を打ちつけ、思わず咳き込む。刺さっていた筈の二本のナイフは何時のまにか姿を消していて、代わりに血液が噴出していた。

「それでも保険は必要よね。私、そういう生き方なの」

 ヒールが地面を叩く音が妙に心地よかった。それが自分の状況を窮地へ追い込むカウントダウンだというのに、不思議なものだった。

 たった一度殴り飛ばされただけで体が動かないのはどうもおかしい。おかしいが、それが現実で有る以上、ここでそれを疑うことに意味は無かった。そして、横たわり身を起こせないでいる如月の真横に、女性が立っていた。

「私、あなたのこと嫌いじゃないわ。さっき会ったばかりだけれど、分かる」

 どうしてそんなことが、と言いかけて如月は激しく咳込んだ。口の中に液体が溜まっている。一度それを吐き出す。嫌な味だ。

 女性はそんな如月に手を加えようとはしなかった。話を続けさせるつもりなのか。

 どうせ勝ち目はないんだ。その気なら付き合ってやろう。

「どうして、そんなこと、分かるんです」

 途切れ途切れに放たれたその言葉に、それを予想していたかのような笑みが辛うじて確認できた。

 女性は屈みこんで、如月の首をぐいと持ち上げた。

「それはね、如月君。あなたの事を痛めつけていると、何故か高揚するからよ」

 嗜虐的な笑みに、如月は思わず苦笑してしまった。

 自分の周りの女性はこんな人ばかりなのか? こっちの身にもなってほしい。

 もはや諦観が思考を支配していた。

 そして、場違いな電子音が響いた。

「……」

 持ち上げられていた頭が無造作に地面に打ち付けられ、たまらずにうめき声を上げた。

 僕じゃない。如月はそう思った。

「今、大事なところなんだけれど」

 瞼を開けると、女性が電話をしていた。

「……言っている意味が分からないわ。……ええ。だから、もうほとんど終わりよ。……それは理解できるけれど、どちらにしろ同じよ。手間もかからないわ、だから……・」

 不機嫌そうな女性の声がその後少しだけ続いて、深いため息の後、女性は電話を切った。

 彼女はじろり、と、その攻撃的な釣り目をこちらへ向けた。

「運が良いわ、あなた」

「……運?」

「ええ。まあ、確証は無いし、原石だし、本当はこんなの納得できないけれど、優先順位というのはつけなくちゃいけない。客観的に順番を付けたら、確かに君は一番ではない。大事な仕事が入ってしまったようね」

 女性は電話をする前と同じように屈みこみ、如月の髪の毛を掴み、頭を持ち上げた。

「あなたを今持っていくのも簡単なことなのだけれど、そしてそうすべきだと私は思うのだけれど、リスクを背負うのも問題ね」

 そう言い終わると、女性は如月の額に軽く口づけをした。

「如月君がニセモノなら二度と会うこともないでしょう。……いえ、その時は個人的に会いに行くのも(やぶさ)かではないけれど」

 先ほどとは違い、今度は優しく如月の頭を横たえた。

 如月には、この屈辱的な仕打ちに対する嫌味の一つも言ってやりたかったが、そんな余裕が体に残っていう無かった。

「ホンモノならきっとまた会えるわね」


 致命傷ではない。それは何となしに理解できた。

 しかし、それも時間が経てば厄介だろう。何より出血が酷かった。

 運転しながら少し眩暈がする。それだけならまだしもハンドルを握る腕がどうも痺れてきていた。

 僕を襲撃した女性が消えて、しばらく。なんとか体が動くようになって、如月は車へと這いずりこんでいた。

 体のことを考えるのならば、すぐさま近くの救急病院へ駆け込むべきだ。

 そう考えるのが普通だったが、これは話が違う。この傷ではきっと事件性を疑われてしまう。

 そのこと自体に問題があるわけではなかった。この事件が表沙汰になることは元より無いのだ。このことで僕に前科が課せられるわけではない。そもそも彼らから示された「仕事」なのであるから。

 「仕事」というのが厄介だった。これは明らかに事前情報の欠陥であった。何故彼女が? だとすれば、これは誘われていたことになる。誘われていたということは、何処かで情報の漏洩があったという可能性を疑わざるを得ない。

とはいえ、僕の仕事の遂行能力に疑問符をつけることになれば、それは避けたかった。しかも、今日は単騎なのである。

 そういうさまざまな場面で働く力学を考えると、僕が行くべき先は一つに絞られていた。

それも賭けの部分が無いわけではない。しかし、あまり深く思考出来なくなってくるのも自覚していた。

こんなとき、田舎なんていうのは、不便だな。

心底そう思いながら必死にアクセルを踏んだ。


 ああ、着いた。

 その洒落た洋風の佇まいをした建物を見て、僕は微かな達成感を感じた。

「……だめだ、だめだ」

 そうして意識が吹っ飛びそうになるのを何とか堪える。

 まだこれで助かったわけではない。

 病院前の駐車場に乱暴に停車して、這うように運転席から降りる。

 見た限り病院の灯りは点いていなかった。こんな時間なのだから当たり前だろう。個人の病院でもあるのだし。

 それでも正面玄関まで這って、透明なガラスの押し戸を叩く。

 叩き割るほどの力は腕に残ってなかった。これはまずいな、と焦りが出始める。

 だいぶ昔に思えたが、先ほど男性を確保したときに使った小さなナイフを取り出して、それでなんとか音を立てる。この甲高い音がなんとか届かないか……。

 普段なら限りなく不愉快な音が、不快な音が、むしろ有り難い。

 こんな気分の悪い音に、気づいてくれ。そもそも、ここには誰も居ないだなんていうオチはできるだけ頭から追い払って。

 ここに来たことには、しかし、ある種の確信があった。それを単なる思い込みと吐いて棄てるのも簡単であったが、こんな意識が薄い自分が自分に見せる幻想なのであるかもしれなかったが。

 でも、あの時も大して変わらなかっただろう?

 かん、かん、ぎぎ、きん、とあらゆる音を模索する。

 遂には頂上高くへと上り詰めた満月より少し歪なそれ。

 虫の音が聞こえてくる。季節は、初夏であった。


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